第四話  考試前夜





 明日は、囲碁大会の出場権を賭けた筆記試験。

 塾生たちは、寝食を忘れて碁の勉強に取り組んでいる。

 ヒカルとアキラも、例外ではない。

「だーかーらー。これが形なんだってば。忘れた頃に攻められたんじゃ、かなわねーよ」

「そうかな? こっちに一眼あるわけだし、とりあえず中央に頭は出してるんだから…」

「おいおい、もうちっと足場固めろよ。ここを、こうキって……ほら、これでツブレだぜ?」

「それは、キミの勝手読みだ。ホウリコミは考えたのか? ここの交換が効く以上、コウにはしないだろう?」

「勝手読みだあ〜? んなわけあるかよ。だって、そのホウリコミの、さらに一手前のコスミが来る前に、こっちをこうして……ほら見ろ〜。逆転なんかしねえじゃん」

「そんな手はないだろう。そこは黙ってサガる一手だ」

 放課後の教室や、講堂。

 ときには、涼風そよぐ竹林や、月明かりに照らされた東屋で。

 ふたりは時間を見つけては盤を囲んでいた。

 今日も、夕食が済んでからずっと、食堂で検討を続けている。

 アキラに一日の長はあるものの、ヒカルは、負けて当然という言い訳を潔しとしない。

 そんなヒカルの心意気を、周囲で観戦していた級友たちも、好ましく思っているようだ。

 臨機応変で粘り強いヒカル。

 力強く大胆なアキラ。

 ふたりの棋風は異なるが、それゆえ、局後の検討にも熱が入るというものだ。

「ああ〜? そんなの攻め合いにもならねーよ。おまえ、教科書に書き込みするのはいいけど、ちゃんと授業聞いてんのかよ」

「失礼な! 聞いているに決まってるだろう!?」

「だったら、わかるだろ? これなんか、まさに、アノ展開じゃんか」

「あの展開とは、どの展開だ?」

「あーもう。だからさー…」

 ヒカルは、ジャラっと石を崩し、それに類似した別の棋譜を、新たに並べて見せた。

「これは? どこかで見たような気がするけど…」

「気がするんじゃなくて、おまえも見てるはずなの。なんの授業だったか忘れちまったけど、老師が大盤に並べてくれたじゃんか」

「……もしかしてキミ、授業中、筆も持たずにいるけれど、全部覚えているのか?」

「悪かったな。オレ、塔矢みたいに小さい字なんか書けねえもん。教科書のあいてるとこに書けないんだから、頭ンなかに書いとくしかねえだろ?」

 アキラに感心されているとは思いもよらず、ヒカルは、口をとがらせて言い訳のようにつぶやいたのだった。






「お? やってる、やってる」

「ふたりとも熱心だな」

 就寝前の白湯を求めて食堂へとやってきた級友が、ヒカルとアキラに声をかけた。

 和谷義高と伊角慎一郎だ。

 科挙に年齢制限はないため、ここ鶴聖塾には幅広い年齢の塾生がいる。

 なかには、棋士になる夢を捨てられずに、60歳を過ぎてもまだ在籍している者もあるのだが、このふたりは、ヒカルやアキラよりも、少し年長なだけである。

 教室での席も近かったこともあり、ヒカルにとって、アキラの次に親しい友人となるまでに、そう時間はかからなかった。

「熱心なのはいいけど、進藤、おまえ、琴の実技は大丈夫なのかよ」

 和谷が、ふと思いついたように尋ねると、ヒカルではなく、アキラがため息をついた。

「本人は、碁の勉強が終わったあとに、練習してるって言うんだけど…。夜、琴の音色なんか、まったく聞こえてこないじゃないか」

 前半は和谷への返答だが、後半はヒカルへの非難だ。

 アキラは、恨みがましそうに、ヒカルを見つめた。

「な、なんだよ。ちゃんと練習してるってば」

 あわてて自己弁護するヒカルに、今度は伊角が追い討ちをかける。

「確かに塔矢の言うとおり、ぜんぜん琴の音は聞こえないな。部屋で練習してるんじゃないのか?」

 ヒカルが練習している場所……それは、当然、図書館の2階にある秘密の部屋である。

 図書館と塾生たちの寄宿舎は、かなり離れている。

 夜中に練習したところで、寄宿舎にいるアキラや伊角たちに聞こえるわけがないのだ。

 だが、そんなことは、絶対に知られるわけにはいかない。

「え? ええ…っと……そう。か、河原だよ、河原。夜中に、部屋で練習したら、みんなに迷惑がかかるじゃん?」

 ヒカルがとぼけて言うと、和谷は得心したようにうなづいた。

「そうだよなあ。おまえのへたくそな琴を聞かされたんじゃ、みんな寝られないよなあ。河原なら、水の音が消してくれるから、被害がなくていいかもな」

 和谷の言葉に、伊角は苦笑したが、アキラは憮然として言い放った。

「でも、夜中に河原で練習するなんて…。いくら敷地内だと言っても、危険だよ」

「危険って?」

 きょとんと、首を傾げるヒカルに、今度はアキラがあわてる番だ。

「ほ、ほら、野犬が紛れ込んでるかもしれないし、気候も良くなってきたから、毒のある虫や、蛇なんかも出てくるかもしれないじゃないか」

 まさか、邪な想いを抱く百戦錬磨の塾生に襲われるのを危惧している…と言うわけにもいかず、アキラは苦しい言い訳をした。



 やがて、囲碁大会の筆記試験の傾向と対策へと話題は移り、消灯時刻も近づいていたため、みな、それぞれの宿舎へと戻っていった。

 アキラは、今日の授業の復習と、明日に迫った筆記試験の勉強をしようと、自室の机に向かった。

 だが、傍らに碁盤を引き寄せても、碁笥に手を入れて石をつかんでも、脳裏に浮かぶのは、金色の前髪と、人懐こい大きな瞳ばかり。

「まいったな…」

 夜具に身を沈めても、眠りは訪れてくれそうにない。

 アキラは、ふと思いついて、小さな燈籠を手に、自室を抜け出したのだった。






 決して邪な想いで、河原へ行くのではない。

 こんな遅い時間に、ひとりで琴の練習をしている彼が心配なだけだ。

 明日の午後は、囲碁大会の予選とも言うべき筆記試験だから、もしかしたら、今夜は部屋で碁の勉強をしているかもしれない。

 でも、琴の実技試験も明後日に迫っているし、練習をしている可能性がないとも言い切れない。

 野犬や蛇どころでなく、とんでもない狼が彼に襲いかかったら…?

 今夜は月も出ていない。

 何かが起こってからでは遅いんだ。

 ああ、そうだとも。

 自分は、ただただ、彼を心配しているだけなんだ。



 アキラは、自分に言い聞かせるようにしてつぶやきながら、歩みを進めた。

 水の音が近くなるにしたがい、山の清流に特有の、形の不揃いな石が増えてくる。

 小さな燈籠のかすかな灯りでは、足元を照らすことさえおぼつかない。

 なんとか水辺までやってきたものの、ヒカルの声どころか、琴の音ひとつ聞こえず、アキラは、ふう…っと、ため息をついた。

 それは、深夜の危険な河原に、ヒカルがいなかったことへの安堵の吐息か。

 それとも…。

「バカだな、ボクは」

 きびすを返し、元来た道を戻ろうとした瞬間。

 河原の石に足を取られ、アキラの身体は大きく傾いた。

「うわっ」

 もともと足場のよいところではない。

 ましてや、手元のかすかな灯りだけでは、視覚の力を頼りに身体の平衡を保つことはできなかった。

 全身に、ゴツゴツとした硬い石の感触が伝わり、アキラは、自分が転倒したことを知った。

 誰にも見られなくてよかったと、思わず自分を抱きしめて喜びたくなるくらい、それはもう見事な転び方だった。

「あいたたたた…」

 アキラは身体を起こし、あわてて燈籠を探したが、あたりは真っ暗で何も見えない。

 転んだ拍子に蝋燭の火が消えてしまったのか、あるいは風除けの紙ごと燃えてしまったのか。

 しかたなく、暗闇に少し目が慣れるのを待って、アキラは立ち上がった。

「痛っ!」

 右足首に激痛が走り、アキラは膝をついた。

 そっと手をやると、そこには、ぬるりとした血の感触があった。

 恐らく、とがった石が刺さったのだろう。

「骨は折れてはいないな。血も、すぐにとまるだろう。でも、変なふうにひねってしまったみたいだ」

 痛む足をかばいながら、月明かりさえない暗闇のなかを、宿舎へと戻らなければならない己の不幸を、アキラは呪った。

「……まあ、自業自得かな」

 そっとつぶやかれた言葉から察するに、やはり、ただヒカルを心配していただけではなかったようである。



 やっとのことで自室にたどり着いたアキラは、夜着に着替えることもせず、疲れきった身体を寝台に横たえた。

 そして、翌日。

 めずらしく寝過ごしたアキラは、1時間目の授業を欠席したのだった。






 真面目一徹の梁山伯そのまんまではなく、ストーカーっぽさ全開モードのアキラさんに、プチ変換。

 これでなくては、山伯役にアキラを起用した意味がありませんもの(笑)。

 ヘタレ気味なところも、優等生すぎなくて、けっこう気に入ってます。

 作中の「燈籠」は、小型の提灯のこと。50cmほどの細長い棒の先に、ぶら下げて使いました。

 今でも、9月上旬になると、中国語圏の国や地域では、金魚の形をしたセロファン製の提灯が屋台に並びます。

 お祭りの夜に、こどもが持って遊ぶものなので、現在は、蝋燭でなく電球が使われているものが多く出回っているようです。

 その頃にお出かけの方は、おみやげに求められてはいかがでしょうか?





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このページの画像は「一実のお城」さまから拝借したものです