如果天空要下雨   第二話






 各支店からの報告を受けたあと、部屋に戻ったアキラは、書棚の整理を続けた。

 雨の少ない都では、湿気を含んだ古い紙に特有の、埃とカビの匂いを感じる機会は少ない。

 アキラは、この匂いが好きだ。

 温故知新。

 古い書物や巻物から、新しい知識を得られることが少なくないことを、アキラは知っていた。

「あ。これは……」

 書棚の奥のほうから出てきたのは、色褪せた棋譜の束。

 アキラは、慌ててそれを懐に隠した。

 ここ九星堂では、囲碁はご法度である。

 誰かに見つかったら、即刻、焼却処分されてしまうだろう。

 使用人たちは、アキラではなく明子の指示に従って動いているのだ。

 アキラ自身、母親である明子には逆らえない。

 それでも、時折、うろ覚えの先人たちの棋譜を、頭のなかに思い描いては、囲碁を懐かしんでいる。

 そこへきて、古い棋譜を発見してしまったとあっては、もう、居ても立ってもいられない。

 アキラは、部屋の扉をそっと開け、あたりをキョロキョロと見回して、近くに誰もいないことを確かめた。

 窓という窓もすべて閉ざし、しっかりと鍵をかける。

 そして、いそいそと机に向かうと、懐から、そーっと棋譜を取り出した。

 色褪せた紙に、墨つきも見事に書かれた文字は、今は亡き父・行洋の手によるものだ。

(そういえば、この部屋は、お父さんが書斎として使っていたんだっけ……)

 道理で棋譜が残っているわけだと納得し、アキラは、ぱらぱらと棋譜をめくった。

 対局者の名前は様々だが、なかには稀代の名手と謳われた皇帝の囲碁指南役の名もあった。

「すごいな……」

 アキラは、一枚の棋譜に目をとめて、じっくりと見入った。

 棋具を手放して十年。

 頭のなかに石を並べることなど、すっかり習慣になってしまっているアキラにとっては、造作もないことだ。

 一から順に着手を追っては、ほうっとため息をついたり、大きく頷いたり。

 気づけば、かなりの時間が経ってしまっていた。

(これだけの枚数だ。相当な時間、楽しめそうだな)

 アキラは、にんまりと頬をゆるませた。

 大店の若旦那とはいえ、アキラはまだ十八歳。

 まだまだ趣味に時間を割きたい年頃なのだ。






 アキラは、書棚の奥に棋譜の束を隠すと、何事もなかったような顔をして、窓を開け放った。

 屋根や塀をしっとりと濡らしていた霧雨は、すでにあがっており、抜けるような青空に、太陽が白い光を放っている。

 陽の高さから、そろそろ店に顔を出す時刻であることを知り、アキラは部屋の扉をあけた。

「まあああっ! すごいわ! なんて力持ちなのかしら」

 アキラが幼い頃から耳にしてきた声が、庭のほうから聞こえてきた。

 女中頭の市河である。

「市河さんの声だ。どうしたんだろう」

 アキラは、回廊へと足を一歩踏み出した。

 すると。

 頭の上に、大きな甕を乗せた少女が、足取りも軽く、アキラの目の前を横切っていった。

 ちょうど、アキラの部屋の扉の前を通りかかったのだろう。

「うわっ」

 アキラが思わず身を引くと、少女は、「ごめーん」と、声だけで詫びて、そのまま裏庭のほうへ歩いていってしまった。

 少女の頭上にあったのは、大人の男性であっても運ぶのに苦労するほどの、大きな焼き物の甕。

 それだけでも相当な重さだ。

 だが、アキラは、甕の口から水滴が飛び散っているのを見ていた。

「あの子が、今日から家で働いてくれるっていう娘さんかな?」

 すでに少女が姿を消してしまった裏庭のほうを眺めながら、アキラはつぶやいた。

「すみません、若旦那さま。お怪我はございませんでしたか?」

 市河が駆け寄って、ぺこりと頭を下げた。

「大丈夫だよ。それより、あの子、ずいぶんと力持ちだね」

 わずかに袖にかかってしまった水滴を手で払い、アキラは尋ねた。

「はい。今までいろいろなお屋敷に勤めていたらしいんですけど、何をやっても失敗ばかりしていたと言うんです」

 普通は、少しでも自分をよく見せようと、以前の勤め先での失敗談などは隠したがるものだ。

 だが、彼女はそうではなかったらしい。

「ですから、誰にでもできる水汲みが、主な仕事だったそうです。そのせいでしょうか、あんなに大きな甕を頭に乗せて運べるのは」

 大陸の内部に位置する都の気候は、かなり乾燥ぎみだ。

 雨も降るには降るが、今日のように、わずかに霧雨が降る程度で、地下水となって井戸を潤すまでには至らない。

 井戸の水は、すぐ枯渇してしまうため、都では、飲料水以外の水は、その日に使うぶんだけ川へ汲みに行く。

 そして、それは、体力自慢な青年の仕事であることが多かった。

「誰にでもできる仕事だとは言っても……あの運び方は、もう達人の域に達してるんじゃないかな」

 アキラは、自分のひょろっとした腕をさすりながら、感心したように言った。

「ええ。普通なら川まで二十回往復するところを、あの子なら十回でこなしてしまうでしょう」

 都の中心に屋敷を構える九星堂は、郊外を流れる川から、かなり離れている。

 往復する回数が少なくて済むというのは、水汲み係にとって、非常に喜ばしい能力だ。

「たいした子が入ったものだね。……ああ、そうだ。あの子の名前は?」

 アキラは、ふと興味を持って、市河に尋ねた。

「ヒカル。進藤ヒカルでございます。お屋敷に来て早々、若旦那さまに名前を覚えていただけるなんて、幸せな子でございますこと」

 市河は、そう言って、アキラの前から辞した。

「進藤ヒカル……か」

 まだ小さな少女なのにたいしたものだと、アキラの目には、たいそう好ましく映った。



 ただ、「小さな少女」というのは誤りで、ヒカルが彼と同い年であることを、アキラはまだ知らなかった。








 その夜。

 初日の仕事を終え、ヒカルは、自分にあてがわれた部屋で、同室の少女たちと自己紹介を兼ねて、おしゃべりを楽しんでいた。

「ふーん。じゃあ、ヒカルも両親がいないんだ」

 白湯に口をつけながらつぶやいたのは、厨房見習いのあかりだ。

「うん。オレ、生まれてすぐに、両親と離ればなれになっちまったらしい」

 湯飲みでてのひらを温めながら、ヒカルは、ほっこりと笑い、何事でもないかのように告げた。

「まあ。生まれてすぐに……」

 今まで、どうやって暮らしてきたのかと、心配そうに訊いてきたのは、洗濯係の明日美。

 ふたりとも、つい最近、両親を亡くして、この屋敷に勤めることになったという。

 屋敷勤めは初めて。

 家事手伝いだけで生活できるレベルの家庭の出身ということだ。

 だからこそ、すんなりと九星堂に雇い入れられることになったともいえる。

 あかりは十八歳。

 明日美は、もうすぐ二十歳になる。

「育ててくれた人がいてさ。その人と一緒に暮らしてたんだ。だけど、オレが八歳のとき、その人が死んじゃって……」

 ヒカルは、懐かしむような遠い目をして、またすぐに笑顔に戻った。

「それからは、いろんなお屋敷を転々としてきたってわけ。ここに来たのは、こないだまで勤めてたお屋敷からの紹介。十年選手を探してたところに、オレが引っかかったみたい」

 ヒカルはケロっとした顔で説明したが、あかりと明日美は、同情するように目を細めた。

「ヒカル……。苦労してきたのね」

 あかりは少し涙もろいようで、うるうるとした目を、袖口でぬぐった。

「これからは、わたしたちが、ヒカルのお姉さんになってあげる。ね、あかり」

 明日美に声をかけられて、あかりは、「もちろんよ」と、大きく頷いた。

「ありがとう! …………だけどさあ……」

 ヒカルは満面の笑みで応えながら、上目遣いで、ちらりとふたりの顔を見た。

「お姉さんになってくれるのはうれしいけど、オレ、たぶん、そんなに年、違わないぜ?」

 そう言われて、ふたりは、ヒカルの身体をじっくりと見回した。

 くるくると表情を変える黒目がちな大きな瞳。

 小さな顔。

 細っこい首。

 申し訳程度にふくらんだ胸。

 水汲みという力仕事をしているわりに、華奢な腕。

 それなのに、手や指はぷにぷにと柔らかそうで。

 おまけに、三人で車座に座っていても、明らかに視線に傾斜がある。

 あかりと明日美が高くて、ヒカルはかなり低い。

「嘘でしょう? 十三か十四……、多めに見ても十五歳ってところじゃない?」

 明日美の正直な印象に、ヒカルは、キシャーーーっと、猫のように噛みついた。

「オレ、十八! こう見えても、正真正銘の十八歳なの!」

「うっそ~。じゃあ、わたしと同い年じゃない」

 あかりが目をまるくする。

 無理はない。

 昼間目にした、大きな水甕を頭上に乗せて歩くヒカルの姿は、甕の大きさも相まって、さらに小さく見えたのだから。

「もしかして、頭の上に重たい水甕を乗せるから、骨が成長しないんじゃない? それに、筋肉ばっかりだと、魅力的なスタイルになれないわよ」

「そうよそうよ。せっかく九星堂に勤めることになったのに」

 あかりや明日美に言わせると、九星堂は、商品のブランド価値の高さだけでなく、女性たちの憧れの職場としても有名であるらしい。

 待遇のよさゆえに長く勤めることもできるし、『元・九星堂の使用人』というネームバリューを生かして、さらにキャリアアップをめざすことも可能だという。

「制服もオシャレだし、お給金もいいし。わたしは、寿退職するまでここに勤めるつもりよ。先輩の桜野さんや日高さんみたいに、玉の輿をめざすの」

 あかりは、九星堂の使用人の「玉の輿率」の高さについて、熱く語った。

 上流階級においては、おなじような家柄同士の結婚が圧倒的に多いが、最近は、九星堂出身者を妻にしたいと望む声が高まっているという。

 働く女性としての自我がしっかりしているため、妻として、使用人たちの管理をきっちりこなすことができる。

 雇用経験があり、金銭感覚が備わっているので、無駄な浪費をしない。

 それでいて、流行に敏感で、洗練されたファッションセンスを持っている。

 下働きの女中では、寿退職には程遠いが、侍女に格上げされれば、玉の輿も夢ではないのだ。

 だが、明日美は、あかりとは違い、宮廷の高級女官をめざしているという。

「若旦那さまの側仕えの金子さんがね、今度、後宮に入られる新しいお妃さまの侍女として、スカウトされたのよ」

 明日美は興奮して身を乗り出した。

「九星堂で側仕えをするだけのキャリアがあれば、安心して任せられる…って、先方が引き抜く気満々なんですって」

 そのあたりの事情は、あかりも詳しいようで、補足説明をしてくれた。

「金子さんの場合は、実力で選ばれたんでしょうけど、わたしは、見た目の可愛さで、実力のなさをカバーして、いつかきっと……!」

 明日美の方向違いな決意に、ヒカルは、ぷっと吹き出した。

「なによー。笑うことないじゃない。九星堂に勤めるって、そういうことなのよ。国中の働く女性の憧れを背負ってるんだから」

 頬をふくらませる明日美を、あかりは、「まあまあ」と、なだめて、ヒカルに話を振った。

「ヒカルは? ヒカルの夢はどんなこと?」

「えっ、オレ? オレは……別になんにもないよ。水汲みして、メシを食わしてもらって。それで十分だよ」

「ずいぶん水汲みにこだわるのね。なにか理由があるの?」

 あかりのこの質問は、ヒカルを動揺させた。

「へ? いや、別にこだわるとかそんなんじゃなくて……。オレ、他になんにも取り得がないんだ。こまかいこととか、頭使うことは全然ダメで。だけど、力仕事には自信があるからさ。それだけだよ」

 水甕を頭に乗せたヒカルの姿を見ていたせいもあるだろう、ふたりは、「確かに天職かもね」と、大きく頷いた。

「そろそろ寝ようぜ。オレ、本格的に水汲み仕事を任されたから、朝早いんだ」

 ヒカルの言葉で、その場はおひらきとなった。






 ヒカルは明かりを消し、寝具にもぐり込んだ。

 下働きの女中の寝具とはいえ、布団には、うっすらと綿が打ってある。

 今までにヒカルが勤めてきた屋敷とは大違いだ。

 さすが九星堂といったところだろうか。

 ヒカルは、もぞもぞと寝返りを打って、懐から護符袋を取り出した。

(佐為……。オレ、また水汲み仕事をやることになったよ。女中頭の市河さんも、おなじ部屋のふたりも、いいひとみたいだから、心配しないでくれよな)

 護符袋を握りしめて、心のなかで話しかける。

(でもさあ。聞いてくれよ、佐為。この屋敷、禁棋令っていうのがあるんだって。そんなの知らなかったよ。どうしようか、なあ、佐為……)

 困ったようなため息をひとつもらし、ヒカルは、頭からすっぽりと布団をかぶった。

 初日の緊張もあったのだろう。

 ヒカルは、すぐに寝息を立て始めたのだった。



 



 盛唐時代が舞台ですから、都は長安。

 現在の陝西省の省都・西安市です。

 東京の半分くらいしか雨が降らないのは事実ですが、井戸が枯れてしまうようなことはありませんので念のため。

 西安市から少し郊外に出ると、緑の自然がいっぱいです。

 丘陵地帯に山やら川やらが、これでもかというくらい、どかんと自己主張しています。

 このあたりが、がびの故郷です。

 それにしても、あいかわらずカタカナが出まくってますなあ。

 これって、一応、時代モノっていうジャンルだと思(以下略)。





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