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数日後。
ヒカルやアキラに別れを惜しまれながら、金子は、塔矢家を後にした。
ヒカルの手押し車につけられた柵のでき具合に納得し、碁石の音を隠すために、アキラの館の防音工事を手配したあとで。
屋敷を出る前日に、こっそり明日美を訪ね、ヒカルの様子を時々手紙で知らせてほしいと頼んでいたことを知る者はいない。
それは、純粋な親切心からのものなのか。
あるいは、他に気になることでもあるのか。
たとえば…………若い娘たちが夢中になっている恋愛絵巻の連載か何かのような。
働く女性の頂点に立つ金子の頼みを断れるはずもなく、明日美は、二つ返事で承知したのだった。
金子が辞めた今、アキラの側に仕えるのは、ヒカルだけだ。
ヒカルは朝早くから水汲み仕事に出ているため、昼間は、アキラはひとりで身のまわりのことをしなければならない。
そうは言っても、アキラはもともと、都の大店のおぼっちゃまにしては自立した生活を送っていたため、それほど不自由は感じなかった。
ただ、時々、自分を見る使用人の目が気になることがあった。
それは、驚愕と憐憫が複雑に入り混じった視線とでも言うのだろうか。
彼らは、明らかに、アキラの着ている服を見ていた。
侍女というのは、あくまでも方便だが、ヒカルには、金子から申し送られた仕事がひとつだけあった。
それは、アキラの服のコーディネートだ。
「ちょっと目を離した隙に、薄紫色の長衣の下に桃色の内衣を着て、それに虎縞の帯をあわせたりなさるのよ」
金子が、どこか遠い目をして語った内容に、ヒカルは、うっすらと寒気をおぼえた。
以来、ヒカルは毎晩、アキラが翌日着る服を選んでいるのだが、時々、それをせずに自分の部屋に帰ってしまうことがあるのだ。
決して、職務怠慢なわけではない。
なぜなら……。
「だーかーらー。ここでハネは、ありえないっつってんだろ!」
「なぜだ! そのあと、こちらをノビて、ケイマに飛べば、十分だろう」
「あのなあ。切られてからノビたんじゃ、ゆるみシチョウでオダブツだぜ」
「最終的にアテられる前に、こちらを……」
「だあああああぁぁっ! そんなの嘘手だ、悪手だ! 本手じゃねえっ!」
「ならば、キミの言うノビを採用したとしよう。白は一気に急所に入ってくるだろう? 次の黒は? グズむのか? またノビて逃げるのか?」
「そんなわけねえだろ。こっちをハネてからツケるんだよ」
「それこそ悪手だ。無駄に動きまわって、下品なこと極まりない。以前、キミがそう言っただろう?」
「そんなこと言ってない!」
「言った!」
「言ってねえ!」
「いいや、言った!」
「いつ! 何月何日何曜日、何時何分何十秒。地球ができてから何回まわった時だ!」
「6月5日月曜日、午後6時31分26秒。地球が何回まわったかまでは、残念ながらわからない」
「うううううう…………」
「どうした、進藤。言い返せないのか?」
「…………帰るっ!」
こうして、アキラの服を用意しないまま、ヒカルが部屋を飛び出してしまった翌日は、アキラチョイスのコーディネートが、白日のもとにさらされるというわけだ。
幸い、館全体に防音処理を施したおかげで、口論の声が、外に洩れる心配はない。
使用人たちの痛い視線を浴びるというおまけはついたものの、口角泡を飛ばす検討の甲斐あって、アキラの棋力は、みるみるうちに向上し、すでに、ヒカルと定先で打つまでになっていた。
アキラは、序盤から戦いを仕掛ける好戦派。
ヒカルは、手堅いながらも攻撃的な面を見せるバランス重視派。
臨機応変と言えば聞こえはいいが、その場の思いつき次第で、さまざまな手を試す、気まぐれな棋風とも言える。
そのため、打つたびに、前回とは矛盾した発言をして、アキラを混乱させてしまうのだ。
とにかく、喧嘩同然の言い合いをしながらも、翌日には、再び、盤を囲んでいるのだから、まあ、なかよくやっていると判断していいのだろう。
その日も、こどもの喧嘩のような口論の末、ヒカルは、「帰る!」と、捨てゼリフを残し、アキラの部屋を飛び出してきた。
「くそ~、塔矢のヤツ。今日はまだ、一局しか打ってなかったのに」
ヒカルは、ドスドスと床を踏み鳴らしながら、回廊を歩いていた。
だが、部屋に戻ったところで、やることもない。
「あーあ。ヒマだなあ。晩メシには早いし。あかりたちは、まだ仕事中だし。ちぇっ、つまんねえの」
どこへ向かうともなく回廊を渡っているうちに、掃除係の下女3人とすれ違った。
おなじ使用人同士だが、今のヒカルは、アキラの侍女。
彼女たちよりも格上である。
すれ違う際に、ヒカルに敬意を表し、端に寄るくらいはして当然だ。
ところが、彼女たちは、堂々と3人横並びになって歩き、ヒカルを通せんぼしたのだ。
つい先日まで、自分たちよりも格下の下女だったヒカルに払う敬意など、持ち合わせていないと言わんばかりだ。
使用人歴10年のヒカルは、それがどんなに失礼な行為にあたるのか、十分に理解していたが、敢えて、彼女たちを咎めたりしなかった。
囲碁好きなヒカルのことだ、決して礼儀を軽んじているわけではない。
逆に、だからこそ強要すべきものではないと思っている。
ヒカルは回廊の端に寄って、彼女たちに道を譲った。
すれ違いざまに、中傷の声が聞こえた。
「馬鹿力のくせして、なによ、この手押し車。かよわい女の子ぶっちゃってまあ」
「おかげで、回廊の柱が傷だらけよ。いくらわたしたちが念入りに掃除しても、傷までは隠せないわ」
「水汲みしか取り得がない下っ端が、どうやって取り入ったのかしら」
「哀れみじゃない? こんな貧相なガキに、若旦那さまが興味を持たれるわけがないもの」
「あたりまえよ。ほら、見てごらんなさいよ、分不相応なこの衣装」
「ちっとも似合ってないわ。いやね、緒方先生のデザインが穢れるわ」
「こんなみすぼらしいガキに着られちゃ、衣装が泣くってものよ」
「まったく可笑しいったらないわ。成り上がりのくせに、いい気になっちゃって」
ヒカルは、彼女たちが通り過ぎるのを待って、盛大にため息をついた。
「毎度毎度、御苦労さんだよな。まあ、気持ちはわかるけどさ。もうちょっと、ヒネリが必要だろ。4点ってとこだな」
下女たちからの嫌味攻撃は、ヒカルがアキラの侍女になって以来、もはや日常茶飯事と化している。
いつだったか、真柴から一方的に殴られていたときには、みな、ヒカルの味方とは言えないまでも、同情を寄せてくれたというのに。
それでも、自分が侍女になった経緯が、かなり特殊な理由によるものだという自覚のあるヒカルは、中傷など気にしないようにしていた。
その理由を決して公表できない以上、妬まれるのは当然だと、割り切っている。
それでも、不愉快であることに変わりはない。
「……おもしろくねえ」
ヒカルは、ぼそりとつぶやきながら柱を蹴った。
屋敷の使用人たち全員が、ヒカルの敵というわけではない。
少ないながらも、一騎当千の心強い味方がいる。
それは、同室のあかりと明日美だ。
ヒカルがアキラの侍女になった経緯を知っているふたりは、いわれのない誹謗中傷に大いに憤慨した。
だが、日課となっている消灯前のおしゃべりでは、決して、それらの話題を掘り返したりはしない。
他愛ない会話で、ヒカルを楽しませるだけにとどめるのだ。
また、仕事の上でも、ふたりは、ヒカルを全面的にサポートしてくれている。
名ばかりの侍女だとは言っても、それを知っているのは、ヒカルとアキラの他には、このふたりだけだ。
水汲み仕事が終わったあと、ずっとアキラの部屋に入り浸っていたのでは、他の使用人たちが不審がるだろう。
ヘタに勘ぐられては困るのだ。
禁棋令を破って対局していることが露見してしまう。
今までアキラに仕えていた金子とおなじように…とまではいかなくとも、ヒカルが侍女らしく働いているところを、少しは見せなければならない。
「ヒカル。新しい茶器よ。使い終わった分はこれね? 厨房に持っていって、洗ってくるわ」
厨房で働くあかりは、茶器を届けに来てくれる。
「ヒカル、おまたせ。これ、若旦那さまのお部屋の卓布。シワはのばしてあるから、このまま使えるわよ」
洗濯係の明日美も、乾いた洗濯物を、こっそり運んでくれる。
もちろん、アキラの館まで届けてしまっては意味がない。
時間を決めて、花園の裏で落ち合うことにしているのだ。
花園からアキラの館まで手押し車を押して、侍女の務めを果たしているかのように見せかける。
それに、これくらいの短い距離ならば、柱にぶつける失態を犯すことも少ない。
あかりと明日美の友情は、ヒカルを身体的にも心理的にも、支えてくれているのだ。
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