如果天空要下雨   第十三話

 






 自分が捨て子であることなど、ヒカルは、まったく構いはしなかった。

 ただ、佐為を悪く言われたことだけは、我慢できなかったのだ。

 それでも、アキラと向かい合って話しているうちに、明子の侍女たちへの怒りは収まり、いつしか、佐為への想いだけが、ヒカルの胸中を占めていた。

 語り終えたヒカルの顔には、追懐と憐惜の色が浮かんでいた。

 だが、痛ましく歪められた柳眉が、それだけではないことを示している。

 アキラは何も言わず、ただ、ヒカルが話し始めるのを待った。

「佐為は……オレが、近所のヤツらに、これを見せびらかしに行ってるあいだに……逝っちまった」

 長い沈黙のあと、ヒカルは、護符袋を撫でながらつぶやいた。

「この護符袋をもらった次の日だったよ。その日は雨が降ってて、誰も外で遊んでなんかいなかった。それでもオレは嬉しくって、早く誰かに見せたくて、都中を走り回ってたんだ。佐為をひとりぼっちにして……」

 ヒカルの目から、ぽたりと大粒の涙がこぼれた。

「顔見知りのヤツは誰もいなかったけど……お寺の門のところで、同い年ぐらいのこどもが、雨宿りしてるのを見つけた。オレが、そいつに護符袋を見せて、得意になってはしゃいでるあいだに、佐為は……佐為は……」

 自分の欲求を優先し、佐為の最期を看取れなかったことへの後悔と、病床の彼を困らせ、無理を強いたことへの慙愧。

 悔やんでも悔やみきれないと、ヒカルは嗚咽をもらした。

 涙は滂沱のごとく、とめどなくあふれ続ける。

 しゃくりあげる小さな肩がいじらしくて、アキラはそっと視線をそらし、手巾を差し出そうと懐を探った。

 だが、そのとき、ヒカルの手のなかの護符袋が目にとまり、ふと考え込んだ。

「……蘭若寺か?」

 アキラは、ぽつりと言葉をもらした。

「キミがそのこどもに会ったのは、都のはずれにある蘭若寺か?」

 都で寺といえば、蘭若寺を表す。

 高い塔と大きな山門のある名刹だ。

 ヒカルの言う寺がどこなのかを想像するなら、アキラでなくとも、百人が百人、真っ先に蘭若寺の名を挙げるだろう。

 しかし、今、寺の名前を特定する必要があるだろうか。

 ヒカルが、ごしごしと目をこするのを見ながら、アキラは、ひとつ咳払いをした。

「……雨がやむまで、ここで一緒に雨宿りしよう」

 詩を朗詠するかのような、少し節をつけた言い回しに、ヒカルは、不思議そうに顔をあげた。

 いや、正しくは、言い回しではなく、その言葉の内容に、思うところがあったようだ。

 涙に濡れたまつげを震わせて、じっとアキラを見つめる。

 そんなヒカルの表情に、アキラは、何かを確信したようだ。

「どうしても行かなければならないと言うなら、ボクが……」

 アキラが問いかけるように言葉を切るのを受けて、ヒカルは続けて言った。

「…………傘になってあげるよ?」








                








「もしかして、あのときのこどもって……」

「うん、ボクだよ。……キミの話を聞くまで、ずっと忘れていたけど、はっきりと思い出したよ」

 アキラは、少しバツが悪そうな顔をして頷いた。

「父が病に臥せっていた頃、蘭若寺のお坊さんに、よく祈祷してもらっていたんだ。父が亡くなったあとも、父の冥福を祈って、母は、時間に折り合いをつけては、熱心に通っていたよ」

 アキラは、幼い頃の記憶を辿るように、そっと目を伏せた。









 行洋が亡くなってまもなくの頃。

 亡き夫の供養のためにと、明子が、蘭若寺の高僧に祈祷を依頼したことがあった。

 その日は朝から雨模様だったが、せっかく店の仕事の都合をつけたのだからと、明子は予定を変えずに、アキラを伴って蘭若寺を訪ねたのだ。

 アキラの健やかな成長の祈願も兼ねていたのだが、まだ幼いアキラには、そのありがたみは理解し難かった。

 祈祷が始まってすぐに退屈してしまい、アキラは、こっそりと部屋を抜け出した。

 大店の一人息子であるアキラは、もともと、同年代の友達と過ごすことが少ない。

 ひとりで遊ぶことには慣れている。

 小雨のなかを縫って、山門のあたりまで探検気分で歩いてきたところで、急に雨脚が強まった。

 山門の大きな屋根の下で雨宿りをしていると、同じ年くらいのこどもが走ってきた。

 ずいぶんと元気のよい走りっぷりだが、胸元に結んだ桃色の絲帯から察するに、女の子だろう。

 雨よけのつもりか、古びた手巾を頭にかぶっているが、もうすっかりずぶ濡れだ。

 アキラのそばに駆け寄って、人懐こい笑顔を向けてきた。

「なあなあ、みてくれよ、これ!」

 その女の子は、濡れた手巾もそのままに、首からさげた小さな袋を差し出した。

「…………」

 上等な絹織物に囲まれて暮らしているアキラには、粗末な布袋にしか見えなかったが、持ち主の瞳が、あまりにも嬉しそうに煌いていたので、正直な感想を述べられなかったのだ。

 アキラが答えないのを不快には思わなかったようで、彼女は、にっこりと目を細め、得意気に胸を張る。

「さいがつくってくれたんだ。オレのなんだぜ、これ。いいだろー♪」

 誰もが持っている護符袋を、なぜこんなにも自慢して見せびらかすのか。

 アキラは不思議に思ったが、調子をあわせておくことにした。

 不用意な発言をして、その無邪気な瞳を曇らせてしまいたくなかったのかもしれない。

「へえ、護符袋か。あたたかみのある素朴な織りが素敵だね」

「だろ? だろ? えへへへ」

 嬉しそうにくるくると踊り出す姿を見て、アキラは、自分の選択は正しかったと安堵した。

 雨のなか、いきなり走り寄ってきた女の子。

 お世辞にも身なりがよいとは言えない、どこの誰とも知れない、行きずりのこども。

 いつもなら、しつけの行き届いているアキラが、見知らぬ者と親しく言葉を交わすことなどありえないはずなのに。

 雨宿りの退屈まぎれだろうか。

 それとも、この子の瞳の輝きに惹かれたのだろうか。

 アキラは、いつまでも一緒にいたいと思った。






 だが、護符袋を見せて満足したのか、彼女は帰ると言い出した。

 同年代の友達を持たないアキラは、どうやって彼女を引きとめればいいのかわからない。

 そこで、作り方をおぼえたばかりの詩を、即興で詠じた。



     もしも このまま雨が降り続くとしたら

       ボクと一緒に ここで雨宿りしてくれる?


「だめだよ。さいがまってるんだから」

「そ、そうか……。残念だな」

 だからといって、そう簡単には、あきらめられない。


     どうしても行くのかい?

       それなら ボクが傘になってあげるよ


「にんげんが、どうやってかさになるんだよ。ヘンなやつ」

「へ、ヘンって……。これは、詩の常套文句じゃないか」

 せいいっぱい背のびした台詞も、澄んだ瞳で首を傾げられては台無しだ。

 それなら、もっとわかりやすい言葉を……と、アキラが思いあぐねていると。

「あっ。雨があがりそうだ。じゃあな!」

 一瞬遅れて振り返ったアキラの目に映ったのは、山門の階段を駆けおりていく後ろ姿。

 アキラは、がっくりと肩を落とし、しだいに小さくなっていく人影を、いつまでも見送っていた。










 遠い昔を一通り思い出して、アキラが現実の世界に戻ってくると、ヒカルは焦点のあわない目をして座り込んでいた。

「……? 進藤?」

 名前を呼ばれれば、ちらりとアキラの顔に目を向けるが、すぐに視線を泳がせてしまう。

(進藤は、ボクを憎むだろうか)

 決してアキラのせいではないし、恨まれるのも憎まれるのも、筋違いである。

 だが、アキラは、自分が非難されることで、ヒカルの気持ちが軽くなるのなら、それでいいと思った。

(だけど……進藤はきっと、ボクを憎んで罪の意識から逃げるようなことを、潔しとはしないだろう)

 アキラは、ヒカルの視線をとらえるべく、居住まいを正した。

「ボクは、あの日、キミに出会えて嬉しかったよ」

「え?」

「今の今まで忘れていたのに、こんなことを言うのは、我ながら調子がいいとは思うけど」

 アキラは、ヒカルの目を見つめて、真摯に訴えた。

「あの日、キミとボクが出会ったのは、藤原佐為先生のお導きなんじゃないかな」

「…………佐為の?」

 驚いた声で返すヒカルに、アキラは大きく頷いた。

「藤原先生の遺志を継いで、碁の道を歩むキミの相手として。互いに切磋琢磨していける同志として。ボクを選んでくれたんじゃないかな」

 佐為・遺志・碁。

 それらのキーワードが、ヒカルの琴線に触れたようだ。

 ヒカルは瞬きもせずに、アキラを見つめている。

「キミが蘭若寺へ行ったのは必然だったんだ。藤原先生は、ボクたちを会わせたかったに違いない」

「…………」

「初めて会った日から今日まで、ずいぶんと長い年月が流れた。なぜ、あの日でなくてはならなかったのかはわからない。だけど、この十年は、きっと必要な時間だったんだと思う」

 そう言いながらも、アキラには確信はなかった。

 すっかり失念していただけの空白の十年を「必要な時間だった」だなんて、こじつけもいいところだという自覚もあった。

 それでも、蘇張の弁とばかりに言葉が自然と連なっていくのは、アキラ自身、どこか信じるところがあったのかもしれない。

 悔恨の念に囚われて泣き続けるよりも。

 他人を憎んで自らの苦しみから逃れるよりも。

 然るべくして起こったことだと、受け入れてほしかった。

 過去を嘆いて瞳を曇らせるのでなく。

 怨嗟や憎悪に眉をゆがめるのではなく。

 晴れやかな笑顔を見せてほしかった。









「そんな話……信じらんないよ……。そんなの、ただの偶然じゃんか」

 ヒカルは、まだ少し濡れたままの睫毛を伏せた。

「偶然? キミは、どれだけの人間が都に住んでいると思っているんだ?」

 何十万という人間のなかで、あの日、蘭若寺の山門にいたのは、たったふたり。

 しかも、ふたりとも囲碁が好きで。

 十年後に再会を果たすなんて。

「単なる偶然で済ませられることだろうか。人間には見えない、何か大きな力がはたらいているとしか思えないよ」

 見えない力に導かれて、ふたりは出会った……。

 運命の赤い糸の伝説とも言い換えられる言葉に、言ったアキラも、言われたヒカルも、顔を赤らめてうつむいた。



 ちょうどそのとき。

「「ただいまー」」

 扉の外から声がかかった。

 あかりと明日美が、仕事を終えて戻ってきたようだ。

「あら? 若旦那さまじゃありませんか」

「侍女の部屋で、何をしていらっしゃるのですか?」

 言葉の端々に棘がある。

 あかりも明日美も、金子の作戦通り、アキラを悪者だと思い込んでいるのだ。

「ぼ、ボクは、これで失礼するよっ」

 あわてて部屋を飛び出していくアキラの頬は、まだ染まったままだ。

 座り込んでいるヒカルも、また同様だ。

「なになになに? もしかして……わたしたち、お邪魔だった?」

「ひ~か~る~? どういうことよー。お姉さんたちに白状しなさーい」

 あかりと明日美は、じりじりと膝を進める。

 餃子論争から始まったヒカルの長い午後は、まだまだ終わりそうになかった。





 おそらく、この話で一番の難産。

 あとは坂道を転げ落ちるように……(違)。

 ヒカちゃんとアキラさん、10年前に出会ってたんですね。←第一話参照

 出会ってなくても話は進むんですが、純情なヒカちゃんがアキラさんに惚れるには、何かパンチのきいたトピックがないと(笑)。

 ところで、蘭若寺。

 香港の某幽霊映画に出てきた幽霊寺院の名前です。

 所在地もフィクションのようなので、そのままパクリ。←架空の県名だったみたい

 次回は、ヒカちゃん元気に復活ですよ。





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