第十九話 有一个蝴蝶天上去、有一个蝴蝶牢中座





 屋敷内のいたるところから、いくつもの灯りが近づいてくる。

 真柴の怒声を聞きつけた使用人たちが、手燭をかざして駆けつけてきたのだ。

「逃げるぞ、塔矢! あかりも、早く!」

 掃除用具倉庫の陰から立ちあがり、3人は裏門をめざして走った。

 主家の令嬢の出奔を食いとめようと、真柴がヒカルに飛びかかるたびに、アキラが必死になって引きはがす。

「ボクの進藤に抱きつくな!」

 時々漏れ聞こえる声から察するに、捕まえられてなるものかと無我夢中になっているというよりも、ヒカルに抱きつく真柴に、激怒しているといったほうがいいのかもしれない。

 なんとか真柴を振り切って、3人は裏門を出た。

 雪に足を取られながらも、狭い路地を通り抜け、大通りを渡って別の路地をめざす。

 どこかの路地裏にもぐり込んでしまえば、身を隠すところは、いくらでもあると考えたのだが……。

 積もった雪が凍りそうな寒い夜。

 どんなにじっと身をひそめても、息の白さが居場所を知らせてしまう。

「いたぞーーーーっ! あそこだーーーーっ!」

 追手の持つ灯りが、どんどん距離を狭めてくる。

 3人は路地裏を飛び出し、除雪された広い道を選んで、ひたすら走った。

 だが、元々身体が丈夫ではないアキラや、側仕えの侍女であるあかりが、どんなに速く走ったところで、たかが知れている。

 日頃から力仕事に従事している使用人たちに敵うはずもない。

 とにかく、ヒカルだけでも遠くへ逃がそうと、アキラとあかりが囮になる算段をするが、肝心なヒカル自身、息があがってしまって、ふらふらな状態である。

 寝台に閉じこもったまま、ろくに食事も摂っていなかった生活のせいで、体力が落ちているのだ。

「や、べえ……。つか、まっ…ち、まう……」

 息も絶え絶えに振り返ると、追手の持つ灯りが、すぐそこまで近づいている。

 手燭に照らされて、使用人ひとりひとりの顔が、はっきりと見分けられるほどに。

 ほどなくして、ヒカルたちは、十数人の男たちに取り囲まれてしまった。

 もはや逃げることはできない。

 3人は、無意識のうちに身を寄せ、肩を抱き合いながら、その場に立ち竦んだ。






「悪く思わないでくださいよ、お嬢さん」

 ヒカルたちを取り囲む輪のなかから、真柴が一歩前に出た。

「俺は、掃除夫なんて下っ端仕事、もうまっぴらなんだ。ここで手柄を立てて、その褒美に、もっとラクな仕事にまわしてもらおうってわけさ」

 真柴は、ニヤニヤと下卑た笑いを浮かべながら、ヒカルの腕をつかんだ。

「なにすんだよ! 離せ!」

 ヒカルは、アキラとあかりにしがみつき、ふたりも、ヒカルを連れ去られまいと、力を込める。

「進藤!」

「お嬢さま!」

 だが、他の使用人たちも加わっての揉み合いとなり、ヒカルとあかりは一緒に捕まえられ、アキラだけは、別に引き離されてしまった。

「離せってば!」

 身体を拘束するたくさんの腕は、どんなに身をよじっても振りほどくことはできず、ヒカルは、ずるずると屋敷のほうへと引きずられてしまう。

 アキラとの距離は、ひらいていくばかりだ。

「進藤! 進藤!」

 アキラも、一心不乱にヒカルの名を呼び、使用人たちの腕から逃れようとする。

 そのとき。

 アキラを捉えた使用人のうちのひとりが、足払いをかけた。

 雪の上に倒れたところを、背中から踏みつけて押さえ込む。

「やめろ! 塔矢に乱暴するな!」

 ヒカルの声など、聞こえていないのだろう。

 深夜の街を走り、駆け落ちをとめるという非日常的な行動のせいで、使用人たちは、異様な高揚感に包まれていた。

 まるで、獲物を追う狩人のように。

 そして、獲物を捕らえた彼らは、その興奮のままに、アキラに殴る蹴るの暴行を加え始めたのだ。

「よくも、お嬢さまをたぶらかしたな」

「貧乏書生の分際で、うちのお嬢さまと駆け落ちしようなんざ、100年早いってんだ」

 アキラの振る舞いを非難し、大義名分を口にしてはいるものの、その目には、弱者をいたぶる行為を楽しむ、異常なまでに残虐な歓喜の色が浮かんでいる。

「やめろ! やめてくれ! 頼むから! 塔矢! 塔矢ぁーーーーっ!」

 ヒカルの悲痛な叫びもむなしく、使用人たちの輪のなかに、アキラの身体は取り囲まれてしまった。






 ヒカルとあかりが屋敷に連れ帰られた頃、アキラは、ようやく開放された。

 だが、手も足も、ぴくりとも動かない。

「……し…んど…う……」

 ヒカルが連れ去られた道の彼方へと目だけを動かした。

 だが、その目には、深夜の静まりかえった町並みが、ぼんやりと浮かぶだけだった。



 やがて、再び降り始めた雪が、倒れ伏したアキラの身体に積もっていった。










 屋敷に連れ戻されたヒカルは、強い鎮静作用のある薬を飲まされた。

 天元堂で扱っている薬のなかでも、とりわけ慎重に取引される類の薬だ。

 ヒカルが目を覚ましたときには、駆け落ちの夜から3日が経っていた。

 焦点があわないまま、ぼんやりと天井を見ていたヒカルの耳に、すすり泣く声が聞こえた。

「だ…れ?」

 声のするほうへ顔を向けると、母親の美津子が、寝台の前に座って泣いているのが目に入った。

「……お母さ…ん……?」

「どうして、話してくれなかったの?」

 美津子は、ぐすぐすと鼻をすすりながらつぶやいた。

「え?」

「アキラさんとのこと……どうして、わたしたちに話してくれなかったの?」

 なぜ、それを知っているのかと、ヒカルが驚いていると、そばに控えていたあかりが、ぽつりと言った。

「あかりが、だんなさまと奥さまに申し上げました」

「そっか……」

 ヒカルは、再び目をつぶった。

(駆け落ちは失敗した。もう、二度と、塔矢には会えない……あっ)

「塔矢は!? お母さん、塔矢は!?」

 ヒカルは、目をあけて母親の袖をつかんだ。

「…………」

 口を閉ざしたまま視線を逸らせる美津子に、ヒカルは、身体を起こして、なおも詰め寄る。

「あいつ、店のヤツらに、いっぱい殴られたり蹴られたりしてたんだ。早く手当てしないと……」

 身を乗り出すヒカルを寝台に戻し、美津子は何かを決意するように深く息を吸った。

「……朝になって、あかりから事情を聞いてすぐに、その場所に人を遣りました」

 美津子は、重い口をひらいた。

「あの夜は、ずっと雪が降っていて、朝の冷え込みも厳しくて」

 美津子の眉が、苦しそうに歪む。

「店の者が見つけたときには、アキラさんは、もう……」

 凍死だったという。

「う…そだ……」

 ヒカルは、がたがたと震え出した。

「嘘だ! そんなの嘘だ! 一緒に暮らそうって言ったんだ。塔矢のお母さんと3人で、揚子江沿いの豊かな土地に引っ越して、畑をやろうって言ったんだ」

 ヒカルの目から、ぽたりと涙がこぼれた。

「約束したんだ、結婚しようって……」

 今頃は、金星村のアキラの家で、ひっそりと結婚式を挙げ、未来を夢見て笑っているはずだった。

 ヒカルは、何度も「嘘だ」とくり返し、美津子とあかりは、袖で顔を覆った。

「嘘だ……そんなの嘘だ……ぜったい嘘だ……」



 娘は、恋人が堂々と結婚を申し込みに来てくれるのを待っていただけ。

 両親は、娘の将来を案じて、よい結婚相手を探しただけ。

 皮肉にも、運命の歯車は、当人たちの思いをよそに、まわり続ける。









 すでに、座間家との結納は済んでいる。

 結納の場に、新娘は姿を見せない。

 新郎とその両親が、新娘の両親に挨拶をするだけだ。

 ヒカルが寝台に閉じこもっているあいだに、儀式は行われていた。

 あと一週間もすれば、ヒカルは新娘装束を身にまとい、座間家へ嫁ぐのだ。

 縁談が持ちあがった時点で、すでに進藤家に、それを拒む権利はなかったのだから、今さら、白紙に戻すことなど不可能である。

 ヒカルは自室に幽閉された。

 幸いだったのは、あかりが解雇にも降格にもならず、あいかわらずヒカルのそばにいてくれることだ。

 それでも、他の使用人から仕事を言いつかることが増え、今までのような高級侍女の待遇ではいられないようだ。

 真柴は、主家の娘を売るような行為を咎められ、その場で解雇されていた。

 そして、アキラの遺体は、明子のもとへと送り届けられた。






 ヒカルの部屋の丸窓を飾る優雅な文様の格子は、実用的で堅固なものへと取り替えられていた。

 ヒカルは、一日中、それを眺めて過ごした。

 まるで碁盤のような格子。

 ヒカルは、鶴聖塾の運動用具倉庫で過ごした、あの夜を思い出して泣いた。

 胸にさげた翡翠の珮を握りしめ、アキラのぬくもりを思い出して泣いた。

「……死んだ人の魂は、蝶になるんだって」

 ヒカルは、ふいに古い言い伝えを思い出し、珮に向かって、ぽつりとつぶやいた。

 珮に刻まれた仲睦まじく舞う一対の蝶に、ヒカルは、自分たちを重ね合わせた。

「塔矢は蝶になったのかな」

   今頃、どこの空を飛んでいるのだろう

   冬空にひとりぼっちで、寒くないだろうか

「なあ、塔矢。おまえは寂しくない?」

 ヒカルは、珮に額をこすりつけた。

「オレは……寂しいよ……。……とーやぁ」

 立てた膝に顔をうずめ、小さな珮を抱きしめるようにして、ヒカルは泣き続けた。






 空気を切り裂くような寒空の下、ヒカルは花輿に揺られ、進藤家を後にした。

 高らかに響き渡る華やかな葦笛の音が、ヒカルには、弔いの行列が奏でる葬送曲のように聴こえていた。





 予定通りの展開です。

 アキラさんは、清らかさんなまま人生を終えて、蝶になってしまいました。←酷

 残されたヒカちゃんが、かわいそうで、かわいそうで……。←他人事かよ←みむらつっこみ

 それなのに、脳内BGMは「湯島の白梅」から「芸者ワルツ」へと勝手に移行。

 ……さて、気を取り直して(←がびだけだろ)、副題の日本語訳を。

 「一匹の蝶は天に還り、一匹の蝶は囚われの身」

 ちょーちょを数える単位って、「匹」なんですか!? 「羽」じゃなくて?

 なんか理不尽。

 次が最終回です。





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このページの画像は「紫鳳堂」さまから拝借したものです