第九話  夜長夢多





 互いの腕を取りあうようにして歩き、ヒカルとアキラは中庭を横切った。

 細い月に照らされて、かすかに浮かんだ屋根の影を目印に。

 黒く切り取られた影の向こうには、満天の星空が広がっている。

 それに気づいたヒカルは、こんな非常時だというのに、楽しげに声をあげた。

「なあ、塔矢。見てみろよ、すげーぞ、空……」

 ヒカルに袖を引かれ、アキラも空を見上げる。

「本当だ。すごいな、いまにも星がこぼれてくるようだ」

「へえ。おまえって、意外と詩人なんだな」

「そうでもないよ。幾千万の星の光よりも、たったひとつの月明かりのほうが、今はどんなにか役に立つのに…って、考えてるんだから」

 それより、手燭か燈籠のほうが、もっとありがたいけどね…と、苦笑しながら、アキラはヒカルを促して歩を進めた。



 運動用具倉庫の扉には、幸い鍵はついていなかった。

 観音開きを手前に引くと、扉は少し軋んだ音をたてながら、ふたりを迎え入れてくれた。

「うひゃあ。ほこりっぽいなあ」

 ヒカルは、けほけほと咳き込みながら、袖口で顔を覆った。

 清潔な屋敷のなかで生活してきたヒカルにとって、こんなほこりまみれの小屋で夜明かしをするなど、人生最大の珍事と言っても過言ではないだろう。

 だが、嫌悪感はなかった。

 それどころか、この非日常的な一夜を、楽しんでいるくらいだ。

「ふはは。なんか、秘密の基地みたい♪」

 ヒカルは手探りで、倉庫のなかを歩きまわった。

 足球用の鞠が入った籠や、高さのある跳箱や、平均台が、無造作に置かれているのがわかる。

 科挙をめざす者の集まりである学問所とは言っても、若い塾生たちを中心とした同好会があり、ここは、そのための用具が保管されている倉庫なのだ。

 実は、ヒカルも、どこかの同好会に入ろうかと思ったが、女であることを隠している身では、参加するのは難しく、思いとどまったという経緯がある。

「ぬわっ!」

 ヒカルは、突然、何かに足を取られて、ひっくり返った。

「進藤!?」

 まだ入り口付近を手探りで進んでいたアキラだったが、ヒカルの悲鳴を聞いて、声のしたほうへと駆けつけた。

 ヒカルの肩に手を置いて、自分も一緒にしゃがみ込む。

 真っ暗な状況では、ヒカルの表情は見えないが、どうやら深刻な事態ではなさそうだ。

「だいじょーぶ。なんかに引っかかっただけ……ああ、排球の網だ、これ」

 ヒカルは、自分の靴にからみつく網をはずすと、立ちあがるべく床に手をついた。

「……お?」

 なにやら、緩衝性の高い素材でできた敷物の手触りがする。

 そのおかげで、派手にひっくり返ったものの、事なきを得たようだ。

「塔矢、塔矢。ここ、いいかも」

「?」

 ヒカルは、「ここだよ、ここ」と、敷物の上を叩いて場所を示した。

 アキラは、ヒカルの反対側にまわった。

「ああ、器械体操のとき、怪我をしないように使う敷物だね」

 アキラは、ヒカルの隣りに腰をおろした。

「うしろ、寄っかかっても平気なんだぜ。ほら」

 すぐうしろに跳箱が置かれていて、なるほど、背もたれにちょうどいい具合だ。

 ふたりは跳箱を背に並んですわり、天井近くの小さな窓から差し込む星の光を、ぼんやりと眺めた。



「なあ、塔矢。あの窓……」

「ねえ、進藤。あの窓……」

 ほぼ同時におなじことを思った自分たちに、ふたりは声をあげて笑った。

 通気用の小窓には、飾り気のない格子がはめ込まれていて、星の光とあいまって、まるで碁盤のように見えたのだ。



 それから、しばらくのあいだ、ふたりは目隠し碁をして過ごした。

 局面が複雑になり、なにがなんだかわからなくなった頃、ヒカルが「へくしっ」と、小さなくしゃみをした。

「寒い? 進藤、これを着て」

 アキラは、自分の長衣の絲帯をほどき、片袖を脱いだ。

 そのまま、少し腰を浮かせて、するりと衣を抜き取る。

「い、いいよ。おまえが風邪ひいちまう。オレは頑丈にできてるからだいじょぶだって」

 ヒカルは、着せかけられた長衣を押し返した。

「でも……」

 納得しかねるといったアキラの声に、ヒカルは、「じゃあ、こうしよう」と言って長衣を広げると、自分とアキラに、ふわりとかぶせた。

「な? こうすれば、ふたりともあったかいぜ♪」

「う…うん……そうだ…ね……」

 ひとつの長衣をわけあって、ヒカルは無邪気にはしゃいでいるが、アキラにとっては嬉しくもあり、苦しくもある状況だ。

 深夜の倉庫にふたりっきり。

 千載一遇の好機である。

 告白をするまでの勇気はないものの、そっと肩を抱くくらいいいじゃないかと思って、何が悪い。

 だが、ヒカルが先刻味わったであろう恐怖を思い、アキラは自分の理性を奮い起こした。

 そう。

 琴の教室で何があったか、アキラには想像がついていた。

 まだ舗道の燈籠が灯っていた時、ヒカルの着衣が乱れていることに気づいてしまったのだ。

 何もなかったと言うヒカルの言葉を、すべて信じたわけではなかったが、初めての行為の後は歩くこともままならないと、耳学問で知っていたアキラは、未遂で終わったのだろうと結論づけた。

 そして、己のうちに燃えたぎる「緒方憎し」の激情は、ヒカルの名誉のために、抑え込むことに決めたのである。

 アキラは、脳裏に焼きつく緒方への怒りと、となりに座って無防備に微笑むヒカルへの邪な欲望を静めるべく、深い呼吸をくり返した。

 緒方に襲われかけた直後に、自分に肩を抱かれるなど、男としての矜持が許さないだろう。

 今後、一切の接触を避けられてしまう可能性もある。

 もう学問所はこりごりだと、家に帰ってしまったら……。

 いやいや、そんな身勝手な心配をするよりも、彼の心情を察し、怖がらせるような行動は慎んで、今夜はゆっくり休ませてあげるべきだ。

 アキラの理性は、なんとか欲望に打ち勝つことができたようである。

 舗道で再会したとき、ぎゅうぎゅうと抱きしめた自分を、忘却の彼方に置き去りにして……。



 一方、ヒカルはというと、アキラとふたり、ひとつの長衣にくるまれて、ぬくぬくとあたたまってはいるものの、何かがたりないような気がしていた。

(さっきの、ぎゅうってヤツ、気持ちよかったなあ。また、ぎゅうって抱きしめてくれたらいいのになあ)

(でも、塔矢はオレのこと、男だと思ってんだもんなあ。ありえねーよなあ。オレから抱きついたりしたら、緒方老師と同類だと思われるだろうし)

 漠然と感じながらも、自分にたりないのが熱い抱擁であるとは思いもよらないヒカルは、たりない何かを真剣に考えていた。

 そして、たどり着いた結論は。

(そーだ。オレ、晩メシほとんど食ってなかったんだ。あれっぽっちじゃ、ぜんぜんたりないよー)

 にわかに空腹をおぼえたが、初恋の相手の前で、腹の虫に鳴かれてはかなわない。

 急にお腹がぐ〜っと鳴ってもアキラに聞かれないようにと、少しだけ身体を離したのは、無駄な悪あがきではあっても、ヒカルなりの乙女心の表れである。

 食事つながりで、ヒカルは、さらに重要なことを思い出した。

 ヒカルの朝食は、いつも夜中のうちに、図書館の隠し階段の前に置かれている。

 佐為塾長に長年仕えている、桑原という執事が、厨房から運んでくれるのだ。

 もしも、朝になって、ヒカルが部屋に戻る前に、誰かが図書館に来てしまったら。

 食事の用意がされているのを不思議に思い、そのあたりを調べて、隠し階段の仕掛けに気づいてしまったら。

 階上にあるのは、男には不似合いな調度類であふれた部屋。

 おまけに今日は、だらしなくも寝台の上に夜着を脱ぎ捨てたまま、出てきてしまっている。

 当然、それは女物の夜着。

 見つかったら一大事だ。

(こりゃあ、絶対に寝坊するわけにはいかねーぞ。今夜はオールだ、オール)

 乱れた着衣でうろつかねばならない状況も加味すると、夜が明け始めると同時に、部屋へ戻らなければなるまい。

 ヒカルは、今にも眠ってしまいそうな自分を叱咤し、夜を徹して、先人たちの優れた棋譜を頭のなかで並べ続けた。






 すぐとなりから伝わってくる、やわらかくあたたかい気配に悶々として、眠れぬ夜を過ごしたアキラだったが、少しのあいだは眠っていたらしい。

 小窓から差し込む朝日の眩しさに、アキラが目を覚ましたとき、ヒカルの姿はもうなかった。

 襟元や肩口まで覆うように、長衣がかけ直されていることに気づいたアキラは、ヒカルの優しさを思い、自分のものではあるが、それを胸に抱きしめた。

 少しだけ、ヒカルの残り香が漂うような気がして、甘く切ない気持ちでいっぱいになる。

「進藤……ボクはキミが好きだ……」

 すがすがしい朝の光に向かって自分の想いを言葉にしながらも、報われることのない恋を憂い、アキラはため息とともに寄宿舎へと戻っていった。



 当初の計画通り、空が白々と明るくなる頃に、部屋に戻ることができて、めでたしめでたし状態なヒカルはというと。

 徹夜で棋譜を思い描き続けた代償として、その日の授業は、ほぼすべて居眠りをして過ごした。

 級友たちから「緒方老師の特訓で疲れてるんだろう」と、返答に困るような同情の声をかけられるたびに、あいまいに笑ってみせたのだった。



 そして、余談ながら緒方は。

 翌日以降、白い長衣の下に、紺色の着物をかさねるようになった。

 顔に無数の引っかき傷を作ったことと関係があるとかないとか、塾生のあいだで話題になったとのことである。





 ヒカちゃん入塾編は、ここまで。

 鶴聖塾の紹介とハード○イおがたんが楽しくて、引っぱっちゃいました。

 次回は、半年後のお話です。

 原作「梁祝」で言うところの急展開に突入します。

 副題の「夜長夢多」は、字ヅラは綺麗ですが、「時間をかけて考えすぎると、ロクな結果にならない」という意味です。

 ヘタな考え休むに似たり。アキラよ、さっさと押し倒せ!←おいおい

 ちなみに、この第九話。

 コミックス20巻で、ヒカルが森下九段に言った「オレに足りない物がまだある」から派生したって言ったら怒ります?




お戻りの際は窓を閉じてください





このページの画像は「一実のお城」さまから拝借したものです