立ち読み処おそらくみなさん座っていらっしゃるとは思いますが)



An additional episode of the MOON

  冒頭の6ページ分です。





 18歳の誕生日を迎えてから、進藤ヒカルの人生は、少しずつ変わり始めた。

 最初の満月の夜には、平安時代からやってきた陰陽師と出会い、二度目の満月の夜には、塔矢アキラと初めての口づけを交わした。

 あれから三か月。

 初々しい恋人たちは、ひとつの転機を迎えようとしていた。


            ○   ●   ○   ●   ○


「――――へ? マジで?」

 夜食代わりにと持参していた「冬期限定初摘みいちごチョコレート」に舌鼓を打っていたヒカルは、目の前の相手の言葉に、ぽろりと包み紙を取り落とした。

「進藤。うちの碁会所にゴミを散らかさないでくれないか」

 冷静な声で叱責するアキラに向かって、ヒカルは、それどころではないと腰を浮かせた。

「ホントにホントなのかよ! 塔矢先生が引退するって……!?」

 四冠を戴く塔矢行洋が現役棋士を引退する――――。

 世紀の大ニュースに、ヒカルが驚くのは当然である。

 遅い時間まで碁会所に残っていた常連客たちも、碁を打つ手をとめて、こちらの様子を窺っている。ただ、受付係の市河だけは、すでに雇い主から聞いていたのか、いつもどおりの表情で出納記録をつけている。

 ヒカルや常連客たちの驚きをよそに、アキラはケロリとした顔で言ってのけた。

「それほど急ということでもないんだよ。もう三年以上前から、家では話が出ていたんだ」

 湯飲みに口をつけながら、なんでもないことのように言うアキラを、碁会所の面々は、呆然とした表情で見つめた。

「三年以上って、もしかして……」

 ヒカルには、その数字に心当たりがあった。

 行洋とsaiのインターネット対局が行われたのは、ヒカルがプロ棋士になった年の春のことである。saiに負けたら引退すると宣言した行洋を追いかけまわし、ひたすら前言撤回を迫って、なんとか事なきを得た当時を、ヒカルは振り返った。

「あんなに頼み込んだのに。今頃になって、そんなことを言い出すなんて」

 ぶつぶつとつぶやくヒカルに、アキラは、首を傾げながらも説明を続けた。

「中国の甲級リーグに外国人棋士として登録しないかと誘われたらしくてね。どうやら、すっかり乗り気になっているみたいなんだ」

 アキラの話によると、saiとのインターネット対局の結果とは、直接的な関係はないらしく、ヒカルは、ほっと胸をなでおろした。

 それにしても、棋士生命を賭けてネット対局をするなど、当時の行洋は、ずいぶんと血気盛んだったものだ――――と、まあ、これは余談である。

「へーえ。塔矢先生、中国に行くのかあ。それじゃあ、オマエ、おばさんと母子家庭になっちゃうんだな」

 碁界の頂点に立つ棋士の引退よりも、ヒカルには、アキラを取り巻く環境のほうが気になるようである。さすがに、一応、恋人同士の関係になっただけのことはある。

「それは違うよ。母も、父と一緒に中国に行くんだ」

 熟年ともいえるはずの両親が、未だにラブラブな関係を保っていることを、アキラは、少し照れくさそうに告げた。

「ふーん。なんか意外だなあ」

 厳格な雰囲気を漂わせる行洋と、良妻賢母を絵に描いたような明子が、いちゃいちゃラブラブ――――どうにも想像しにくいが、世の中、そういうこともあるだろうと、ヒカルは、二つ目のチョコレートに手をのばした。

「進藤くんったら、またこんな時間にお菓子なんか食べて」

 閉店を告げに来た市河が、「美容の敵よ」と、古い言葉でたしなめる。

「だって、オレ、育ち盛りだもん♪」

「…………」

「なんだよぅ、市河さん。その憐れんだような無言のリアクションは」

 むうっと頬を膨らませてみせるヒカルに、市河は「なんにも言ってないじゃない」と、苦笑した。

 帰り支度をしながら遠巻きに見ていた常連客たちも、育ち盛りにしては、肝心なところが出たり引っ込んだりしていないなと、口には出さないながらも同情を寄せていたりする。

「オレだって、そのうち、マリリンなんとかもびっくりな、ボンキュッボンなナイスバディになるんだからな」

 喩えが古過ぎるのか、正式な人名が出てこないらしい。

「はいはい。これ、進藤くんのリュック。アキラくんのバッグは、こっちに置いておくわね」

「って、全然聞いてないし!」

 何事もなかったかのようにリュックを押しつけてきた市河に、ヒカルは、口をとがらせた。
 もちろん、冗談であることは、互いに承知の上である。

「そんじゃあ、帰るとするか。またね、市河さん」

 それまでのケンカ口調などどこへやら。

 ヒカルは、ダウンジャケットを羽織ると、機嫌よく手を振った。

「進藤。家まで送るよ」

 自動ドアをくぐったヒカルのあとを、アキラもコートを羽織って、あわてて追いかけていった。



「…………めずらしい。ケンカしなかったな」

「二人とも、ようやく恋人らしくなってきたってところでしょうかねえ」

 常連客の北島と広瀬が、自動ドアのほうを眺めながら、思い思いに感想をつぶやく。

「そうだといいんだけど。まだ一波乱ありそうなのよね」

 市河の含みのあるセリフに、二人は顔を見合わせた。

「もしや、市っちゃん。なんか情報持ってるな」

「独り占めなんてずるいですよ」

「うーん、どうかしらね」

 詰め寄る二人をサラリとかわし、市河は、「さあさあ、もう閉店の時間よ~」と、シャッターの鍵をチラつかせたのだった。


              ○   ●   ○   ●   ○


 駅からヒカルのマンションへ向かう歩道橋の上。

「おおっ。いい月夜だぜ。そういや、今日って満月じゃんか」

「ここ最近、満月の夜は、いつも晴れているね」

 平安時代からの珍客があって以来、二人は、妙に暦に詳しくなってしまった。

 九月二十日――――つまり、ヒカルの誕生日の夜。

 千年ほど前の京の都から、陰陽師の賀茂明がやってきた。敵対する勢力の陰陽師の稚拙な罠にかかってしまったとのことだが、詳細は謎のままである。

 何はともあれ、一か月のあいだ、ヒカルの部屋で寝泊まりし、アキラとの仲を取り持って、自分の住む世界へと帰っていった明は、ある意味キューピッドのような役割を果たしたと言えよう。

 満月にちなんで、明についての思い出話が始まるかと思いきや、今日の話題は、やはり行洋引退の報についてだった。

「塔矢先生、もう日本の棋戦には出ないのか?」

 寒空に白い息を吐きながら、ヒカルが尋ねる。

「うん。引退を決心して以来、まったく考えていないみたいだ。気分はもう、すっかり中国の空の下だよ」

 今年度中は、日本棋院に籍を置き、囲碁雑誌への寄稿やイベントへのゲスト参加などの活動は継続するが、来月早々にも、北京に拠点を移す心づもりでいるらしいと、アキラは、父の言葉を代弁した。

「じゃあ、オマエ、あの家で一人暮らしするんだな。あんな広い家に一人ぼっちなんて、寂しくねえ?」

 堂々たる風格の日本家屋を思い出し、ヒカルは、「オレだったら、心細くてやっていけねえかも」と苦笑した。

「いや。あの家は、専門の会社に管理を任せることになっているんだ」

「へ? なにそれ。意味わかんねえ」

「つまり、無人になると、不用心だし家も傷むからね。時々、管理会社のひとに様子を見に行ってもらうんだよ」

「無人って……オマエは? あの家に住むんじゃないのか?」

 歩道橋の階段を降りながら、ヒカルは、ぱちくりと目を瞬かせた。

 すると、アキラは、「あれ? 言ってなかったかな」と、頭を掻いた。

「あんなに大きな家を、ボク一人でどうこうするなんてできないからね。どこかにアパートかマンションを借りて、一人暮らしをする予定なんだよ」

「聞いてねえよっ!」

 あっさりと告げるアキラに、ヒカルは、ガアっと噛みつくように叫んだ。

「そっかあ。塔矢も一人暮らしすんのかあ……」

 ヒカルの目が、何かを企むように宙の一点を凝視した。

  塔矢アキラガ 家ヲ出テ一人暮ラシヲ始メル
         +
  進藤ヒカルハ スデニ一人暮ラシヲシテイル
         +
  二人ハ 一応 恋人同士ノ関係ニアル

 この図式から導かれる答えは――――。

「なあ、塔矢! オレたち、一緒に住まねえ?」

「えっ!?」

 思わず階段を踏みはずしそうになったアキラを気にすることなく、ヒカルは自論を展開する。

「オレたち、つきあってんじゃん? だったら、一緒に住めばいいじゃん。家賃も半額ずつで済むし、電気代とかだって……」

「し、進藤!」

 アキラが、悲鳴のような裏返った声で制した。

「つ、つきあっているとは言っても、ボクとしては、節度を持った清いおつきあいを旨としているのであって、同棲なんてとんでも……」

「なーに古くさいこと言ってんだよ。イマドキ、同居なんてあたりまえじゃんか」

 アキラの言葉を遮って、ヒカルは、カラカラと盛大に笑い飛ばす。

 ――――が。

「……同居?」

 同棲ではなく、同居。

 前者が、濃密な時間を過ごす男女のプライベートな空間を思い起こさせるのに対して、後者は、単なる共同生活を表す。同じ釜の飯を食うとか、老いた両親とともに暮らすとか。まったくもって、色気とは程遠い。

「…………同居、か」

 がっくりと肩を落とすアキラを、ヒカルは、罪のない笑顔で「ん?」と、振り返った。

「うちのマンションは1LDKだから、ちょっと狭いよなあ。せめて2LDKくらいの物件を探さなくちゃ。オレのマンガとゲームとミニコンポだけで、一部屋つぶしちまうもんな」

 そんなヒカルの無邪気な表情を見て、アキラは、脳裏に展開しかけた夢の同棲生活を、ブンブンとかぶりを振って追い払った。

(進藤は、ちっともわかってないんだ! 男女が一つ屋根の下に住むということのなんたるかを!)

「せっかくだけど、進藤。ボクは、キミと一緒に住む気はないよ。あくまでも一人暮らし用の賃貸住宅を探すつもりだ」

 きっぱりと告げたアキラに、ヒカルは口をとがらせた。

「ええええぇぇぇっ! なんでだよぅ。オレたち、つきあってるんじゃねえのかよ」

「なんでだよぅって言われても……」

 ヒカルにせっつかれて、アキラは答えに窮した。

 一緒に暮らしたいという言葉には、衣食住といった日常生活だけでない部分――――具体的に言うならば夜の行為(←結局ぼかしてるし)も含まれているのか。キス以上の関係に進展してもいいという意思表示なのか。

(キミにその覚悟があるのか……なんて、言えるわけがないだろう!)

 一応、人並みの羞恥心は持ち合わせているらしく、アキラは、少し頬を赤らめて咳払いをした。

「とにかく、どうしても、だよ」

 まったく理由になっていない答えに、ヒカルは、さらに口をとがらせた。

「そんなんじゃわかんねえよ。どうしてだよ、理由を言えっての」

「どうしてもだと言ったら、どうしても、だ」

「むうぅ。なんだよ、塔矢のケチ!」

 プンっとふくれっ面でソッポを向いたヒカルに、アキラは、はあっとため息をついた。

「ケチって……。そんな幼いキミだから、一緒には住めないんだよ……」



 嬉し恥ずかし、交際をスタートさせて三か月。

 互いの師匠(アキラにとっては父親だ!)や棋士仲間には、二人の関係をオープンにしてはいるが、そもそも、関係などという意味深な表現は、いささか不似合いだ。

 実のところ、なんの進展もないまま、月日だけが経過している。

 つまり、キスどまりの関係である。

 年頃の健康な青少年たるアキラにしてみれば、先月の自分の誕生日やクリスマスといったムードたっぷりなイベントをきっかけに、一気にアダルトな関係に進みたいと思ってはいたが、いかんせん、敵は手強かった。

 触れるだけのキスで真っ赤になり、ほんの少し舌先でくちびるを舐めただけで、アキラを突き飛ばして逃げてしまう幼い恋人に、彼自身も恋愛初心者である以上、まったくもって打つ手はない。

 そっと肩を抱いたりした日には、「なんだよぅ。重たいじゃんか」と、理不尽にもグーで殴られてしまうありさまだ。

(そんなところも、進藤らしくて好きなんだから、仕方がないか……)

 恋人らしい関係に進みたいけれど、彼女には、いつまでも無垢なままでいてほしい――――そんな矛盾した想いに揺れる十八歳の青年であった。



 そんなふうに思い悩んでいるうちに、ヒカルのマンションに着いてしまった。

 アキラは、いつものように一緒にエレベーターに乗り込み、二階にあるヒカルの部屋の前まで送る。

 ヒカルが、ガチャリと鍵をあけたところで、アキラは、いつものセリフを口にする。

「それじゃあ、ボクはここで」

「おう。おやすみ!」

 さっきまでの不機嫌顔はどこへやら。

 ヒカルは、ニカッと笑って手を振った。

 エントランスまで戻ったところで、アキラは、ヒカルの部屋を振り返った。

「まったく。部屋の前まで送らせるなんて。ボクの自制心を試しているのか? …………いや、違うな。進藤のことだ、送り狼なんていう言葉すら知らないんだろう」

 それなのに一緒に住みたいなんて言い出さないでくれよ、と、ため息まじりに呟く。

 見上げれば、空には丸い月。

「いっそ、狼にでもなってしまおうか……。はあぁぁ……」

 せっかくの満月ではあるが、アキラは狼になることなく、とぼとぼと寂しく家路をたどったのだった。


 舞台は現代です。ハッピーエンドです。

 「MOON」のラストシーンに至るまでのお話ですから、安心して読み進めていただけると思います。