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商家の朝は早い。
店の棚に品物を並べる者や、店主に報告する帳簿をととのえる者は、夜明けとともに起床する。
店の掃除をする者や、店先の乾いた地面に水を撒く者は、夜明けとともに働き始める。
食事の支度をする厨房の者たちは、夜が明けきらぬうちに火を起こす。
そして。
彼らの使う水を、川まで汲みに行く者は。
まだ空が白み始める前に、屋敷の通用口を出ていく。
如果天空要下雨 第三話
ヒカルの仕事は、川へ水を汲みに行くことである。
都に店を構える大きな屋敷において、それは重要な仕事だ。
なぜなら、厨房で使う飲料水は、屋敷の裏に掘られた井戸から汲みあげて使うが、掃除や手洗いには、川から汲んできた水を使うからだ。
貴重な地下水を枯渇させないための知恵ではあるが、水汲み係を受け持つ者にとっては、嬉しくない話である。
都で一番の大店である九星堂では、水拭き掃除や手を洗うためだけでも、大量の水を必要とする。
広い屋敷の石張りの床を磨き、店の棚を拭き、ともすれば砂塵を巻き上げる店先の大通りに水を撒く。
砂によって商品が汚れぬようにとの配慮が欠かせないのだ。
また、高級な白絹を扱うため、常に手を清潔にしておく必要もある。
それから、食器類を洗うための水も、川の水を使う。
厨房では井戸水を使えるとはいっても、鍋などの調理器具や、食器を洗うのに、貴重な井戸水を使うことはできない。
そればかりではない。
最も大量の水を必要とするのが、洗濯である。
井戸を掘るだけの力を持たない一般の人々は、川の水を飲用に使うため、川で洗濯をすることは禁じられているのだ。
九星堂の本店を兼ねるこの屋敷に住む従業員の数は、五十人を超える。
彼らが一日に必要とする水の量は、大人がすっぽりと入る大きさの甕に、およそ二十杯といったところだ。
そして、さらに。
屋敷の奥には、皇族出身の明子のためにしつらえられた庭園がある。
遠い異国から取り寄せた花々が、数多く植えられており、高温多湿の気候でしか育たないというその植物のためにも、大量の水が必要なのだ。
そのため、水汲み係を受け持つ者は、一日中、屋敷と川を往復しなければならないのが通例だった。
だが、ヒカルは違った。
力自慢の若い男が水汲みに使う甕よりも、さらに大きな甕を頭に乗せ、ほぼ二倍の量の水を一度に運ぶことができるのだ。
つまり、屋敷と川を往復する回数を、半分で済ませられるということである。
とはいっても、九星堂で使う水の量は半端ではなく、ヒカルであっても、十回は往復する必要があるのだが。
小さな身体で、大きな甕を運ぶヒカルの姿は、たちまち都で評判になった。
曰く、「働き者の小姑娘」と。
水汲み以外の仕事は、ろくにできないという事実を知っている市河は、それを聞いて苦笑したというが、これは余談である。
さて。
一日に川まで行く回数が半分で済むとはいっても、朝一番に使う水が、店の掃除のためのものであることに変わりはない。
つまり、ヒカルは、夜明けまでに、最初の水汲みを済ませなければならないのだ。
まだ暗いうちに屋敷の通用口を出て、郊外の川へと向かう。
そして、東の空が白々と明るくなる頃、たっぷりと水を入れた大きな甕を頭に乗せて、屋敷に戻ってくるのである。
ヒカルは、早起きが得意というわけではなかったが、幼い頃から十年近く続いている早起きの習慣に、すっかり慣れてしまっていたため、毎日、寝坊もせずに、しっかり役目を果たしている。
もともと、身体を動かすことが好きな性分であるせいでもあるだろう。
使用人たちが、馬桶洗いの次に嫌がるという水汲み仕事だが、ヒカルはこの仕事が好きだった。
にぎやかな街の様子や、四季折々の郊外の景色を眺めながら、屋敷と川を往復する仕事を、まさに天職だと思っている。
それに、ヒカルの仕事は水汲みだけであるため、午後の早い時間までにそれを終えてしまえば、あとは自由時間だ。
あまり多く汲みすぎても、水が傷んでしまうため、余計に仕事をする必要はない。
実は、ヒカルが水汲み仕事にこだわる理由は、そこにあったのだ。
ヒカルが塔矢家に来て、一ヶ月が過ぎた。
いつものように十回目の水汲みを済ませて屋敷に戻ると、陽はまだ高く、さわやかな風が洗濯物を揺らしていた。
「はい、これが今日の最後の水だよ」
ヒカルは、屋敷の裏の大きな貯水槽に、頭上の甕から水を移した。
「お疲れさん、ヒカル。明日も頼むよ」
厨房から食器洗いのための水を汲みに来ていた調理人に声をかけられ、ヒカルは、「おう、まかしとけって!」と、笑った。
このあとは、自由時間だ。
ヒカルが、水汲み以外の仕事を言いつけられることはない。
塔矢家に来た当日、自分の不器用さを市河に伝えたにも関わらず、それを知らなかった女中のひとりが、ヒカルに洗濯物を取り入れるように言いつけたことがあった。
だが、干してあった衣類を両手に抱えて裏庭を歩いていたところ、敷石につまづいて、地面に放り出してしまったのだ。
また、円卓に肘をぶつけて上等な茶器を割ってしまったり、拭き掃除で力を入れ過ぎて飾り格子を折ってしまったり。
屋敷に来て数日のうちに、散々な失敗をしてしまい、以来、ヒカルの仕事は水汲みだけ、と決まったのだ。
ヒカルは、その日の仕事を終えて、足取りも軽く、使用人の部屋のある一角へと向かった。
だが、行き先は自分の部屋ではない。
北向きの裏庭のさらに裏手、土塀のすぐそばの物置小屋だ。
敷地内の隅にあるその小屋には、特別なときにしか使わない物が保管されているため、めったに人が寄りつかないことを、ヒカルは、ちゃんと知っていた。
ヒカルは、きょろきょろとあたりを見回して、誰もいないのを確認すると、小屋の外壁に寄りかかって腰をおろした。
「へっへっへ。我ながらいいとこ見つけちゃったよな。オレって天才」
ヒカルは、にやりと口元をあげると、手近にあった木の棒で、地面に線を描き始めた。
縦に19本。
横にも19本。
そう。
碁盤である。
多少、線が曲がっていたり、間隔が歪んでいたりするのはご愛嬌だ。
「禁棋令は聞いたけど、そう簡単には、やめられないよなあ♪」
ヒカルは、足元に描いた即席の碁盤を眺めて、にんまりと笑った。
「今日は誰の棋譜を並べようかなあ。……そうだ、久しぶりに対局しよう」
ヒカルは、木の棒をぎゅっと握りしめて、「お願いします」と、誰もいない塀に向かって頭をさげた。
「オレが黒。白もオレな」
一手目の黒は、木の棒で地面をぐりぐりと掘る。
二手目の白は、地面に○を描くだけだ。
定石通りに進んでいく盤面は、白のツケで一転した。
「うおっ。これは難しいぞ、と。……よし、ここはキリで乱戦に突入だな」
「それなら白は……景気よくアタリだ」
「そしたら、当然ツグだろ」
「ふふん、それも計算のうちだ。次は、こっちからアテる……っと」
ヒカルは勝手読みを潔しとせずに、白黒双方の最善手を探っていく。
下働きの身分のヒカルには、紙も筆も買えない。
碁盤や碁石など、手の届かない高級品だ。
以前の勤め先では、碁を嗜む高齢の使用人たちと、ごくたまに盤を囲むことはあったが、碁盤も碁石も、ヒカルの物ではなかったため、好きなときに打てるわけではなかった。
盤石を所有しているということは、それなりに地位のある使用人であることを意味している。
下働きの小娘であるヒカルなど、そう簡単に仲間に入れるものではない。
せっかくの休憩時間なのだから、年齢が近く話のあう仲間同士で談笑しながら碁を楽しみたいという気持ちもあったのだろう。
たまたま相手がいない時にだけ、ヒカルも呼んでもらえたのだ。
だから、ヒカルは、地面に碁盤を描き、木の棒で石の流れを描くことで、碁に親しんできたのである。
この十年のあいだ、どこの屋敷でも、水汲みの仕事が終わり次第、ヒカルはお気に入りの場所に座り込んで、地面に棋譜を描いてきた。
陽が暮れて、地面に描いた線が見えなくなるまでずっと。
ヒカル対ヒカルの対局は、黒のヒカルの勝利に終わった。
「検討したいけど……もう暗くなってきたし。明日にしよっと」
ヒカルは、地面の碁盤に砂をかけ、証拠を消した。
ここで碁を打っていたことを、誰にも知られてはならない。
もし知られたら、屋敷を追い出されてしまうだろう。
「まさか、禁棋令のある屋敷に勤めることになるなんてな。佐為が聞いたら、なんて言うかな」
ヒカルは、頭をかきながら、くすりと笑った。
その笑顔が、少しだけ悲しそうだったことは、傾きかけた夕陽だけが知っていた。
その日は、朝から雨が降っていた。
都の乾いた土地を、しめやかに潤している。
ヒカルは、雨の日が好きだ。
雨の日は、洗濯物が乾きにくいため、急ぎの物しか洗わない。
庭園の草花に水を遣る必要もない。
だから、川へ水を汲みに行く回数が減る。
つまり、ヒカルの自由時間が増えるということなのである。
雨の少ない都では、そんな日は、数えるほどしかなかったけれど。
雨のため、午後の早い時間に、今日の分の水汲みを終えたヒカルは、物置小屋の壁にもたれて、地面に棋譜を描いていた。
風通しをよくするための小窓には、雨よけのひさしが張り出している。その下に座り込んでいれば、雨に濡れる心配はない。
「この白のコスミツケ……。何度見てもしびれるよなあ」
ヒカルは、頭のなかにあるお気に入りの棋譜を、地面の碁盤に再現していった。
「そのあとの黒の応手も、すごいんだな、これが」
ヒカルは、手に力をこめて、木の棒で地面をぐりぐりと掘った。
「でも、白には次の矢が用意してあって……。かあ~っ。これだよ、これ。たまんないよなあ」
よほど思いいれのある棋譜なのだろう。
興奮ぎみに賞賛する声が、次第に高くなっていく。
敷地内のはずれ。
人の近づかない物置小屋の裏。
サーサーという、こまかい雨の音にまぎれて、ヒカルの声は、誰にも聞こえないはずだった。
しかし。
「誰だ? 誰か、そこにいるのか?」
若い男の声がした。
「やべえ! 真柴さんだ」
真柴というのは、九星堂の掃除夫のひとりだ。
主に、屋敷の外回りの掃除を受け持っているため、物置小屋の近くにいてもおかしくはない。
ヒカルは、あわてて棋譜のうえに砂をかけて、証拠隠滅をはかったが、声の主は、すでにヒカルの目の前にいた。
「おまえは、新入りの水汲み娘じゃないか。こんなところで何を…………ああっ! これは!」
真柴が視線を落としたヒカルの足元には、隠しきれなかった碁盤の線が、くっきりと残っていた。
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