第三話 単碁笥之恋




                             



 1時間目は芹澤老師による官子…つまりヨセの授業だった。

 そして2時間目は塾長・藤原佐為自らが教鞭を振るう佈局…すなわち布石の授業であった。

 いずれの授業も興味深く、初めて得る知識の数々に、ヒカルは大きな瞳をきらきらと輝かせて、食い入るように壇上の講師を見つめた。

 時折、教科書に視線を戻しては、じーっと棋譜を眺め、ふむふむとうなづくと、再び壇上を見上げ、また教科書を見て…という所作を繰り返す。

 やがて、「ここまでのところで、何か質問はありませんか」という講義終了を告げる常套文句と同時に、教室の外で、正午を告げる鐘が鳴り響いた。

 慌しく教科書をしまう学生が多いなか、ヒカルはもじもじと身体を揺すった。

(ここんとこ、きいてみたいけど、あんまり目立っちゃマズいよなー)

 ヒカルは上目遣いに壇上を見つめたが、佐為塾長は、小柄なヒカルに気づくことはないまま教室を出て行ってしまった。

 学生たちもまた、バタバタと教室を出ていく。

 食堂の席取りに余念がないのであろう。

 ヒカルも「今度でいいや。まずはメシだ、メシ♪」と、教科書を閉じた。

 ふと、隣りの席のアキラのほうを見ると、教科書に書き込みをしている最中だった。

 棋譜や説明の余白部分に、米粒並みに小さいながらも、几帳面に大きさの揃った美しい字が、びっしりと書き込まれている。

 ヒカルの視線を感じたのか、アキラは手をとめると、顔をあげてヒカルのほうに向き直った。

 切れ長な澄んだ瞳に見つめられ、ヒカルはなんとなく恥ずかしくなり、バタバタと袖で自分の顔を扇いだ。

(うわーーーっ。なんて綺麗な男なんだ。佐為塾長も超美形だけど、こいつも半端じゃねーーーーっ。女のオレより美人じゃんか。……ったく、自信なくすよなあ)

 自分の容姿に自覚のないヒカルの脳裏に、珍しく乙女な思考がよぎったが、それはほんの一瞬のこと。

 次の瞬間には、昼食のことで頭がいっぱいになっていた。

「なあ、昼メシ行かないのか?」

「うん。もう少し復習してから行くよ。……あ、もしかしてキミ、食堂の場所がわからないのかい? 悪いけどちょっと待ってて。すぐに終わるから、一緒に行こう」

 すぐに終わると言いながら、アキラはさらに十行ほど書き加え、墨が乾いたのを確認してから、やっと教科書をしまった。

「お待たせ。案内するよ。さあ、行こうか」

 すでに無人となって久しい教室を振り返り、ヒカルは空腹に悲鳴をあげる胃のあたりをさすりながら、(もう、席ないんじゃねーの?)と、ため息をついたのだった。



                            



 意外なことに、食堂はすいていた。

 すでに多くの学生たちは、食事を終えたあとらしい。

「少し遅れて来たほうが、すいてるんだ」

「なるほどなー。それに、最後だと、もう後から誰も来ないからって、多めに盛ってもらえるみたいだし♪ 明日もこの時間に来ような。……あ、夕飯も時間差のほうがいいのか?」

「そうだね。ボクはそんなに食べるほうじゃないけど、遅くに来ると、おまけしてくれることが多いみたいだよ。ちょうどいい時間を見計らって来ようか?」

「ほんとか!? 頼むよ、塔矢」



 初対面から3時間あまり。

 ふたりはすでに旧知の間柄であるかのように打ち解けていた。

「次の授業はなんだっけ?」

「琴だよ」

 アキラの答えに、ヒカルは固まった。

「うっそ。マジかよーーっ! 琴なんか、女のするもんじゃんかーっ!」

 ヒカルはあまり…というより、まったく琴が得意ではない。

 字も楽譜も読めないあかりのほうが、見よう見まねで上手に弾くくらいだ。

「琴棋書画といって、琴も、男子たるものの心得のひとつなんだよ。科挙の試験科目にもなっているし。……って、聞いてるのかい?」

 アキラの声など、ヒカルにはすでに聞こえていなかった。

 いかにして次の授業をさぼるべきかを、懸命に考えていたのだ。

「初心者の学生もたくさんいるから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。かく言うボクだって、ここに来るまで、弦に触れたこともなかったんだから」

 苦笑まじりに説得され、ヒカルはアキラに連れられて、しぶしぶ琴の授業へと向かったのだった。






 琴の授業を担当するのは緒方老師である。

 類稀な演奏技術と天賦の感性から、七弦の魔術師と呼ばれている。

 碁の腕もなかなかのものだが、あまりに琴の才能が秀でているため、「緒方といえば琴」という図式ができあがっており、本人も、それをよしとしているようだ。



 響きにこだわる緒方によって、琴の授業で使う教室の床や壁には、さまざまな工夫が施されていた。

 壁や床には硬い石が貼られ、天井は高く、反響の良さそうな石造りの板が、何枚も吊るされている。

「今日は22ページからだったな」

 緒方の指揮によって、学生たちの演奏が始まった。

 となりの席のアキラも、慣れたふうに弾きこなしている。

 だが、ヒカルはというと、楽譜を目で追うのがやっとである。

 簡単そうなところだけ、そっと爪弾いてみるものの、出てくるのは、明らかに間違った音ばかり。

 そのたびに慌てふためいては、悪目立ちというものだ。

 ヒカルは、緒方の蛇のような視線を感じて、縮こまってしまった。

「そこの新入り」

 緒方に呼ばれて、ヒカルは飛び上がった。

「うわっ! は、はいっ!!」

「14ページの練習曲を弾けるようにしておけ。1週間後に試験だ。いいな」

 初日から宿題を出されて、ヒカルががっくりとうなだれるなか、周囲の学生たちが、ざわざわと騒ぎ始めた。

「静かに! さあ、続けるぞ」

 緒方に一喝されて、学生たちは口をつぐんだ。

 再び琴の演奏が始まったが、ヒカルは、これ以上宿題を出されてはたまらない…と、弾く真似をしてやり過ごしたのだった。



                             



「なあなあ。さっき、緒方老師がオレに宿題出した時、なんでみんなざわついたんだ?」

 4時間目の授業に向かう移動中に、ヒカルはアキラにたずねた。

「今、大事な時期なんだよ。もうすぐ、囲碁大会があるんだ」

「囲碁大会!?」

「大会とは言っても、この鶴聖塾のなかだけのものだけどね。それでも、この大会に出場できるのは、とても名誉なことなんだよ」

 塾生200余名のうち、出場できるのはたったの32名だからね…と、つけ加えるのを聞いて、ヒカルはアキラににじり寄った。

「それって、どうやったら出られるんだ!?」

 ヒカルの目は、「出たい、出たい♪」と訴えている。

 ところが、アキラは、ふうっとため息をついた。

「出場者は筆記試験で選ばれるんだ。でも、その試験は6日後なんだよ。キミ、その次の日が琴の実技試験だろ? 今回は無理なんじゃないかな」

「そんなの関係ねーよっ! とにかく、その筆記試験とやらに合格すればいいんだな!? よーし、がんばるぞっ!」

 がぜんやる気になったヒカルは、意気揚々と歩いていった。

 そのうしろ姿を眺めながら、アキラはくすっと笑いをもらした。

「細っこくて小さくて、かわいいなあ。元気いっぱいだけど、なんだか危なっかしくて、放っておけない気がする。もしかして、これって……片碁笥の恋なのかな」






 片碁笥の恋。

 それは、男子学生しかいない学問所で、学生同士が恋に落ちることを、おなじ色の碁石に見立てて言う隠語である。

 ヒカルとアキラが、異なる色の碁石であることは、まだ誰も知らない。

 藤原佐為塾長と、ヒカル本人を除いては。



                             


  



        なぜ楽譜!? なぜ太陽暦!?                               

        こまかいことは気にしちゃいけません(苦笑)。

        片碁笥の恋…って、業界用語じゃありませんからね。ただの造語です。

        表題では「単」(中国の漢字が出ない)を使いましたが、本文では「片」です。

        「たんごけ」って読まれたらイヤだなあと思いまして…(笑)。

        おがたりあんのみなさま、次回か次々回、やばいかも。先に謝っときます。

        ごめんなさいっ!






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このページの画像は「紫鳳堂」さまから拝借したものです