100のお題番外編
『緒方さんの個人授業(前)』
    *時期は「015.振り子」の直前です。
    *「001」〜「014」の設定が生きていますので、先にそちらを読んでくださいませ。←宣伝


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緒方さんの個人授業(前)   
     ○月×日  日直 とうやあきら
                                            しんどうひかる





「緒方さん」

 小春日和の空の下。

 行きつけの専門店で熱帯魚たちの餌を買い求め、路上に停めた愛車に乗り込もうとしていた緒方を呼びとめた者がいた。

 塔矢アキラである。

 母親に使いを頼まれて出かけた帰り道、見慣れた派手な赤い車を見つけた。

 まさに天啓。

 アキラは迷わず持ち主に声をかけたのだ。

「……アキラ…くん……」

 緒方は、買ったばかりの餌の袋を取り落としそうになった。

 割烹での一件以来、なるべく顔をあわせぬようにと避けていたはずの弟弟子に、こんなところでつかまってしまうとは。

「こんなところでお会いできるなんて。ボクって、ツイてるのかな」

(俺はツイてないぞ…)

 心のなかで涙を流しながらも、弟弟子思いの緒方は、助手席にアキラを乗せ、自宅のマンションへと向かった。

 そう。

 どうせロクでもない相談ごとに悩まされるのなら、誰にも聞かれる心配のない自分の部屋がいいと、冷静に判断を下したつもりだったのだ。






 緒方が熱帯魚たちに帰宅の挨拶をすませるのを待って、アキラは本題を切り出した。

 前回の割烹での子作り…いや恋愛相談以来、アキラは緒方に全幅の信頼を置いているのだ。

 ソファの上で居住まいを正し、真剣な面持ちで問いかけた。

「緒方さん。これはボクの想像なんですが…。人を想う愛情と尿失禁との間には、相関があるのではないでしょうか」

(なんだってええぇぇぇーっ!?)

 どこをどうしたら、そんなバカな考えが湧いて出るのか。

 緒方は、アキラの頭の中身を顕微鏡で見てみたいと、本気で思った。

 とりあえず自分を落ち着けようと、愛飲の煙草に火をつけ、その紫煙の行方をぼんやりと眺めた。

「アキラくん。それはいったい誰の話だ? 色ボケじじいの知り合いでもいるのか?」

 失禁といえば高齢者の悩み。

 緒方はコモンセンスを紐解いて聞き返した。

「いえ。ボク自身の話です」

 アキラは、きっぱりと言い放った。



 15歳の若さで尿失禁。

 それは、こどもの夜尿症と言うべきではないのか。

 プロ棋士ともなれば、泊まりの仕事も多い。

 それを、今まで誰にも相談できずにいたのか、愛すべきこの若者は…。

 アキラの心情を思い、緒方は表情を改めた。



「……そうか…。まったく気づかなかったよ。キミがおもらし…いや失礼、夜尿症に苦しんでいたなんて」

「いえ…。つらくないと言えば嘘になりますが、朝起きたときの、あのひんやりとした不快感と、洗濯物を部分洗いする手間に、少しうんざりする程度ですよ」

 苦笑まじりに語るアキラを不憫に思い、緒方は、知り合いの小児科医を紹介しようと、名刺を整理しているファイルを手に取った。

 だが。

「でも、これも愛の試練だと思えば、乗り越えられます。ほとばしる熱い情熱を胸に秘めた男は、誰もがみな、この困難に立ち向かっていくのでしょう?」

 芝居がかってはいるが、おそらく本心からのものであろうアキラのセリフに、緒方はファイルを取り落とした。

(なんだって、なんだって、なんだってええぇぇぇーーーっ!?)



「アキラくん。ひとつ聞いてもいいかい?」

 すでに前回とおなじ轍を踏み始めていることに、緒方はまだ気づいていない。

「なんでしょう?」

「どうして、それを、あ…あい…愛の試練だと思ったんだ?」

「日記を見直してみたら、碁会所で進藤vと打った日の翌朝に、この現象が起きる傾向にあるらしいということがわかったんです。この間なんか、進藤vvの夢を見ながらうたたね寝していたでけでも…。これを、愛の試練と言わずして、なんと言いましょう?」

 少しも恥らうことなく、アキラは朗々と語った。

(待てよ…。進藤がらみだとすれば…)

「アキラくん。その夜尿症は、こどもの頃からずっと続いているのか? それとも、最近になって起き始めたことなのか?」

 前回、アキラの奇想天外な想像力に散々振り回された教訓からか、緒方はアキラの勘違いの根源に、自然と近づきつつあった。

「つい最近です。具体的に言うと、先月のイベントを境に起こり始めたことです」

(やっぱりそうか。間違いない)

 緒方は、自分の導き出した答えに確信を持った。

 だが、相手は塔矢アキラだ。

 念のため、もうひとつ確認しておかなければなるまい。



「その失禁したものについてだが…」

「はい?」

 言いよどんだ緒方に、アキラが首を傾げる。

「だからその…なんと言うか……そう、液体だ。液体の特徴は? 色は? 粘性は? においは?」

「え? そ、そんなこと、気にしてませんでした。……あ。もしかして、それは棋士としての健康管理における、重要なチェックポイントなんでしょうか」

 緒方は、魂が自分の身体から、すうーっと抜けていくような感覚に襲われた。

(落ち着け、緒方精次。相手はアキラくんだ。何を言い出してもおかしくない人間なんだ。落ち着け、落ち着け…)

 緒方は、なんとか魂を呼び戻し、再度アキラに確認をとる。

「その液体は、黄白色ではなかったか? 普通の水とは違って、べたべたした感じがしなかったか?」

 さすがに、においについては言及しなかったが。

「そう言われてみれば…。ええ、確かに不透明で、ぬるぬるしていました。においも…普通の尿のものとは違っていたような…」

 アキラの答えに、緒方は自分の考えが正しかったと、確証を持った。

 にわかにオトナの余裕が戻ってきて、「くっくっく…」と、笑みをもらした。



「緒方さん! 何か心あたりがあるんですね? 教えてください。この愛の試練を乗り越えるための手段を!」

「なに? お、教える?」

 緒方の笑みが凍りついた。

 対するアキラはというと、ソファから腰を浮かせて、すがるような目で緒方をじっと見つめている。

(どうしたものか…)

 緒方は困り果てた。



 このまま放置すれば、いずれはアキラは泊りがけのイベントに出席するのを嫌がるようになるだろう。

 もしかしたら、棋院以外での手合いは、すべて棄権してしまうかもしれない。

 すでに七段であるアキラのこと。

 予選の相手は、ほとんどが格下であろうから、対局はアキラの所属する本院で行われるはずだ。

 だが、挑戦手合いは?

 日本全国の老舗旅館やホテルを対局場とする慣習は、そう簡単に変えられるものではない。

 タイトル戦の挑戦者に決定したあとで、挑戦手合いを棄権するのか?

 そんなバカな!



 考えあぐねた末、緒方はアキラに、愛の試練(?)を乗り越えるためのアドバイスをする決意を固めたのだった。


       




某お茶室で先輩方から横領拝領いたしましたネタの第2弾。

100題連載のすきまを埋める「緒方さんシリーズ」。本編以上に本編です。

弊サイトのお客さまには、おがたりあんもおられるというのに。

ほんと、ごめんなさ〜い(逃)。




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2005年3月29日