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「おまえ……禁棋令を破りやがったな!」
「うわっ! 何すんだよ! 放せ!」
ヒカルは、手足をバタつかせて、自分を戒める腕から逃れようとしたが、立っている真柴と、座っているヒカルとでは、力の差がありすぎる。
地面に座り込んでいた状態のまま、ヒカルは、ずるずると引きずられてしまった。
お仕着せ服の襟が、首にかかって息が詰まりそうになる。
ぬかるんだ地面を引きずられて、手足は泥だらけだ。
裏庭まで引っぱり出されたところで、ヒカルは、真柴の指に噛みついた。
「痛ぇっ! 何しやがる、このクソガキ!」
真柴は、ヒカルの頬を、思いきり叩いた。
バシャン
ヒカルは、水たまりのうえに倒れ込んでしまった。
「禁棋令を破ったうえに、新入りの分際で、先輩に逆らうとは、いい度胸だ! 覚悟しろ!」
真柴は、ヒカルの胸倉をつかむと、今度は拳でヒカルの頬を打った。
目から火花が飛び散るような感覚に遅れて、じんじんと痛みが襲ってくる。
ヒカルは、顔をかばおうと手をのばすが、その前に、再び殴られてしまう。
騒ぎを聞きつけた使用人たちが、駆けつけてきた。
乱暴者の真柴は、使用人のあいだでも、あまり評判がよくない。
その真柴が、新入りの水汲み娘を一方的に殴り飛ばしているのを見て、使用人たちはヒカルに同情した。
だが、彼らは、とばっちりを恐れて、遠巻きに見ているしかない。
そのとき。
回廊を渡ってきたふたつの人影が、中庭にさしかかった。
肩の長さで揃えられた髪型は共通しているが、片方は男性、もう片方は女性だ。
男性がほっそりとした体型なのに比べて、女性は、かなりしっかりとした体格の持ち主のようである。
ふたりは回廊の途中で足をとめ、中庭へと視線を向けた。
「あれは、確か……水汲み係の進藤ヒカル……?」
「ええ、そうです。掃除夫の真柴が、なにやら一方的に暴力を振るっているように見えますね」
ふたりは、「これは見過ごせない」と、中庭の敷石へと急いで足をかけた。
「何をしている!」
人垣の後ろから、鋭い声が飛んだ。
敷石に靴音を高く響かせて、ヒカルたちの方へと近づいてくる。
「「わ、若旦那さま……」」
使用人たちが頭をさげて場所を譲ると、声の主……アキラは、さらに歩を進めた。
「いったい何を……あっ!」
ひらけた視界に飛び込んできたのは、泥だらけのヒカルと、その服をつかんで、今まさに殴りかかろうとしている真柴だった。
遠目にはわからなかったが、ヒカルは、頭のてっぺんから足の先まで泥だらけで、すでに何度も殴られたのだろう、顔が赤紫色に腫れあがっている。
あまりにも痛々しい姿に、長く仕えている真柴よりも、新入りのヒカルに同情が湧く。
「どういうことだ、真柴! 説明しろ!」
アキラの怒号にも似た声に、真柴は、ヒカルから手を離しながらも、自分が叱責を受けるのは不当だとばかりに言い放った。
「この小娘が、お屋敷のしきたりを守らなかったので、叱っていただけです」
「だからと言って、年端もいかない娘を相手に、このような暴力を振るわなくともよいだろう」
真柴の言い分を取り合わず、アキラは、さらに言い募った。
「年端もいかないどころか、こいつはもう18歳です! 言っても聞かない強情な娘には、仕置きが必要でしょう」
憮然とした真柴の言葉に、アキラが「……18歳? 本当に?」と、ヒカルを振り返ると、顔についた泥を手で拭っている姿が目に入った。
泥だらけの手では、なんの効果もない。
それどころか、顔中に汚れを広げる結果となってしまった。
ただでさえ子供と思われがちなヒカルだが、ボロ布のようにみすぼらしい今の状態は、それに拍車をかけているようだ。
アキラの無遠慮な視線に、ヒカルは文句を言いたい気分になったが、せっかく現れた救世主を無碍にはできないと、口をつぐんだまま下を向いた。
「問題は、そこではないでしょう、若旦那さま」
アキラの後ろに控えていた女性が、静かに口をひらいた。
「金子さん」
「いつまでも、こんなところで雨に濡れていては、風邪を引きます。それに、この娘も、早く着替えさせてやらなければ」
僭越ながらと、物静かに言うが、ずずいと身を乗り出す仕草には、圧倒的な存在感がある。
今まで、気配を感じさせなかったのが、不思議なくらいだ。
髪型こそアキラとおなじだが、体型の違いか、どっしりと構えた態度には、どことなく風格さえ漂っている。
アキラは金子の意見を聞き入れ、その場にいた者たちに散会を命じた。
真柴には、「もう、このくらいにしておけ」と。
ヒカルには、「部屋へ戻って着替えなさい」と。
野次馬のような使用人たちには、「仕事に戻りなさい」と。
ところが。
「こいつは禁棋令を破ったんです! 無罪放免でいいんですか!?」
勘弁ならないとばかりに、真柴が叫んだ。
途端に、使用人たちのあいだに、戦慄が走る。
九星堂では、囲碁は禁忌。
禁棋令を破ったことを雇用主に知られれば、間違いなく解雇だろう。
給金も労働環境も、九星堂以上のところは、そうそうない。
勤め始めてほんの一ヶ月で、ここを辞めなくてはならないヒカルの不幸に、彼らは大いに同情した。
「なんだって? 禁棋令を……?」
アキラは、ヒカルをじっと見つめた。
ヒカルは、「あーあ。バレちまった。これでクビ確定だな」と、小さくつぶやくと、アキラに向かって、ぺこりと頭をさげた。
「短い間だったけど、お世話になりました」
ヒカルは、泥だらけの服の着崩れを直し、自分の部屋へと足を向けた。
「待ちなさい!」
ヒカルが二、三歩歩いたところで、アキラが叫んだ。
「?」
ヒカルは、足をとめて、訝しそうに振り返った。
使用人たちも、何事かと、アキラに注目する。
ヒカルが囲碁を嗜むと知って、囲碁愛好家の血が騒ぎ、思わず声をかけてしまったアキラだったが、その後のことは、まったく考えていなかった。
「え…っと、その……」
言い淀むアキラにかわって、金子が、ずずいと再び身を乗り出した。
「禁棋令を破ったとあっては、捨て置けません。若旦那さま直々に、お咎めがあるものと覚悟しなさい。さあ、ついていらっしゃい」
無表情なまま、厳かな口調で言うと、金子はくるりと向きを変え、ヒカルを先導して歩き始めた。
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