第十一話 離別





 農暦八月六日、夕刻。

 九日から始まる科挙の初級試験に出発すべく、荷造りを終えた塾生たちが、それぞれの寄宿舎に、しばしの別れを告げていた。

 すでに門前には、藤原佐為塾長が手配した辻馬車が勢ぞろいしており、時折、馬のいななきが聞こえてくる。

 敷地内のいたるところに、御者たちの野太く豪放な話し声が響き渡り、文人予備軍の集まりである普段の鶴聖塾とは別世界のようである。

 試験会場のある建康の都までは、馬車で丸一日。

 毎年、科挙の時期には、都へ向かう街道はすべて、受験生を乗せた馬車の専用道路として使われる。

 それでも、主要街道の渋滞は必至で、宿場での受験生同士の諍いも後を絶たない。

 これらの混乱を避けるべく、鶴聖塾では、他の受験生よりも一足早く都に入れるようにと、毎年、出発の日時を六日の日没時と決めているのだ。



 俊英院の一室で、アキラは荷物の最終点検をしていた。

 もともと持ち物の多いほうではない。

 教科書と参考書と、少しの着替え。

 それから、ヒカルにもらった薬の入った包み。

 小さな行李ひとつに十分おさまってしまった。

 残る荷物は、ヒカルから「無期貸し出し」だと、強引に押しつけられた翡翠の珮。

 あれから一週間。

 ヒカルとは会えないままでいる。

 アキラは珮を手に取って、じっと見つめた。

 とろりとした深い緑色と、薄氷のようなあわい色。

 名匠の手によるといわれるその彫刻は、蝶を意匠としたものである。

 牡丹の花に舞い遊ぶ二匹の蝶。

 百花の王と謳われる牡丹など、アキラは見たこともなかった。

 身近な花といえば、梅か梨。もしくは瓜科の植物。

 貧しい金星村においては、実が食用になることが、植物の価値なのだ。

 蝶にしても、アキラにとっては、美しさを誉め称えるものではない。

 一年に3度も孵化するこの昆虫に対しては、美しいというより図々しいという認識のほうが強かった。

 幼虫による作物の被害が、些少ではなかったからだ。

 南西の山脈を越えた遠い国で産出されるという宝玉の価値の高さも、想像もつかない夢のような情景を描き出す匠の技も、アキラにはまったく疎遠な話である。

 ただ、ヒカルから託されたという重みだけが、アキラにとって重要なことだった。

 アキラは、しばらく珮を見つめたあとで、それを懐中にしまって立ちあがった。

 着古した質素な着物を飾るには不似合いだという理由もあったが、ヒカルの存在を投影するその珮を、懐深く抱きしめていたかったのだ。

 小さな行李を抱え、アキラは部屋を後にした。









 事前に割り振られた馬車へと乗り込んでいく級友たちを、ヒカルは、桃の木の枝に腰掛けて眺めていた。

 枝が水平に広がるようにと剪定されたその木は、桜や栗の木のようにのぼりやすい。

 身軽で活発なヒカルにとっては、まるで梯子にでものぼるようなものだ。

 傾いた夕陽を背に受けて、長い影を地上に落としていたが、慌しく門をくぐっていく彼らは、まったく気がつかない。

 だが、たったひとり、アキラだけが足をとめた。

 他の者たちが通り過ぎていくなか、誰もいなくなるのを待ちながら、アキラは足元の影に視線を落とす。

 肩の高さでまっすぐに揃った、独特な髪型を映した影と、そのとなりで揺れている、もうひとつの小さな影。

 やがて、小さな影が、大きな影に向かって近づいてきた。

 小さな手がゆっくりとのびて、今にも肩先に触れようというそのとき、アキラは振り返った。

 だが、誰もいない。

「……あ…れ?」

「バッカだなあ。ここだよ、ここ」

 鈴音のような笑い声に、アキラは顔をあげた。

 目に飛び込んできたのは、黄金色の光。

 手をかざしてみると、夕陽を背にした愛しい人が、「よおっ」とばかりに手をあげていた。

「……進藤、キミはやっぱり行か」

「塔矢!」

 ヒカルは、アキラの言葉を遮った。

「オレ、碁をやめない。ずっとこの道を歩く。これだけ言いにきたんだ」

 眩しそうに目を細めるアキラからは、逆光になって、ヒカルの表情はよく見えない。

「棋士にはなれないけど。まだまだ、おまえには追いつけないけど。それでも、碁をあきらめたりしない。もっともっと勉強して、市井で一番の碁打ちになって、おまえと並び称されてやるんだっ!」

 棋士にはなれない……。

 その一言は、やはり重くのしかかったけれど、「碁をやめない。ずっとこの道を歩く」というヒカルの言葉は、アキラの胸に強く響いた。

 あたたかな愛しさとともに、それとは異なる、炎のように燃えたぎる熱い闘志が、胸の底から湧きあがってくる。

 歓喜にも似たその感情に、アキラは拳を握りしめた。

「……追って来い!」








 最後の馬車を見送る頃には、あたりは、すっかり宵闇に包まれていた。

 多くの講師たちも、中秋節にあわせて帰省してしまったため、石燈籠に灯は入れられていない。

 まだ少し砂埃の舞う門前に、燈籠の明かりが近づいてきた。

「……ヒカル」

 桃の木の枝に腰掛けたまま、小さくなっていく馬車の列を見つめていたヒカルは、声の主を察すると、あわてて枝から飛び降りた。

「うわっ、佐為塾長」

「風邪をひきますよ。部屋に入って、温かいお茶でも飲みながら、一局打ちましょう」

「光栄デス……」

 ヒカルは差し出された燈籠を斜めうしろにかざし、佐為の足元を照らして先導するように、少し前を歩く。

 弟子が師匠を敬う仕草が、板についてきたようだ。

 佐為は、科挙を受けないヒカルに対しても、他の塾生たちと同格に扱った。

 弟子というより、おなじ道をめざす後進に敬意を表しているといってもいいだろう。

 そして、今このときも、さりげなくヒカルに前を歩かせて、その表情が照らし出されないようにと配慮を見せている。

 優しい沈黙が、夜の気配に溶け込む。

 いつもは塾生たちの声でにぎわう舗道も、今は、ひっそりと静まり返っていた。

 アキラには大見得を切ったヒカルだったが、自分だけが置いてきぼりをくったという気持ちは、どうにもぬぐいようがない。

 うつむいたヒカルの足元に、小さな雫がこぼれ落ちた。

 頬を伝う涙の理由は、佐為の気遣いが身にしみたからというだけではなかった。



 入塾以来、久しぶりに訪れた応接室で、ヒカルは、佐為と盤を挟んで座った。

 飾り格子の丸窓越しに、虫の声が遠く聞こえる静かな夜。

 芯を長めにとった燈籠の明かりが数多く焚かれ、室内をやわらかく照らすなか、異質な硬い石音だけが響く。

   じゃら

     ぱち

   かちゃ

     ぱちり

 やがて中盤にさしかかり、黒を持つヒカルの手がとまった。

「……負けました」

「ありがとうございました」

 感想戦に入る気配はなく、互いの石が碁笥に戻ったところで、ヒカルは口をひらいた。

「オレ、家に帰ります」

 突然の申し出を、どう思われたかと、ヒカルは佐為の様子をうかがった。

 だが、佐為は、驚くでもなくあわてるでもなく、ただ穏やかにヒカルを見つめている。

 ゆったりと先を促すかのような表情に、ヒカルは、ぽつぽつと話し始めた。

「オレは、碁の勉強がしたくて、鶴聖塾に来ました。でも、ここは、科挙に合格するための勉強をするところで。オレみたいに遊学目的で来てるヤツなんか、ひとりもいない」

「棋士をめざすか官吏をめざすかは、人それぞれだけど、みんな、将来のことを真剣に考えて、毎日、いろんな勉強をして過ごしてる。そして今日……堂々と出発していった」

「オレは、ここにいちゃいけないんじゃないかなって。……ううん、違う。ほんとは……。ほんとのこと言うと、もう辛くて耐えられない。マジ無理。ほんと、もう限界で……」

 ぽたりとこぼれ落ちた大粒の涙が、袖の色を濃く変えていく。

 うつむいてしゃくりあげながら、ヒカルは、胸の内をさらけ出した。


   棋士をめざすどころか、科挙を受けることさえできない悔しさ

   科挙の話題が出るたびに、疎外感に打ちひしがれて

   希望に燃えて旅立っていく級友たちを、木の上で、ひとり寂しく見送って

   おなじ人間として生まれてきたのに

   市井で一番の碁打ちをめざすと啖呵は切ったものの

   そう簡単に割り切れるものではなくて


   女であることを隠さなければならないことに憤り

   級友たちとも距離を置いてつきあわなければならないことに苛立ち

   芽生えたばかりの小さな想いも、そっと胸の奥底に閉じ込めたまま

   せつなくて、悲しくて


「ヒカルは優しい子ですね」

「え?」

 いきなりなんの話かと、ヒカルが顔をあげた途端。

「ヒカルはアキラが好きなのでしょう?」

「どっ、どどど、どうして……」

 確かに、恋をしているとは告げたが、その相手が誰か…ということまでは言っていないのに。

 ヒカルは否定することもごまかすこともできず、もごもごと口ごもった。

「見ていればわかりますよ」

 くすくすと笑う佐為に、ヒカルは、涙に濡れた頬を赤らめた。

 顔を真っ赤にしたまま、かたまってしまったヒカルに手巾を渡し、佐為は茶器を引き寄せた。

 さめてしまったお茶を淹れなおし、ヒカルの手元に置きながら、ゆっくりと問いかける。

「鶴聖塾を去ると決めていたのなら、アキラにすべてを打ち明けてもよかったのではないですか? 女であることを告げ、アキラに恋をしていることを告げても」

「そ、そんなの…言えるわけないじゃん! 人生の大一番ってときに、あいつを動揺させるようなこと……」

 ヒカルが口をとがらせて、そっぽを向くのを見て、佐為は満足したように、にっこりと微笑んだ。

「だから私は言ったのですよ。ヒカルは優しい子ですね…って」

 おなじ言葉で二度言われ、ヒカルは、まだ少し涙に濡れる睫毛を伏せた。



 翡翠の珮を託した夜、ヒカルは鶴聖塾を去ることを決めた。

 
科挙を控えたアキラの負担にならないようにと、心に蓋をしたままで。

 だが、佐為は、アキラの想いにも気づいていた。

 幼い恋心を胸に秘めたまま、すれ違っているヒカルとアキラを、もうずっと前から見守っていたのだ。

 年頃の女の子であることをひた隠し、親友としてふるまい続ける、いじらしいヒカル。

 片碁笥の恋に落ちてしまったと悩みながらも、ヒカルへの愛情をたれ流すアキラ。



 ほんの少しのきっかけがあれば、ふたりは結ばれるのに…と、やきもきしていた佐為が、「今こそ、私が、縁結びの神様の遣いになる時!」と、決意をかためるまでに、そう時間はかからなかった。





アキラさんの例のセリフ、言わせちゃいました。

たしか、ふたりは実力伯仲だったはず……。前出の箇所は、明日にでも修正予定。←こらこら

原作とは逆に、ふたりが離れていくシーンなのですが、心は近づいたのよv……ってなニュアンスのつもり。

しかし、この回のヒカちゃん。痛いですなあ。

ヘタレアキラさんが苦しんでるのを書くのは、それなりに楽しいんですけどね(殴)。

嗚呼、ギャグが書きたい。





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