第六話 個別功課






 翌日。

 ヒカルの手当てが効いたのか、アキラの熱は下がっていた。

 足はまだ少し腫れてはいるが、歩くのに、さほど支障はないようである。

 ヒカルが「オレの肩につかまれよ」と申し出るのを苦笑して辞し、そのあとで、もったいないことをしたと,、再度苦笑したくらい、アキラの体調は良くなっていた。






 午前中の授業は何事もなく進み、いよいよ3時間目は琴の授業である。

 授業が始まるとすぐに、ヒカルの実技試験が行われた。

 教壇の前に琴を置き、級友たちが環視するなか、ヒカルは緒方に向かって一礼し、演奏を始めた。

 課題曲は、厚い教科書の冒頭に近い部分。

 難易度は、決して高くない。

 初心者のヒカルだが、毎晩の練習の甲斐あって、なんとか最後まで弾くことができた。

 だが、七弦の魔術師と呼ばれる緒方の耳には、まったく適わなかったようである。

「ふん。その程度の腕では、到底科挙には合格できまい」

 冷ややかな視線とともに下された言葉に、ヒカルは、しょんぼりとうなだれた。

「ここにいても、時間の無駄だ。荷物をまとめて、さっさと家に帰るんだな」

「!!!」

 ヒカルは、こぶしを握りしめて、唇を噛んだ。

(帰りたくない! もっと碁の勉強がしたい。もっともっと、塔矢と碁が打ちたいっ!)

「オレ、がんばります! 確かに、琴はあんまり…ってゆーか、ぜんぜん得意じゃないけど、いっぱい練習して、ちゃんと弾けるようになります! だから、もう一度、機会をくださいっ!」

 石張りの床に額をこすりつけてひれ伏すヒカルを、緒方は舐めるような視線で見おろした。

「……いいだろう。今夜、この教室に来い。俺が、じきじきに指導してやろう」

「ありがとうございますっ!」

 ヒカルは何度も叩頭し、琴をかかえて教壇の前から下がった。

 緒方は、再びヒカルを一瞥してから踵を返し、「授業を始めるぞ」と、教壇の中央へ向かった。



 席に戻ってくるヒカルを、アキラは笑顔で迎えたが、心中は穏やかではなかった。

 なぜなら、ヒカルを見つめる緒方の目に、獰猛な獣のそれを見たような気がしたからである。

 叩頭するたびに見え隠れする白いうなじ。

 すがるように緒方を見あげる大きな瞳。

 初心者そのものの手つきで弦に触れる細い指先、華奢な手首。

 それらすべてが、まるで頼りない小動物のようで、庇護欲を駆り立てる。

 だが、それは、あくまでもアキラにとっては、の話だ。

 小動物の儚さは、庇護欲と同時に、征服欲や支配欲といった感情をも呼び起こす。

 緒方が、その種の感情を持たないと、誰が言い切れるだろう。

(バカな…! 考え過ぎだ。緒方老師は、教育的視点から、進藤の個人教授を買って出たに違いない。教育熱心な緒方老師を疑うなんて、ボクはどうかしている)

 アキラは、自分に言い聞かせるようにして、かぶりを振った。

 そして、隣りの席でたどたどしく弦を爪弾くヒカルと、自分の机の上に広げた楽譜を、ちらちらと交互に見ながら、いつもより少し調子のはずれた音色を響かせ始めるのだった。






 その日の夕刻。

 ヒカルとアキラは少し早めに食堂を訪れ、級友たちと食卓を囲んでいた。

 このあと、緒方老師の個人授業を受けるヒカルを励まそうと、門脇や本田といった、とくにヒカルと親しいというわけではない者たちも集まってくる。

「緒方老師は、まあ…性格には問題アリだが、ああ見えて当代一の名奏者だ。じっくり教えてもらってこいよ」

「ネチネチ嫌味を言ってくると思うけど、途中で根をあげるなよ。死にものぐるいで喰らいついていくんだ」

 級友たちの激励を受けながらも、緒方とふたりっきりの気まずい授業を想像し、ヒカルは盛大にため息をついた。

「家に帰されなくて済んだのはよかったけど、やっぱ気が進まないよ〜。オレ、ほんっと、琴ダメなんだよなあ。しかも、緒方老師って、なんかヘビ系だしさー」

 ヒカルは、「オレ、ヘビも苦手なんだよなー」と、ぼやきながら、頬杖をついた。

 幼少の頃、店にあった甕の蓋を興味本位であけて、にゅるりと顔を出した生きたヘビと対面して以来、ヒカルは大のヘビ嫌いなのだ。

 いつもなら、多めに盛ってもらったおかずの他に、白飯も茶碗に2杯はおかわりするヒカルだが、今日は相当気が滅入っているらしく、なかなか食が進まない。

 ヒカルが痩せの大食いであることを、すでに熟知している和谷や伊角が、心配そうに声をかける。

「なんだよ、進藤。ぜんぜん食ってないじゃんか。これから特訓なんだから、しっかり食っとけよ」

「そうだぞ。腹が減っては戦はできないというからな。なあ、塔矢」

 急に話を振られて、アキラは「え?」と、顔をあげた。

 昼間見た緒方の目を思い出して、そのことに気を取られていたのだ。

「そ、そうだね。ちゃんと食事をして、体力をつけていかないと。ただでさえ緒方老師とキミとでは、体格も力も、違いがありすぎるのに」

「???」

「え。いや、あの。ええっと……そう、演奏の巧拙には、技量だけでなく、もっと根本的な基礎体力なんかも関係するっていうことだよ、うん」

 アキラは、いっそのこと、正直に自分の懸念を告げてしまおうかとも考えた。

 だが、不用意にヒカルを怖がらせ、自分とのあいだにまで距離を置かれてしまっては…と、思いなおして、姑息にも、とぼけてみせたのだった。



「はあ…。気が進まねえけど、行ってくるわ」

 ヒカルは再度ため息をつくと、教科書を片手に、のろのろと立ちあがった。

「おう。がんばってこいよ!」

「しっかりな!」

 級友たちの声援に、力なく手を振って応え、ヒカルは食堂をあとにした。






 琴の教室は、食堂をはさんで、図書館と正反対の位置にある。

 鶴聖塾でもっともよく使われている碁の教室は、図書館や食堂から近く、入塾して1週間ほどのヒカルであっても、その位置関係はしっかり把握できていた。

 だが、塾生たちの宿舎や、老師たちの住まう建物がある一帯には、当然一度も行ったことがないし、応接間や佐為塾長の私室がある館にも、到着した日に一度訪れたきりだ。

 広大な敷地内のすべてに精通するには、何ヶ月もかかるだろう。

 ヒカルが琴の教室へ行くのは、今回がやっと3回目だ。

 今までは、アキラと連れ立って歩いてきたが、ひとりで向かうのは初めてである。

 しかも、すっかり日が暮れた時間。

 消灯時刻には、まだだいぶ間があるため、竹やぶの中の小路沿いには、いくつもの灯りが焚かれているが、それでもやはり薄暗い。

 いくら男勝りとはいっても、ヒカルは深窓の令嬢なのだ。

 勝手知ったる自分の屋敷の中ならばいざ知らず、野趣あふれる深山の夜をひとりで歩くのは、非常に心細い。

 時折聞こえてくる野犬の遠吠えに身をすくませながら、ようやく琴の教室に着いたときには、あれほど「ヘビ系」だと言って嫌悪していた緒方に、早く会いたいと心から願ったほどだった。






 ヒカルが教室の扉をあけると、琴の音色が耳に飛び込んできた。

 外からは、まったく聞こえなかったので、ヒカルはたいそう驚いた。

 音響にこだわって造られた教室だけあって、防音にも配慮が行き届いているのだ。

 見れば、教壇に座った緒方が、一心不乱に琴を奏でている。

 弦を激しくかき鳴らす奏法と、部屋全体の音響効果とがあいまって、ヒカルは、自分の身体が、音の洪水に飲み込まれてしまったかのように感じた。

 複雑に絡みあう高低の響き。

 次から次へと紡ぎ出される、技巧的な旋律。

 これを、たった七本の弦で、たったひとりの演奏者が表現しているとは。

 まさに七弦の魔術師。

 ヒカルが我を忘れて聴き入っていると、突然、ぴたりと音がやんだ。

「やっと来たか」

 琴から顔をあげ、緒方はヒカルを見て、ニヤリと笑った。

(あれ? あんまり怖くなさそうだぞ)

 とたとたと緒方に近づいて、ヒカルは「遅くなってすみません」と頭をさげた。

 とくに時刻を指定されていたわけではないが、逆らわないに越したことはないという、ヒカルなりの保身術だ。



 緒方は、すっと立ちあがり、教壇から降りると、最前列の机を移動させ始めた。

 なんのためかわからなかったが、ヒカルも手伝うことにした。

 大雑把に机をどけて「ここを広くあければいいんですか?」と尋ねる。

「いや、そうじゃない。隙間なく机を並べて、その上に敷布を敷き詰めるんだ」

「机は縦と横にいくつずつ並べるんですか?」

 敷布をかき集めて一箇所にまとめながら、ヒカルが再度問うと、緒方は、しばし沈黙したのちに、喉元から忍び笑いをもらすような声音で答えた。

「……寝台ほどの大きさがあればよかろう。くっくっく…」

 緒方は、ヘビのような目を細めて、じっとヒカルを見つめる。

 ヒカルは、苦手なヘビに睨みつけられたかのように、その場で固まった。

(寝台!? ここで、なんで寝台が出てくるんだ?)

「お、緒方老師。今から、琴の特訓、するんですよね…?」

 一応確認しておこうと、ヒカルは言葉を選んで尋ねたが、否と答えられたら、どうするつもりなのか。

「……特訓…か。さあ、どうだろうな」

 細められていた緒方の目から発せられる、射抜くような、いや、値踏みするかのような視線に気づき、ヒカルの脳裏に警鐘が鳴り始める。

 ヒカルは、緒方と距離を取るように後ずさった。

 そして、敷布を投げ出し、一気に扉へ向かって走り出す。

「わっ!?」

 ほんの2歩ほど足を動かしただけで、ヒカルは、がくんと後ろへ引き戻されてしまった。

 緒方が、ヒカルの左手首をつかんだのだ。

「痛っ!」

 そのまま腕をひねられて、ヒカルは悲鳴をあげた。

「なんだ。さっきまで、嬉々として手伝っていたじゃないか。おまえも、そのつもりで来たんじゃないのか? ん?」

 かすれた声で囁かれ、ヒカルの胸元に、冷たい汗が流れる。

 なんとか逃げだそうと身をよじるが、力の差は歴然。

 ましてや、後ろ手に腕をひねりあげられていては、ろくに身動きすることさえできない。

 苦痛に顔をゆがめるヒカルを見て、緒方はさらに目を細めた。

「そんなに俺が怖いか? ……ふん。確かに、優しくしてやるつもりなど、毛頭ないが…」

 緒方はそこで言葉を区切り、ヒカルの耳元に唇を近づけて続けた。

「おまえも楽しめばいい。つらいのは、最初だけだ」

 ヒカルは、瞳を見開いた。

 かつて経験したこともない恐怖に、歯の奥がカタカタと鳴る。

(これは夢だ。オレは今、悪い夢を見てるんだ…)

 今のヒカルにできることは、現実逃避をはかり、息を詰めて、身を震わせることだけだった。


 




 ヒカルちゃん大ピンチ!

 ここで、アキラさんが駆けつけてくれたら、まさにスーパーヒーローなんですが。

 拙宅のアキラさんは、パラレルの世界でもマヌケですからねえ…。

 てんでアテにならないのではないかと、少々気がかりです。






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このページの画像は「灰の虹」さまから拝借したものです