第二話 宿命的相遇







 ヒカルの部屋は、進藤家の広い邸内の東南の角にある。

 当代の名匠の細工による大きな厚い扉の外には、石張りの明るい回廊をはさんで、ヒカル専用の庭がしつらえられている。

 季節は春。

 池の蓮は、目にも眩しい新緑の若葉を広げ、薬商を営む進藤家ならではの珍しい香草や、木や草の花々が、今を盛りと見事なまでに咲き誇っている。

 残念ながら、その庭の主は、それを愛でる興趣を解さないのだが。






 いよいよ鶴聖塾へ出発という日の朝。

 ヒカルは回廊を離れ、庭に出て、池をのぞき込んだ。

 よく磨かれた鏡のような水面は、ヒカルの姿を映し出す。

 地味な砂色をした織りの荒い麻の長衣。

 裏地には灰色の綿布を使い、いかにも書生風に、襟と袖口を折り返す。

 三歳の祝いに両親から贈られた翡翠の彫刻に、紺と緑の絹紐を通して腰飾りにした。

 結い上げるには短い髪はそのままに、鉛色の四角い布帽子をかぶせて、うしろに長く房を引かせた。

 仕上げの小道具は、女には不似合いな書物と巻物。

 小柄なヒカルには少々重たかったが、小脇に抱えて姿勢を正し、颯爽と長衣の裾をひるがえす。



「……どこから拝見しましても、凛々しい立派な書生さんですわ」

 あかりは、はあ…っと盛大にため息をついた。

「だろ? だろ? 絶対に女だなんてバレねーよな♪」

 ヒカルはあかりのほうを振り返り、にひひ…と、令嬢らしくない笑い声をあげた。

「さ、出発、出発! 鶴聖塾に着く前に、日が暮れちまうぜっ!」

 意気揚々と歩き出したヒカルのうしろを、あかりは、この日12回目のため息をつきながら、とぼとぼとついていったのだった。






 両親に出立の挨拶をして、ヒカルは馬車に乗り込んだ。

 向かいには、あかりが座る。

 学問所では、身の回りのことは、すべて自分でやらなければならないと決まっている。

 塾生は、半人前の身分なのだから、それは当然のことである。

 一緒に行ったところで、あかりは、ヒカルの側仕えをするわけにはいかない。

 だが、普段、上虞の街を離れる機会のないあかりにも馬車の旅を楽しんでもらいたいからと、ヒカルは、その日の供にあかりを選んだのだった。



 上虞の街から、鶴聖塾のある会稽山のふもとまでは、馬車でおよそ半日の距離だ。

 歌を歌ったり、果物を食べたり、窓の外を流れる景色に歓声をあげたりしているうちに、道程のほとんどが過ぎていった。

「そーいや、さっきから気になってたんだけど…」

 ヒカルは、傍らに置かれている箱を見て首を傾げた。

 人がひとり、すっぽりと入れるくらい大きな箱だ。

「旦那さまと奥さまがご用意された、お嬢さまへの餞別の品だそうですわ」

「餞別? へえ、なんだろ」

 ヒカルは箱の蓋に手をかけた。

「あっ! いけません、お嬢さま!」

 あかりがたしなめるより早く、ヒカルは蓋をあけていた。

「うわっ! くっせえーっ!!」

 ヒカルは蓋を放り出し、馬車の窓から顔を出すと、思い切り深呼吸した。

「お嬢さまのお身体に万一のことがあってはと、高価なお薬を一通り持たせてくださったのですよ」

 薬草を乾燥させて粉末にした薬には、独特のにおいがある。

 そればかりではない。

 原料を尋ねるのも憚られるようなものを酒に漬け込んで、甕に入れたものなどは、かなりの異臭を放つのだ。

「食べすぎた時は、このお薬。転んで怪我をした時は、こちらのお薬。名前だけでは、お嬢さまにはおわかりにならないからと、旦那さまと奥さまが、すべてのお薬に効能の札をつけてくださいましたのよ。粗末にしては、ばちがあたります」

 あかりは目に沁みるほどの異臭に涙を流しながら、それでもなんとか箱の蓋を元に戻したのだった。






 やがて馬車は街道を離れ、深い山のなかへと入っていった。

「ヒカルお嬢さま。鶴聖塾は、山のふもとにあるのではなかったのですか?」

 すぐそばに迫る切り立った崖や、谷底を流れる急流の景色に、あかりは怯えるように尋ねた。

「ん? ああ、もうこのへんは鶴聖塾の敷地内なんじゃないかな。ほら、あそこ。碁盤を前に、考え込んでる人がいる」

 ヒカルは、竹林のなかを指差した。

「まあ、本当ですわ…。あら。あそこにも、またひとり。あちらにも…」

 思い思いの場所で、静かに盤に向かう塾生たちの姿を見つけるたびに、ヒカルは知らず武者震いをしていた。

 そして、深い森の芳香が夜気に包まれる頃、馬車は「深奥幽玄」と書かれた大きな門の前に着いたのだった。






「鶴聖塾へようこそ」

 ヒカルを待っていたのは、長い黒髪をうしろでひとつに結んだ麗人。

 塾長である藤原佐為だった。

 冠も帽子もつけず、ゆったりとした白い長衣に身を包んだくつろいださまは、彼が遁世者であることを物語っているが、紫に香る美しい黒髪と、気品に満ちた顔立ちが、かつての栄華を否応なく想像させる。

 うしろに控えていたあかりの瞳が、うっとりと潤むのも無理はない。

 だが、ヒカルは緊張の極致にいた。

 なにせ目の前にいるのは、皇帝の囲碁指南役を務めたほどの碁の名手。

 ヒカルにしてみれば、まさに雲の上の人だ。

「進藤ヒカルです。よろしくお願いします」

 両袖の折り返しを払い、床に膝をついて、胸の前で右のこぶしを左の掌で包む。

 目上の者に対する、男子の最敬礼だ。

「そんなにかしこまらずともよいのですよ。わたしたちは、おなじく神の一手をめざす同志ではないですか。ほら、早くお立ちなさい、ヒカル」

 弟子が師匠の前に跪くのは当然のこと。

 だが、佐為はヒカルを同志と呼び、手を取って立たせると、あたふたと袖を振って詫び始めたのだ。

「あ、す、すみません。ヒカルは女人だったのでしたね。失礼しました。うっかり気安く触れてしまうなんて、わたしとしたことが、なんと軽率な…///」

 外見が美しすぎるだけに、言動との差が大きい。

 それについては、ヒカルとて同様なのだが。



 佐為はヒカルに椅子を勧め、自らも執務机の前から椅子を運んできて腰をおろした。

「それにしても驚きましたよ。本当に男の子のようではないですか。いつから男の振りをする練習を?」

「え? えーっと、その…いつからって…つまり……う、生まれた時から?」

 答えに詰まるヒカルに、あかりは、ぷっと吹き出した。

 つられて笑いながら、佐為は「それは頼もしいですね」と、あいづちを打った。

(なんだか、想像してたより、ずっと優しい人みたいだな。それに、なんかぽやっとしてて、妙にトロくさいっつーか…)

 これから師と仰ぐべき人物の親しみやすい人柄に、ヒカルの緊張は次第にほぐれていった。



 ヒカルの家のことや、碁を始めたきっかけなどを話しているうちに、ヒカルは佐為に、すっかり打ち解けていた。

「もう夜も更けてきました。そろそろやすみましょう」

 佐為はヒカルとあかりを図書館へと案内した。

 あかりは、今から御者とともに上虞の進藤家に戻ると言い張ったが、夜道を心配した佐為とヒカルに説得されて、あかりもヒカルの部屋に泊まることになったのだ。



 図書館の奥の隠し扉をひらくと階段が現れ、その仕掛けに、ヒカルはこどものように目を輝かせて喜んだ。

 新しくしつらえられたその部屋は、天井こそ低いものの、十分な広さがあった。

 机の上には教科書と教材。

 もちろん碁盤と碁石も備えられている。

 両親の計らいで、鏡や小箪笥などの調度品も、すでに届いていた。

 明かり取りの小窓の下には円卓と小さな椅子があり、明日の朝食が用意されている。

 身支度に時間がかかるであろうことを懸念して、朝食は食堂ではなく私室で摂るようにと勧めたのは、他ならぬ佐為だった。

 炭盆で温めれば、おいしく食べられそうだ。



 御者に運ばせた私物も届いており、ヒカルはさっそく夜着に着替えた。

「あら。おやすみになる時は、男装ではありませんのね」

「男の服って、なんかゴワゴワして肩が凝るんだよ。寝る時くらい、いいじゃんか。誰が見るわけでもないし」

 白絹の布団をめくり、ヒカルは、あかりのために、枕代わりの小箱を置いた。

「あかりと一緒に寝るの、すっごく久しぶりだな」

「何も知らないこどもの頃ならいざ知らず、なんだか恐れ多いですわ」

「なんだよ、それ。バッカみてえ」

 遠慮がちに寝台の隅に縮こまるあかりに、ヒカルは布団をかぶせた。

 なかのよい乳姉妹は、ひとつの寝台に横になり、当分はお預けとなるであろう女同士のおしゃべりを楽しんだのだった。






 翌朝早く、あかりと御者は鶴聖塾をあとにした。

 ヒカルはあかりを見送ると、授業予定を確認して、必要な教科書と教材を持って部屋を出た。

 階段を降り、隠し扉の前で、外の気配をうかがう。

「よし。誰もいないな」

 こっそりと図書館を通り抜け、ヒカルは教室へと向かった。

 すでに大勢の塾生が席についていた。

「えーっと…。どこに座ったらいいんだ?」

 キョロキョロと見回すヒカルに向かって、手を振る青年がいた。

「ここ、あいてるよ」

 女とバレることを警戒して、ヒカルは、ちらりと青年の様子をうかがった。

 肩の線で切り揃えられたつややかな黒髪と、質素ながらきちんと整えられた服装が、真面目な人物であることを印象づける。

 涼しげな澄んだ瞳と、すっきりとした鼻梁。

 背筋を正した姿勢の良さ。

 使いこまれた教科書は、乱暴に扱われた様子もなく、何度も復習したあとが垣間見られる。

(警戒する必要はないみたいだな。うん、こいつはきっといいヤツだ)

 しかも、そこは教室の右後ろの隅で、慣れない男装ゆえに、初日からあまり目立ちたくはないヒカルにとっては、たいへん都合のよい席である。

 ヒカルは、とたとたと駆け寄り、「ありがとう」と礼を言って席に着いた。

 物珍しそうに教科書をパラパラとめくるヒカルに、「今日は56頁からだよ」と、青年が声をかける。

「うわー。もう、こんなに進んでるのか。……あ、オレ、新入生の進藤ヒカル。よろしく、先輩」

 教科書から目をあげ、ヒカルは挨拶した。

「先輩って…。見たところ、同い年くらいなんじゃないかな」

 青年はくすりと笑った。

「ボクの名前は塔矢アキラ。こちらこそ、よろしく」



 まだ互いに名前しか知らないふたりだが、運命の歯車は、確実に回り始めていた。

 



 原作「梁祝」もそうですが、主役はあくまでも「祝英台(ヒカル)」です。

 梁山伯は、学問の神様のような扱いの人です。日本で言うと、菅原道真公みたいな感じでしょうか。←あやしい

 原作では「梁哥(梁先輩)」・「賢弟(賢い後輩)」と呼びあっていますが、この駄文のなかでは、ふたりは同い年の設定です。

 作中に出てくる「炭盆」は火鉢のこと。当時、そんなものがあったのか微妙…。

 時代考証は、まったくもってめちゃくちゃです。この駄文を読んでも、古代中国の知識は身につきません(笑)。

 おとなしく騙されてやってください(殴)。





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このページの画像は「灰の虹」さまから拝借したものです