第5話 歪打正着
| 「どうしたんだよ、塔矢! その足…!」 休み時間になって、足を引きずるようにして教室に入ってきたアキラに、ヒカルは驚きの声をあげた。 「ゆうべ、ちょっと転んでしまってね。大丈夫だよ。たいしたことはないから」 アキラは笑顔を繕って見せたが、気だるそうな雰囲気が滲み出ていた。 「大丈夫って…。すっごく痛そうじゃんか! 見せてみろよ!」 ヒカルはアキラを座らせると、床にしゃがみ込んで、アキラの長衣をめくりあげた。 鋭利な何かが刺さったような傷口に、乾いた血がこびりつき、その周囲は白く、さらにその外側は赤く腫れあがっている。 左右の足首に、そっと触れてみると、それぞれの温度の違いがよくわかった。 「こんなに腫れて…。おまけに熱持ってるじゃん! なんで、すぐに手当てしなかったんだよ!」 「宿舎の井戸で、傷口は洗ったよ」 「おまえ、バカか!? 溜まりっぱなしの井戸水なんかで洗ってどうするんだよ! それに、せめて布で傷口を保護するくらいの知恵はなかったのかよ!」 ヒカルはアキラを怒鳴りつけると、すっくと立ちあがった。 「……進藤?」 訝しそうに見上げるアキラの腕のつかみ、自分の肩につかまらせる。 「ほら、オレにもたれていいから。医務室に行くぞ。オレ、場所わかんねえから、ちゃんと案内しろよ。……そんなわけだから、和谷、伊角さん。老師によろしく言っといてくれ」 頭半分ほども背の高いアキラを担ぐようにして立たせると、ヒカルは級友に事情を告げ、医務室へと向かったのだった。 身長差があるわりに、ヒカルがさほど苦労しなかったのは、アキラが気を使っていたからだろう。 だが、ヒカルの肩にかかる重みは少しずつ増していき、アキラの体調が思わしくないことを、如実に表してした。 それなのに、やっとのことで医務室にたどり着いてみれば、そこは、質素な部屋に寝台がひとつ置いてあるだけの部屋だったのだ。 「なんなんだよ〜。ここのどこが医務室なんだよ〜」 ヒカルは憤ったが、医者にかかったり、薬を手に入れたりできるのは、よほどの高官か王族に限られている。 私塾の医務室に、それを期待するほうが、どうかしているというものだ。 「しょうがねえなあ。まったく」 ヒカルはアキラを寝台に座らせると、室内を物色し始めた。 だが、本当に何もない。 ただ、部屋の隅に火を使える場所があり、薪も乾いたままだったのは幸いだった。 「すぐ戻るから、じっとしてろよ。動きまわったりすんなよ。傷口が化膿するからな」 念を押すように言いつけるまでもなく、アキラは、ぐったりと肩を落としてうつむいている。 ヒカルは、勢いよく部屋を飛び出した。 めざすは自分の部屋。 ヒカルの自室には、両親が持たせてくれた薬がある。 幸い、今は2時間目の授業中だ。 誰にも気づかれずに、部屋に入ることができるだろう。 ヒカルは図書館をめざして、広い敷地内を全速力で駆け抜けた。 異様なにおいを放つ大きな箱をかき分けて、ヒカルは薬を取り出していった。 「傷の消毒には…と。あった、これだ。打ち身に効くのは…これだ、これ。それから…」 ヒカルは、箱のなかに一緒に入っていた籠に必要なものを詰め、炭盆の脇に置いてあった水差しを持って、部屋をあとにした。 図書館の裏には、小さな泉があって、きれいな水が絶えず湧き出ているのだ。 ヒカルは、毎日、この水を使っている。 井戸水よりもおいしく、清潔であることは、先刻承知だ。 水差しいっぱいに水をくみ、こぼさないように気をつけながらも、大急ぎで医務室へと向かった。 「塔矢!」 医務室の扉をあけて室内に入ると、アキラは寝台に倒れ込むようにして眠っていた。 ヒカルは、あわてて駆け寄り、アキラの前髪をかきあげて額に触れてみた。 「んー…。ちょっと熱いかも。傷のせいかな」 ヒカルは、籠のなかから布を1枚取り出し、水差しの水にひたして、アキラの額に乗せた。 それから、火をおこして湯を沸かす。 湯が冷めるのを待って、ヒカルは、アキラの傷の手当てを始めた。 湯冷ましで傷口を洗い、薬を塗った清潔な布をあてる。 さらに、その上から添え木をして、動かないように包帯で固定する。 「ほんとは熱さましの薬も飲ませたほうがいいんだろうけど、それは塔矢が起きてからでいいよな。……それにしても、オレの武勇伝が、こんなところで役に立つなんてなー」 ヒカルが行った手当ては、こどもの頃、庭の木に登って遊んでいて、誤って木から落ちて怪我をしたときに、両親がしてくれたものだ。 「お父さんも、お母さんも、すっげえ顔で怒ったよなあ。でっかい声で怒鳴りながらも、しまいには涙ぐんじゃってさ。店の薬を惜しみなく使ってくれたっけ」 ひとしきり昔を懐かしんだあとで、ヒカルはアキラの眠る寝台の前に座り込んだ。 「あの時、オレ、熱も出さなかったし、こんなふうにひどく腫れたりもしなかったよなあ。……こいつ、鍛え方たりないんじゃねーの?」 ヒカルは、アキラの寝顔をじっと見つめた。 「ほんと、きれいな顔してるよなあ。……あ。でも、眉毛は凛々しいかも」 ぐっすり眠っているのをいいことに、ヒカルは、まるで舐めまわすかのように、アキラを観察し始めた。 「へえ。細い指してるけど、節のトコはけっこうゴツゴツしてるんだな。肩とかも、オレよりは全然がっしりしてるかも。あ、のどぼとけ発見。……ふーん。こんなにきれいでも、やっぱ、こいつ、男なんだなあ…」 時ならぬアキラ鑑賞会を終えると、ヒカルは盛大にあくびをした。 いくら男勝りのヒカルとはいえ、アキラを支えて医務室へ運び、普段の生活ではありえない全力疾走をして、疲れが出たのかもしれない。 「……ちょっとだけ、寝ちゃおっかな」 ヒカルは寝台に両腕を乗せると、そのあいだに顔をうずめた。 ものの数分もしないうちに、ヒカルはまどろみのなかへと落ちていったのだった。 喉の渇きをおぼえて目を覚ましたアキラが、飛びあがるほど驚いたことは、想像に難くない。 実際、アキラは寝台の上に飛び起きて、幸せそうに眠っているヒカルを凝視した。 「し、しししし進藤っ!?」 動きを感じ取ったのか、ヒカルもすぐに目をあけた。 「んあ? ……あ、塔矢。起きたのか? 熱は? 足は痛くない?」 ゴシゴシと袖口で目をこすったかと思うと、次の瞬間には、心配そうに身を乗り出して、アキラの額に手をあてている。 寝起きの愛らしい仕草を見せつけておいて、その直後に急接近だ。 アキラには、たまったものではない。 「なんか顔が赤いみたいだけど…。熱は、そんなでもなさそうだな。一応、熱さましの薬、飲んどくか?」 ヒカルが水と薬を差し出すと、アキラは大仰に驚いてかぶりを振った。 「く、薬!? とんでもないっ! そんな貴重な物…だめだよっ!」 「でもさー。おまえみたいに真面目でちゃんとしたヤツが、寝坊して授業に遅れたり、こんな硬い寝台で昼間っから眠り込んじゃったりするなんて、やっぱ具合悪いんだよ、きっと。……ほら、飲んどけよ」 ヒカルは、やや強引に水と薬を手渡した。 アキラは、手元のふたつの品物をじっと見て困惑していたが、結局、水だけを飲んで、薬はヒカルの手に返した。 「キミの好意はありがたいけど、やっぱり受け取れないよ。キミ自身が、その薬を必要とするような事態になった時のことを考えると…」 「そんなの気にすんなって。もし、風邪かなんかで熱出したとしても……ほら。まだあるし」 ヒカルは、籠から薬包を取り出して見せた。 貴重な薬を、次から次へと、寝台の上に積み上げていく。 「キ、キミは、いったい…」 アキラは、呆然として、ヒカルの顔を見た。 「オレんち、薬屋なんだ。オレがここに来る時に、餞別にって、いろんな薬を持たせてくれたってわけ」 飄々と答えたヒカルだが、ふっと神妙な面持ちになって言葉を続けた。 「別に、たくさんあるからって、粗末にしてるわけじゃねーからな。薬が買えなくて苦しんでる人が、たくさんいることだって、ちゃんと知ってる。……だけど、塔矢が苦しんでるの見てたら、オレ、なんだか、すごくツラくって…」 「進藤…」 アキラは、うつむいて小さな声で話すヒカルに手をのばし、寝台の上に座らせた。 自分も足をおろして、ふたりで並んで座る。 「傷の手当てもしてくれたんだね。ありがとう。だいぶラクになったよ。全然、痛みを感じないくらいだ」 「ほんとか!?」 大きな瞳を自分に向けてたずねるヒカルに、アキラは、にっこりと微笑んでうなづいた。 「うん。もう大丈夫だよ。だから、その薬はいらない」 「でも…」 「じゃあ、こうしよう。もし、今年の科挙の時期に、ボクが風邪をひいて熱を出してしまったら、その時にこそ、その薬をボクに分けてくれないか?」 「?」 「ボクはまだ、自分のことを話していなかったね。……ボクは、会稽の貧しい村に生まれたんだ」 アキラは、真摯な目をして話を続けた。 ボクは、この会稽山の向こう側にある金星村の出身だ。あまりよく作物の育たない土地で、村人は、いつも飢えに苦しんでいた。 かく言うボクの家も、ひどいありさまでね。 ボクの父は、名のある棋士だったと聞いているけれど、早くに亡くなったそうだ。ボクは、会ったこともない。 母は、父の屋敷の使用人だったんだ。 母がボクを身篭ったことに気づいたのは、父が亡くなったあとだったらしい。 父の遺品のなかでも、あまり価値のない古い碁盤と碁石だけを与えられて、故郷の金星村へ帰ってきたものの、飢饉続きで多くの人が亡くなったり、村を去ったりしていたそうだ。 頼れる親戚も知人もない中で、母はボクを育ててくれた。 家の裏の小さな畑を耕して、そこから収穫できるわずかな作物だけが、ボクたちの食料だった。 ボクは、十分な栄養も摂れず、衛生状態もよくない環境で育った。 飢えや病気で命を落とすこどもも多かったのだから、ボクはまだ幸運だったのかもしれない。 母の願いは、ボクに、おなかいっぱいの食事をさせることだった。 そのために、母は、ボクに碁の勉強をさせた。 科挙に合格して棋士になるのを待たずとも、鶴聖塾に入ることさえできれば、3度の食事が約束されるからだ。 ボクが入塾試験に受かったとき、母は涙を流して喜んでくれた。 でも、その母は、ボクという働き手をなくして、今は、たったひとりで畑を耕している。 ボクだけが、3度の食事をして、暖かな部屋で眠っているんだ。 だから、ボクは絶対に棋士になる。 母に、十分な食事と、やわらかな寝具を贈るために。 碁の高みを目指すのは、そのあとでかまわない。まずは、科挙に合格することが先決だ。 ……とは言っても、こどもの頃の栄養不良のせいか、ボクは、あまり身体が丈夫ではないみたいでね。 ほら、今日のように、こんな少しの怪我なのに、傷口が腫れてしまったり、熱を出してしまったりするんだ。 それより、もっと悲惨なことに、去年も一昨年も、科挙の時期に風邪をこじらせて寝込んでしまって。あろうことか、受験すらできなかったんだよ。 「あの時ばかりは、すぐに熱を下げてくれる薬が、喉から手が出るくらい欲しかったよ」 アキラは、「また1年、母を待たせてしまうことになるのだからね」と、切ない目で笑った。 「だから、ボクがその薬を欲することがあるとしたら、それは、科挙のため…いや、母のためだ」 語り終えたアキラを、ヒカルは、潤んだ瞳を揺らしながら見つめた。 ヒカルは、自分が恵まれた環境で育ったことを知っていた。 それが、自分の手柄でないことも知っていた。 だが、そうでない者が、どのように生きているのか、まったく知らなかったのだ。 碁が好きだというだけで鶴聖塾に入り、楽しく勉強している自分が、急に恥ずかしくなった。 だからといって、中途半端な気持ちで鶴聖塾に来たのではないことも確かだ。 ヒカルは、自分の立場のあいまいさに胸を痛めながらも、どうにかして、アキラを応援する気持ちを伝えたいと思った。 「3年続けて、科挙の時期に風邪ひくなんて、ありえねーよ。そんなの、万が一どころか、一千万が一の話じゃんか。……だから、今年は、きっと大丈夫。この薬は、籠のなかでヒマしてるか、塔矢以外の通りすがりの知らない人の役に立ってるか、どっちかだよ。それに、おまえだったら、科挙なんか一発合格間違いなしだ。オレ的には、そーゆー予定になってるから」 うまく伝わったかな…と、泣きそうな顔で見上げるヒカルの愛らしさに、アキラはくらくらと眩暈がした。 見た目だけの話ではない。 今年は絶対に大丈夫だと、自分を励ましてくれるヒカル。 高額で取引されているという薬を、通りすがりの人にあげるというヒカル。 その純粋さが、アキラの胸を打った。 だが同時に、アキラは疑問を感じた。 アキラを励ますヒカルの言葉は、見守る側の人間のもの。 まるで、自分は科挙を受けないかのような…。 アキラが、その疑問を口にしようとしたちょうどそのとき、外から鐘の音が聞こえてきた。 「「この鐘って…」」 ふたりは声を揃えて、顔を見合わせた。 窓から見える空が、赤く染まっている。 鐘の音は、筆記試験の終了を告げるものだろう。 「ふはははは」 笑い声をあげたのはヒカルだ。 アキラは、申し訳なさそうに眉をさげている。 「試験、終わっちまった。しかも、昼メシ食いっぱぐれかよ」 「ごめん、進藤。ボクのせいで…」 「しょーがねーよなー。オレ、試験のこと忘れて爆睡しちまったもんなー」 アキラの言葉をさえぎり、ヒカルは、自分に非があると言って笑い飛ばす。 「でも、けっこうゆーいぎな時間だったよな。こうやって塔矢と語り合えたし。……な? 塔矢?」 「な?」もなにも、アキラにしてみれば、「けっこうゆーいぎ」どころではなく、まさにこの上ない「至高のひととき」だ。 だが、それをそのまま伝えるのも憚られ、アキラは、「キミの友情に深く感謝する」と、微妙にずれた答えを選んだのだった。 |
あいたたた。マザコンアキラです(苦笑)。
せっかく評判のよかったアキラ@山伯なのに、ビンボーでマザコンときたら、人気は急降下でしょうか。
あ、そうそう。
「歪打正着」の日本語訳が、どうしても思いつかなかったので、どなたか教えてくださいませ。
「何かの効果を期待して行動したら、予想していた効果とは違う種類だけれど、いい結果が出た」という意味なんですけど。
やぶをつついて蛇が出る…違うな。
転んでもタダでは起きない…ちょっと違う。
海老で鯛を釣る…近いけど、なんか違うかも。
海老を釣ろうとしたら鯛が釣れた…かなり近いけど、そんなことわざ聞いたこともないし。
不勉強でスミマセン。
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このページの画像は「一実のお城」さまから拝借したものです