第十話  難言之隠




 淡く霞む春は、夢のように過ぎて。

 若くやわらかだった梢の葉も、陽光の影を追うかのごとく、次々と緑の色を深めていった。

 しっとりと湿った霧の深い季節。濡れた檜の枝が芳香を放ち、雨の雫に夢幻な調べを奏でていたのは、つい昨日のことのようなのに。

 草いきれの夏が来て、濃い色をした大輪の花が咲き乱れる。知恵を歌う蝉の声は、つかのまのうちに消えていく。

 虫の音をともなった夜風が吹くと、やがて、季節は秋へと向かい始める。






 ヒカルが鶴聖塾に来てから、はや数ヶ月。

 高くそびえ立つ霊峰・会稽山のふもととはいえ、それなりに暑くもあった夏が過ぎ、朝夕の風は、もうすっかり秋のものだ。

 あと十日もすれば、月も変わり、本格的な秋がやってくる。

 秋といえば科挙。

 鶴聖塾の塾生にとって、一年を通じて、最も重要な一週間がやってくるのだ。

 科挙の初級試験は、例年、仲秋の9日から16日にかけて行われる。

 試験期間中は、檻のような試験室から出ることは許されず、他人と話すこともできない。

 狭い独房に閉じ込められて、琴を奏で、碁石を並べ、書をしたため、一幅の絵を描く。

 極限状態で、どれだけの成果が出せるか。

 知力と体力と精神力が問われるのだ。

 合格者は百人に一人。

 それでもまだ、やっと下級官吏の職にありつけるかどうかだ。

 そのうえの上級試験を受験し、棋士や官僚をめざすならば、初級試験で首席かそれに近い好成績を獲得しなければならない。

 名高い鶴聖塾出身であっても、棋士として採用される者は稀という、まさに狭き門なのだ。






 科挙の初級試験まで、残すところ1ヶ月を切った今、塾生たちの頭のなかは、『今年はこれが出る・科挙初級完全制覇』という問題集でいっぱいだと言っても、過言ではないだろう。

 級友たちが、日夜、問題集をひろげて熱い議論を戦わせているのを、ヒカルはぼんやりと眺めている。

 その少し寂しげな瞳を、アキラは、いつも不思議な思いで見つめていた。


    まるで自分は受験しないかのような……


 ずっと前に感じた違和感を、ここ数日の間、アキラは何度も感じながら、それでもヒカルを問いただせずにいた。

 そして、ヒカルも、アキラを応援する気持ちを伝えたいと思いながら、機会に恵まれないままでいるのだった。






 科挙を控えた今、授業のあいまの休憩時間も放課後も、優秀なアキラの周囲には、そのハイレベルな知識のおこぼれにあずかろうと、常に人垣ができていた。

 数ヶ月前に自覚したばかりの初恋の相手を応援しようと、ヒカルが声をかけたくても、受験日を目前にして殺気立った級友たちの視線に射抜かれて、なかなか近づけない状態だ。

 科挙の出題傾向に的をしぼった難解な問題は、アキラ自身にとっても興味深いもののようで、積極的な態度で応じている。

 碁についての話題ならともかく、書や画、ましてや琴の高度な演奏技術など、ヒカルにわかるはずもなく、邪魔にならないようにと、自ら席をはずしたくらいだ。

 これでは埒があかない。

 そこで、夕食後の食堂で行われている勉強会に参加してみたのだが。

 毎夜のようにひらかれている、この若手中心の自主的な勉強会において、成績優秀なアキラはいつも輪の中心にいて、やはり声をかけることはできなかった。

 そして、勉強会自体は終わっても、アキラの意見を聞きたがる者は後を絶たず、消灯時刻が迫り、全員が席を立って、ようやくアキラと向かい合うことができたのだった。



「え…っと、塔矢……。今、時間だいじょぶ……?」

 ヒカルはもじもじと膝を進め、遠慮がちに声をかけた。

「やあ、進藤。今日はキミも参加していたんだね。……ああ、キミとゆっくり話ができるのは、なんだか、とても久しぶりのような気がするよ」

 アキラは、少し疲れたように首をまわし、自分の肩をもう片方の手でとんとんと叩きながら、ヒカルに笑顔を向けた。

 その表情は、ヒカルのことを邪魔者とも部外者とも思っていないことを感じさせるに十分な笑顔だった。

 客観的に見れば、むしろ、だらしなくデレっと幸福感をたれ流したような、最上級の喜びを表現していると言っても過言ではないくらいだ。

 ヒカルは、生憎、そういった観察眼を持っていなかったが、それでも、ここ数日の疎外感から開放されるような安堵の気持ちをおぼえ、普段の調子で本題に入った。

「え…っと、あのさ。これ、おまえにやる」

 懐から小さな布包みを取り出して、ヒカルは、ずずいとアキラの胸に押しつけた。

「え? ボクに? なんだろう……」

 アキラは布包みを机の上に置き、そっと結び目をほどいた。

 現れたのは、いくつかの薬包と、翡翠の珮。

「いつだったか、ケガしたとき、おまえ言ってたじゃん? 2年続けて受験できなかったって。今年はそんなことないだろうけど、念のためにさ。ほら、夏風邪は怖いって言うし。気休めぐらいにはなるだろ?」

 ヒカルは薬包を指差して、その効能を説明した。

 熱さましや咳止めの他に、うがい薬や頭痛薬や胃腸薬なども入っている。

 種類や量を間違えたら、かえって逆効果であることを、両親から言い聞かされて育ったヒカルは、ひとつひとつの薬について、丁寧に説明していった。

 さすがに、下痢止めの説明には、顔を赤らめたけれど。



   薬なんて、なるべくなら、役に立つ機会はないほうがいい。

   だけど、いざって時のために、持ってて損はないよな。

   少しでも、おまえのために何かできれば、それでいい。

   オレは女だから、科挙は受けられない。

   不正防止のために行われる、身体検査でバレちまうだろうから。

   どんなに努力しても、棋士になることはできない。

   おまえは夢を叶えろ。

   かく言うオレは……もうひとつの夢も、叶えられそうにないけどさ。

   オレがどんなに想っても、おまえはオレを男だと思ってるんだから。



 ヒカルは、「以上。説明終わりっ!」と、ぶっきらぼうに言い放って立ちあがった。

「ちょ、ちょっと待って、進藤っ!」

 アキラもあわてて立ちあがり、ヒカルの袖をひっぱった。

「ボクにお礼も言わせてくれないつもりなのか? それに……これ。これはもらえないよ」

 反対側の腕を、ヒカルに向けて、すっとのばした。

 その手には翡翠の珮。

 青と緑の絹糸で房をつけ、ヒカルが腰飾りにしていたものだ。

 濃淡のある緑色の石に繊細な彫刻が施された、見るからに高級そうな逸品である。

「これは、キミが3歳のときにご両親からいただいたお守りだろう? そんなに大切なものを、もらうわけにはいかないよ」

 アキラがヒカルに、故郷の母親の話をしたように、ふたりが親しくなってすぐに、ヒカルもアキラに、幼い頃の思い出話をしていたのだ。

 些細な話だったにもかかわらず、アキラがおぼえていてくれたことに、ヒカルは「えへへ」と笑った。

「……塔矢に持っててほしいんだよ」

 ヒカルは、照れくさそうに頭を掻いた。

「塔矢は優秀だから、合格祈願のお守りなんかいらないと思うんだ。だけど、病気とかケガとかから身を守ってくれるお守りだったらさ、やっぱりあったほうがいいじゃん?」

「でも……」

「だったらさ」

 翡翠の珮をてのひらに乗せたまま、言葉を濁すアキラに、ヒカルは提案した。

「貸すことにする。それならいいだろ? 返したくなったら返してくれればいいよ。……うーん、そうだな、無期貸し出しってやつ?」

 ヒカルは、アキラの手を両手で包み、翡翠の珮を握り込ませた。

 満足そうな、それでいて何かをあきらめたような、どこか寂しげなヒカルの笑顔に、アキラは、再び、例の違和感をおぼえた。


    ボクにお守りを貸してくれてしまったら、キミのお守りがなくなってしまうよ

    キミだって、科挙を受けるんだろう?

    ボクと一緒に棋士をめざすんだろう?


「ねえ、進藤。ずっと気になってたことがあるんだ。ボクの質問に答えてくれるかな」

「な、なんだよ、いきなり」

 アキラは、自分の手を包むヒカルの小さな手を見つめ、一呼吸おいてから、意を決したように、ヒカルの目へと視線を移した。

「キミは、科挙を受けない……。違うかい?」

 見る見るうちに、ヒカルの笑顔が固まった。

「バ、バカじゃねーの? そんなわけねーじゃん」

 ヒカルは笑顔を取り繕ってそう答えたが、アキラの手を包む自分の手が震えていることには、気がついていなかった。

「キミが琴を苦手としていることは知ってるよ。だけど、仮に、今年は合格できないとしても、来年に向けて、試験会場や雰囲気に慣れておいたほうがいいに決まってる。それなのに、なぜ受験しないんだ」

「だ…だから、受けないなんて、一言も……」

「今年だけでなく、来年も再来年も、キミは科挙を受けないつもりなんだろう? それはなぜ?」

 ヒカルの言葉を遮って、アキラはさらに問い詰めた。

「…………」

 黙ってうつむいてしまったヒカルの手を、アキラは、そっと包み返した。

「キミは、時々、寂しそうな目をしている。なにか秘密があるんじゃないのか? ……それを…、それを、ボクに話してはくれないだろうか」

 詰問するような口調から一転して、いたわるように問いかけるアキラの優しい声に、ヒカルは、うつむいたまま、小さな声で答えた。

「……オレじゃ…ダメなんだよ。オレは、棋士にはなれないんだ」

「どうして? ボクはそうは思わない」

 時を置かずに断言するアキラに、ヒカルは顔をあげた。

 今にも泣き出しそうな大きな瞳に、アキラが戸惑ったその瞬間。

「……ごめんっ!」

 ヒカルは長衣の裾をひるがえし、外へ飛び出していった。

「進藤っ!」

 アキラは急いで食堂の外まで追いかけたが、すでにヒカルの姿は見えない。

「キミは、なんのために鶴聖塾に入ったんだっ! 棋士になるためじゃなかったのか!?」

 温和なアキラにはめずらしい怒号のような叫びも、夜の闇に吸い込まれるばかり。

「キミが何かに苦しんでいるのなら、ボクに話してほしいんだ。ボクじゃ頼りにならないかもしれないけれど、キミの苦しみを一緒に背負わせてほしいんだ。進藤……ボクはキミが好きだから……」

 胸の底から吐き出すようなアキラのつぶやきを聴いていたのは、夜毎細くなっていく月と、消灯間際に特有な、ゆらゆらと揺れる燈籠の明かりだけだった。





後半戦に突入です。

ここから先は大真面目モードでいかなくちゃいけません。

たとえウケそうなギャグを思いついても、絶対に採用しちゃなんねえと、己を戒めてます。

この章では、原作の奇襲のシーンを拝借しました。

でも舞台が図書館のままだと、ヒカちゃんの部屋がバレちゃうので、食堂に微変更。←ほんとに「微」か?

副題には、「公言できない事情」という意味の成語を、そっくりそのまま使いました。

蝉の声を聞いて「知ってるよ~(あくまでも中国語で)」と鳴いてるんだと解釈したり、

枝から落ちる雨のしずくを見て「雨音の真似をしてる」と言ってみたり、

故郷の先人たちは、風雅なのか、へそまがりなのか。

科挙の初級試験が旧暦の8月なのは事実みたいですが、試験科目は嘘八百です。

「珮」というのは、おもに男性が帯の脇から下げていた飾りです。石製品に紐や房をつけた物です。

ただし、時代劇の受け売りなので、4世紀頃に、そんな装飾をしていたかどうかは知りません。ごめんなさい。

次回、ちょーちょさん初登場。←タイトルなのに、ここまで影も形も……

……つーか、長すぎだよ、あとがき。






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このページの画像は「一実のお城」さまから拝借したものです