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例によって例のごとく、検討中に口論になり、今日も、ヒカルはアキラの部屋を飛び出して、床を踏み鳴らしながら回廊を歩いていた。
ハネかキリかという永遠のテーマについて熱く語っていたはずが、気がついたら、焼き餃子と水餃子のどちらがおいしいかへと、論点は変わってしまっていた。
昨日は、ゆでたまごは固ゆでか半熟かを互いに譲らず、その前は、ラーメンは醤油かトンコツかで舌戦をくり広げた。
「……たしかに、水餃子もおいしいよな」
どうやら、ヒカルは焼き餃子がお気に入りのようだが、アキラの推す水餃子にも、惹かれるところがあったらしい。
足をとめて、少し反省した顔色で、アキラの館を振り返った。
そして、再び歩き始めると、臙脂色のお仕着せ服を着た女性の集団に出くわした。
明子の侍女たちだ。
ヒカルよりも少し年かさであるものの、この屋敷での立場は、ヒカルとおなじ。
どちらが格上ということはないのだが、新参者であるヒカルが、回廊の端に寄り、彼女たちに道を譲らなければならない。
ヒカルが柱の横に立って控えていると、ひとりの侍女が、ヒカルに目をとめて声をかけた。
「おかしいわね。下働きの小娘が、ずいぶんと上等な服を着ているわ」
意地悪そうに口の端をゆがめ、嘲笑する。
「水汲みが本業で、字もろくに読めないとか。馬鹿力だけが取り得なんですってね」
「侍女としての才覚はゼロ。すぐにお役御免になるでしょう」
わざわざ立ちどまって、嫌味をぶつけてくる先輩侍女たちに、ヒカルは心のなかで悪態をついた。
(そうやってイヤミを言うのが才覚っていうんなら、オレ、そんなのいらねえよ)
ヒカルは、声に出さずに言い返しながら、彼女たちが立ち去るのを待った。
ところが。
話は、思わぬ方向へと進んでいった。
「あんまりこの娘をいじめてはかわいそうよ。もとをたどれば、教育を受けさせなかった親の責任ですわ」
ヒカルの生い立ちを知っていながら、わざと口にする。
「あら。この娘は捨て子でしょう? 親が育児そのものを放棄したんですもの。教育どころの話ではなくてよ」
「こどもを捨てるような親の血を引いているからかしら。この娘も、ろくな人間にはならないような気がするわ」
「それもそうね。どこの馬の骨ともしれない娘に、何かを期待したなんて、わたくしたち、なんて無意味なことを……」
「この娘を育てたという者からも、ろくな教えを受けてはいないのでしょうね」
「それこそ期待するだけ無駄ですわ。屋敷奉公に出して、いくばくかの小銭を得るために、引き取ったのでしょうから」
(オレの親がなんだって? 佐為がなんだって?)
ヒカルは、ガバっと顔をあげた。
「ちょっと待てよ。オレのことを文句言うなら、なんとなくわかるけど、どうして、ここで親が出てくるんだよ」
言われるがままだったヒカルが、初めて反論したことで、先輩侍女たちは、少し意外そうな顔をした。
「まあ。先輩に口ごたえをするなんて」
「これだから、親なしの成り上がり者は……」
「うるせえっ! 勝手なこと言うな! こどもが憎くて捨てる親が、どこにいるってんだ! オレの両親は、他にどうしようもなくて、しかたなくオレを手放したに決まってるんだ!」
ヒカルはそう叫ぶと、彼女たちに背を向け、勢いよく走り出した。
「……彼女の言うとおり、焼き餃子の香ばしさも捨てがたいな」
あくまでも水餃子を支持しながらも、少しは譲るところがあったのか、ヒカルが部屋を飛びだしてからしばらくして、アキラは、ヒカルに謝るべく立ち上がった。
翌日また会えるのだから、そのときでもよかったのだが、「思い立ったら即行動」が、塔矢アキラの塔矢アキラたる所以である。
館を出て、五つ並んだ石燈籠の前まで来たとき、聞き知った者たちの声が聞こえた。
アキラは、母親の侍女たちが立ち話をしているのだろうと思ったが、その直後。
「こどもが憎くて捨てる親が、どこにいるってんだ! オレの両親は、他にどうしようもなくて、しかたなくオレを手放したに決まってるんだ!」
喉の奥から叫ぶような声に続いて、ぱたぱたと遠ざかっていく足音。
(……これは尋常なことではないぞ)
アキラは、すぐさまヒカルを追いかけた。
広い敷地内を駆け抜け、ヒカルは、自分に割り当てられた部屋へと戻った。
あかりも明日美も、まだ仕事中のようだ。
ヒカルは、部屋の中央に座り込むと、懐から護符袋を取り出した。
織りの粗い麻布で作られたそれは、ヒカルの宝物だ。
まわりのこどもたちが、親からもらった護符袋を首から提げているのを、羨ましそうに見つめていたヒカルのために、佐為が作ってくれたのだ。
なかには、四角い命名札のかわりに、碁石の形をした命名札が入っている。
囲碁以外のことにはあまり器用ではなかった佐為が、手ずから作ってくれた命名札。
その表面に、ヒカルの名前を彫ってくれたのも、もちろん佐為だ。
「佐為……」
護符袋を握りしめて、ヒカルは天井を見上げた。
きつく目を閉じたら、まぶたから涙がこぼれてしまいそうで。
ヒカルは、目に力を入れて上を向いた。
そのとき。
部屋の扉がカタリと鳴った。
使用人向けの部屋とはいっても、そこは九星堂。
少しの風でガタつくような粗末な造りではない。
「……誰?」
あかりか明日美が戻ってきたのだろうかと、ヒカルは扉に向き直った。
ところが。
「進藤? ボクだよ」
「塔矢!?」
返ってきたのは、アキラの声だった。
主家の息子……正しくは自分が仕える主だ……を、廊下に立たせておくわけにもいかず、ヒカルは、アキラを部屋に招き入れた。
侍女の私室に入ってよいものだろうかと、アキラは逡巡したが、このまま廊下にいたほうが変に目立つというヒカルの言葉に従った。
若い娘3人が暮らす部屋は、質素ながらも華やかだ。
年頃の健康な男子には、少々刺激的な空間かもしれない。
明るい色目の簾子や敷物に、アキラは、胸が高鳴るのを禁じえなかった。
なかでも目を奪われるのは、箪笥の上に置かれた、「五」の文字が全体に配置された睡衣。
間違いなく、ヒカルのものであろう。
脳裏に揺らめくあどけない寝姿を振り切るように、アキラは頭をぶんぶんと振り、コホンと咳払いをした。
その所作は、何かを発言するきっかけに見えないこともない。
少なくとも、ヒカルは「何だ?」という目をアキラに向けた。
思わずヒカルを追いかけてきてしまったものの、どう話を切り出したらよいものか、アキラはまだ決めかねていた。
それなのに、何か話さなければならない雰囲気を自分で作ってしまうとは。
アキラは自分を呪いながら、口をひらいた。
「……たしかに、焼き餃子の香ばしい匂いには、食欲をそそられる」
「はい?」
いきなり餃子の話が出てくるとは、双方思わなかったようだ。
「違う。そんなことを言いたかったんじゃない……」
自分から話題にしたはずのアキラも、困惑した表情で口元を覆った。
「キミは立派だった。力強く堂々とした声だった。だけど…………どこか寂しそうに聞こえたんだ」
小さくなっていく足音がせつなくて、気がついたら追いかけていたと、アキラは続けた。
「そっか。見てたんだ……」
儚げに苦笑するヒカルに、アキラは「いや、見ていたわけじゃないし、盗み聞きをしたわけでもない」と、あわてて否定した。
物陰に隠れて、本人の了承を得ないでこっそり情報を得るなど、恥ずべき行為だ。
身の潔白を示そうと、躍起になるのも無理はない。
しかもアキラは、ヒカルに関するトラブルに何度も直面している。
水汲み姿のお披露目で水滴をかけられたり、真柴がらみの一件を仲裁したり。
これらは、確かに偶然だったが、今回は、ストーキングを疑われかねない状況である。
「本当だよ。何を話していたかなんて、わからなかった。走り去る直前のキミの怒鳴り声しか聞こえなかったよ。だけど、それが、ただごとではない内容だったから、その……」
アキラは必死に弁解していたが、ヒカルの個人的な事情に、土足で踏み込んでしまったかと、ふと言葉を濁した。
「心配して来てくれたんだ。……ありがとな」
疑うどころか、アキラに向かって、はにかんだ笑みを浮かべると、ヒカルは、手のなかの護符袋に視線を落とした。
「オレさ、うまれてすぐに、両親とはなればなれになったって言ったろ? ほんとは違うんだ。オレ……捨て子だったんだ」
佐為が拾ってくれなかったら、今頃、生きてなかったかもしれない。
ヒカルは、護符袋を見つめたまま、ぽつりぽつりと話し始めた。
ヒカルが物心ついたとき、すでに佐為は、皇帝の囲碁指南役だった。
皇帝相手の指導碁であっても、決してへつらうことなく本手を説く。
その潔さゆえ、皇帝の信頼は厚く、毎日のように出仕を催促されるほどだった。
小さいながらも屋敷を構え、棋士をめざす若者たちを迎え入れた。
市井での指導碁の依頼も後を絶たなかったが、佐為は、ヒカルと一緒に過ごす時間を優先してくれた。
佐為は、いろいろな遊びを知っていた。
草笛を鳴らしたり、笹舟を浮かべたり、かざぐるまを回したり。
なかでも、ヒカルが一番好きだったのは、囲碁だった。
まだ石もうまくつかめないほど幼かったヒカルを相手に、根気よくつきあってくれた。
穏やかで楽しい日々は、永遠に続くものだと、信じて疑わなかった。
ヒカルが8歳になった秋、佐為は皇帝の囲碁指南役を罷免された。
もうひとりの指南役の罠にはまったのだと、ヒカルは、あとになって知った。
皇帝の不興を買った棋士に、指導を依頼する者などいない。
当然、弟子たちも去っていった。
たったひとり、変わらず懇意にしてくれていた商家の主も、持病の心臓病が悪化して急逝した。
悪いことは重なるもので、佐為までもが病に倒れてしまった。
それは、ヒカルとふたり、静かな山里へ移り住もうと話していた矢先のことだった。
出仕していた頃の貯えも残りわずか。
食べるには困らないまでも、さすがに、薬を買うほどの余裕はなかった。
あるいは、高価な薬を買うよりも、育ち盛りのヒカルに、おなかいっぱい食べさせることを、佐為は選んだのかもしれない。
根に薬効があるという薬草を探して、乾いた土を懸命に掘っていたヒカルの前に、綾織の護符袋を得意気に提げたこどもたちが現れたのは、その頃のことだった。
「なあ、さい」
「なんですか、ヒカル」
「オレ、すてごなの? オレ、いらないこだったからすてられたの?」
「何を言うのです。いらない子なんて、この世にひとりもいませんよ」
「だって、みんながいうんだもん。おやなしのすてられっこ…って」
「ヒカル。よく聞きなさい」
かわいいヒカル
やさしいヒカル
そんなヒカルを手放したのですから、よほどのことがあったのでしょう
こどもを憎んで捨てる親なんて、どこにもいませんよ
「オレのことがきらいだからすてたんじゃないの?」
「違います。それは絶対に違います」
泣く泣くヒカルと別れたに決まっています
「だから、ご両親を憎んではいけません」
「にくいってなに? オレ、わかんないよ」
「わからないままのほうがいいこともあるのです」
「おとうさんとおかあさん、オレとわかれたとき、ないたの?」
「今でも、ヒカルを想って、泣いていることでしょう」
ヒカルがおなかをすかせていないかと
つらい目にあっていないかと
「きっと、毎日毎日、心配して泣いていますよ」
「オレのせいでないてるの? オレ、どうしたらいいの?」
「ヒカルが笑っていれば、きっと安心するでしょう」
毎日が楽しくて、おもしろくて
笑わない日がないような人生を歩みなさい
ひとを憎まず、怨まず
笑顔を絶やすことがないように生きなさい
そうすれば、ヒカルのお父さんもお母さんも、笑ってくれますよ
翌日、佐為は、ヒカルの首に護符袋を提げてくれた。
病に苦しみながらも、木を彫り、袋を縫ってくれたのだ。
それからまもなくして、佐為は天上の世界へと旅立っていった。
皇帝の不興を買った佐為は、いわば咎人。
棺舁と忌役は、都から三十里以内の地に墓所を定めることを好しとせず、佐為の遺体は、都から遠く離れた野辺に埋葬された。
汚名を着せられ、知己を失い、病に倒れ。
それでも佐為は、誰をも憎むことなく、最期までヒカルを愛し続けた。
だからこそ、佐為の言葉は、ヒカルの胸に深く刻み込まれた。
先刻、明子の侍女たちに向かって切った啖呵は、佐為からの受け売りだ。
本当に、両親がヒカルを愛していたのか。
それとも、邪魔になって捨てたのか。
今となっては、誰にもわからない。
だから。
ヒカルは、佐為の言葉を信じている。
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