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その日の水汲みを終えたヒカルは、午後の乾いた風に吹かれながら、花園を歩いていた。
あかりと明日美も一緒だ。
どちらかと言えば、あかりと明日美がメインで、ヒカルはおまけ、といった風情である。
あれこれと花を吟味するふたりのうしろを、ヒカルは落ち着かない表情でついていく。
その口元は、さざなみのように少々ゆがんだ形に引き結ばれているが、頬はほんのりと赤く染まっており、「照れくさいです」というヒカルの心情を、大いに物語っていた。
それもそのはず。
すべてを打ち明けさせられたあげく、こうして、アキラの部屋に飾る花を選ぶために、花園に連れてこられたのだから。
あの夜。
ヒカルから話を聞き出すと、ふたりは、それぞれの感想をもらした。
「幼い日の淡い初恋。そして運命の再会。ああ、なんてロマンチックなの!」
「囲碁がサクセスストーリーの鍵を握っていたなんて。チャンスはどこに転がっているかわからないものなのね」
玉の輿を狙うあかりは、瞳をうっとりと潤ませ、キャリアアップをめざす明日美は、自身に言い聞かせるかのようにつぶやいた。
「いや、別に、初恋とかチャンスとかってわけじゃ……」
「「ど・こ・が・ち・が・う・の・よ!」」
ヒカルがごにょごにょと訂正しようとするのを、間髪入れずに否定する。
「若旦那さまは、ヒカルに思いを寄せていらっしゃるわよ。部屋を出ていかれた時の、あのご様子……。……うん、絶対に間違いない」
「仮に、最初は囲碁の指南が目的だったとしても。今は、ヒカルにメロメロよ。十年ぶりの劇的な再会に、心を動かされないほうがおかしいわ」
そして、お約束のように、「ヒカルは若旦那さまのことをどう思ってるの?」という問いへと発展した。
「えっ? オレ……?」
そんなこと考えたこともない…といった様子のヒカルに、あかりと明日美は、ため息をついた。
「水汲みのあと、碁を打つのが楽しいの? それとも、若旦那さまと一緒にいることが楽しいの?」
「朝早くから水汲みに行かなきゃいけないのに、夜遅くまでお茶っ葉を選り分けるなんて、好きな人のためじゃなきゃできないことよ」
「なっ……知ってたのか」
ふたりが寝静まってから、こっそり茶葉の吟味をしていたことがバレていたなんて。
ヒカルの頬は、ゆでた蛸のように真っ赤に染まった。
「その赤くなった顔が、なによりの答えなんじゃないの?」
「自分の気持ちを、素直に言ってごらんなさい。ほら!」
詰め寄るふたりの顔を上目遣いに見つめてから、ヒカルは目を閉じて、すーっと深呼吸した。
アキラは、真面目で優しい。
九星堂の次期社長だけあって、きりっとした雰囲気もあるが、くだらないことでヒカルと口喧嘩をするような、少々幼い面もある。
絹織物を扱う店の若旦那でありながら、あまりにも個性的なセンスの持ち主だというのもご愛嬌だ。
そんな言葉で表される特徴よりも、ヒカルの胸に強く響くのは。
『ボクはキミと出会えて嬉しかったよ』
ヒカルを救ってくれた、あの言葉だ。
直接、「キミのせいじゃない」と言われたわけではないけれど、ヒカルにとって、それは確かに、赦しの言葉だった。
長いあいだ、ヒカルの心の奥底に、澱となって沈んでいた苦しみ。
幼い頃のこととはいえ、今なお自省の念に駆られる、自分勝手で無意味な行動。
アキラは、それを意味のあることだと言ってくれたのだ。
真摯に訴えるアキラの姿が、ヒカルの目の奥に焼きついて離れない。
(……これが恋なのかな)
今までも、主人と侍女というただの雇用契約以上に、友好的な関係だという自覚はあった。
もしかしたら、知らないうちに、少しずつ好きになっていたのかもしれない。
そして今。
ヒカルは、確かにアキラに恋をしていた。
「オレ……塔矢のこと、す、す……好き……かも」
「かも、は、余計でしょ?」
「これだから、おこちゃまは……」
真っ赤になったヒカルに向かって、あかりと明日美は、優しく包み込むように微笑んだ。
かくして、「若旦那さまに熱烈アタック大作戦」という、誰が聞いても恥ずかしくなるような作戦名のもと、3人は花園にいるわけである。
「若旦那さまは、どんな花がお好きなの?」
訊かれても、ヒカルには花のことなど、さっぱりわからない。
「じゃあ、何色が好きなのよ。聞いたことないの?」
好きな色は知らないが、食べ物の好みなら知っている。
焼き餃子よりも水餃子。
ラーメンは醤油。
ゆでたまごは固ゆでだ。
「塔矢の好きな花も色も知らないよ。あいつが好きなのは囲碁だよ」
好きな人のために花を選ぶという恥ずかしさもあって、ヒカルはなおざりに答えた。
「もうっ。ヒカルも若旦那さまも、囲碁囲碁囲碁。囲碁ばっかりじゃない」
「いっそ、碁石みたいに白と黒の花があればいいのに」
不満気に口をとがらせるふたりに、ヒカルは、あわてて「しーっ」と人差し指を立てた。
「禁棋令のことを忘れたのかよ。誰が聞いてるか、わからないんだぜ」
ヒカルに制されて、あかりは慌てて両手で口をふさぎ、明日美は首を縮めた。
「それにしても、奥様は、どうして禁棋令を敷いたのかしら」
明日美の問いに、あかりが、「使用人が囲碁にかまけて仕事をさぼるのを防ぐためじゃないの?」と、答える。
九星堂の使用人のあいだでは、確かに、そう言われている。
だが、ヒカルには、思うところがあったようだ。
「……たぶんだけど。亡くなった旦那さまを思い出すのが、つらいんだと思う」
ヒカルは遠い空を見あげながらつぶやいた。
「旦那さまは囲碁が好きだったんだろ? 旦那さまが生きてる頃は、碁にヤキモチ焼いてたんじゃないかな」
ヒカルも、佐為が皇帝の指南役として伺候する時には、家にひとり残され、さびしい思いをしたものだ。
そんな経験から、ヒカルには、明子が碁に行洋を盗られたような気持ちになったことは、容易に想像できた。
けれど、ヒカルと明子のあいだには、決定的な違いがある。
自身が碁を打つか打たないか、だ。
ヒカルは、碁を思うたびに、佐為がいつでも自分とともにあることを強く感じることができる。
ヒカルと佐為を、碁が強く結びつけていると言ってもいいだろう。
だが、明子は?
明子には、行洋と碁盤を囲んだ思い出がない。
自分から行洋を奪った碁への憎しみしかないのだ。
「奥様はきっと……旦那さまのことが、今でもすごく好きなんだよ」
ヒカルは、禁棋令の理由を、そう結論づけた。
「碁にヤキモチかあ。なんか胸がキュンとしちゃうわ」
「なるほど。さすがは恋するオトメね」
「そ、そんなんじゃねえよぉ……」
きゃらきゃらとにぎやかに騒ぐ3人を、花園の外から見ている人影があった。
それは、今まさに、話題にのぼっていた人物である。
あくる日の朝。
いつものように各支店からの報告が済んだあと、明子は、部屋へ戻ろうとしているアキラを呼びとめた。
「アキラさん。ちょっとよろしいかしら。お願いがあるのよ」
「はい。なんでしょうか」
ニコニコと機嫌よく話しかけてくる母親に、アキラも笑顔で応える。
さわやかな朝にふさわしい、親子の会話の手本そのものだ。
だが、明子の言う「お願い」は、思いがけない内容だった。
まるで、高く澄んだ晴れやかな空から、雷雲が立ち込める低い空へと、天気すら変えてしまうかのような。
明子は、にっこりと微笑みながら告げた。
「アキラさんに仕えている侍女を、わたくしに譲ってくださらないかしら」
「な……っ!」
アキラの笑顔は、一瞬で凍りついたのだった。
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