|
アキラの住む館は、中庭から西の回廊を渡り、花園の門を左に見ながら進み、五つ並んだ石燈籠の四つ目を過ぎたあたりを、右に折れたところにあった。
九星堂の本店を兼ねるこの屋敷には、店や倉庫や工房といった大きな建物が、いくつも散在している。
そういった実務的な建物に比べれば、大きさは、やや控えめではあるが、扉や窓格子に施された細工の美しさは、他の比ではない。
細かなところまで磨かれた調度品の数々は、紫檀だろうか。
いくつもの年代を経た趣がありながらも、決して赤茶けたりはしていない。
磨けば磨くほど黒々とした艶を放つ、質のよい木材を使っているのだろう。
燻されたようにくすんだ留め金がまた、なかなかよい風合いで、煌びやかすぎない上品さを醸し出している。
円卓にも箪笥にも柱にさえも、職人芸の髄を極めた見事な彫刻が施されており、雨空ゆえの薄暗さのなかでも、それらはほんのりと浮かび上がる。
先代の主、アキラの父でもある行洋が使っていたというこの館は、時を経てなお、重厚な趣と繊細な美しさを誇っているのである。
「そんなところに突っ立ってないで、早くお入りなさい」
室内から、金子がヒカルに声をかけた。
顔が映るほどに磨き抜かれた石の床を、泥だらけの靴で汚してしまうのを恐れて、ヒカルは扉の前から動けなかったのだ。
少しの逡巡ののち、「どうせクビになるんだからまあいいか」と、覚悟を決めると、ヒカルは室内に足を踏み入れた。
扉を閉めた時に、取っ手を汚してしまったが、それを拭こうにも、服は泥だらけだ。
やむなく放置し、ヒカルは、床にぺたぺたと足跡をつけながら、服の裾から泥水を垂らしながら、部屋の中央へと進んだ。
主の姿を探して、ヒカルは部屋のなかを見回した。
居間として使われているこの部屋の奥は、アキラ個人の書斎とつながっているようだ。
飾り格子の向こうは、どうやら寝室になっているらしい。
他にも扉があるところを見ると、まだ他にいくつか部屋があるのかもしれない。
きょろきょろと見回していた視線をもとに戻すと、奥の部屋から出てきたのだろう、アキラがヒカルのそばへやってくるのが見えた。
いよいよ、禁棋令を破ったことへの厳重な処罰とやらが下される時が来たのだと、ヒカルはギュッと目を閉じ、首を縮めた。
(罵りの言葉かな。鞭打ちかな。それとも棒でぶたれるのかな。……えーい、なんでも来いってんだ!)
息をとめてアキラの行動を待つヒカルの頭に、何かが触れた。
それは、ふんわりと柔らかく、乾いた布の質感だった。
(へ?)
ヒカルが驚いて目を開けると、アキラがヒカルの髪を拭いていた。
「髪が濡れている。このままでは風邪をひいてしまうよ」
(わ、わ、若旦那さまがオレの髪を拭いてくれてる!? なんでなんでなんでーーーっ!?)
さすがに他人の面倒をみることに慣れていないせいか、仕草こそ、わしわしと乱暴ではあるが、雇い主が下働きの世話をすることじたいが前代未聞だ。
突然のことに、ヒカルは、ぱくぱくと口をあけるが、声が出ない。
「本当は、お湯で洗ったほうがいいんだろうけど、額の傷が化膿したら大変だ。とりあえず、水気をぬぐっておくだけでも、少しは違うんじゃないかと思って」
アキラは、ヒカルに話しかけながら髪を拭いていく。
ヒカル自身、今まで気づかなかったが、言われてみれば、額の右側のあたりがズキズキと痛んだ。
髪がほとんど乾いたところで、今度は、金子が近づいてきた。
「あちらにお湯を用意したから、身体を拭いていらっしゃい。着替えも置いておいたから」
金子が指差す先、簾子を立てかけた向こうに、温かそうな湿った空気が漂っている。
湯気にまじって、かすかに香の匂いもする。
厳罰を覚悟していたヒカルは、何が起こったのかわからず、ぽかんと口をあけたまま、金子に背中を押されながら、簾子のほうへと歩いていった。
三彩の大きな器には、湯がなみなみと張られていた。
傍らの高台には香炉が置かれ、一筋の煙を漂わせている。
強すぎない、ほのかな香りだ。
花に似た優しい香りには、沈静効果もあるのだろうか。
突然の高待遇に少しためらっていたヒカルだが、その香りと温かな湯気に誘われるかのように、泥だらけになった上着と、泥水の滲みた内衣を脱いだ。
湯に手を入れると、少し熱いくらいで、そばに置いてあった手ぬぐいをひたして身体を拭くには、ちょうどいい温度だった。
顔や身体の汚れをすっかり落とし、ヒカルは、そばに置いてあった衣服に袖を通した。
それは、ヒカルが着ていたものとおなじデザインのお仕着せ服だが、少々サイズが大きいようだった。
だが、広げてみると、上着の袖と裙子の裾の部分が、すでに折り返してあった。
さらに驚くべきことには、折り目が戻ってしまわないようにと、軽く糸で縫ってある。
ヒカルのサイズにあわせて、金子が都合をつけておいてくれたのだろう。
(金子さんって、すげえ……)
ぶかぶかの服を紐でしばりながら、ヒカルは心のなかで感嘆の声をあげたのだった。
ヒカルが簾子の外へ出ると、そこには金子が控えていて、部屋の奥へと案内された。
丸窓のそばの大きな椅子には、アキラが座っていた。
金子は、じろりとアキラを一睨みすると、「若旦那さまは、向こうのお部屋で待っていてください」と、言い放った。
言葉遣いこそ丁寧だが、ぴしゃりとした厳しい口調だ。
「でも……」
不満気に否を唱えるアキラに、金子は、さらに言い募る。
「今から傷の手当てをするのですから、向こうへ行ってください。若旦那さまは、若い娘の肌が見たいとおっしゃるのですか?」
言外に、「いやらしい」と匂わされ、アキラはしぶしぶ立ち上がった。
アキラが部屋の外へ出るのを待って、金子はヒカルを椅子に座らせた。
「さて、と。それじゃあ手当てをしましょうか」
金子は、手提げ籠のなかから、いくつかの小瓶を取り出した。
「少し沁みるかもしれないけど、上虞の街に500年も続いている老舗の薬だから、効能は確かよ」
金子が瓶のふたをあけると、なんともいえない、いかにも効き目のありそうなにおいが室内に充満した。
白い木綿の布に、数種類の薬を少量ずつ手際よく取り、ヒカルの額や頬や腕に塗っていく。
一番ひどい額の傷に包帯を巻くと、金子は、「はい、もういいわよ」と、ヒカルを開放した。
ヒカルは、ぺこりと頭を下げ、礼を言って部屋を出た。
居間へ戻ると、アキラが、そわそわと落ち着かない様子で立っているのが見えた。
「あのー……」
湯を使わせてもらったことや、着替えを用意してもらったこと、傷の手当てをしてもらったことなど、いろいろ礼を言わなければならないし、禁棋令を破ったことについても何か申し開きしたほうがいいかと、ヒカルが口をひらくと、それより早く、アキラが声をかけた。
「傷の具合はどう? もう痛まない?」
使用人のルールを破り、解雇されるべき人間に対して、ずいぶんと優しい声色だ。
「へ? あ、うん、じゃなくて、はい。だいじょぶ…です」
使用人歴は長いが、下働きばかりで、貴人と話す機会などなかったヒカルは、慣れない敬語で答えた。
アキラは、そのおかしな言葉遣いを咎めることなく、ヒカルに円卓の前の椅子を勧め、自身も反対側のそれに腰かけた。
(どうしよう。いくら勧められたからって、真に受けちゃまずいよな)
ヒカルは、ぷるぷると首を横に振った。
「ボクは座っているのに? キミは、雇い主であるボクと話すのに、そんな高いところから見下ろすつもりなのかい?」
それは、ヒカルを座らせるための冗談だったのだが。
べたっ☆
ヒカルは、床に跪いたのだ。
確かに、不始末をしでかした使用人が跪くのは、よくあることだが、そんなつもりではなかったアキラは、大慌てで立ち上がった。
「ちょ、ちょっと! ボクはただ、キミと囲碁の話がしたかっただけなんだ……」
ヒカルの両手を取って立たせていると、茶器を持って居間へ戻ってきた金子が「しっ!」と、アキラを制した。
盆を円卓に置き、窓の外に人がいないか急いで確認する。
「若旦那さまったら。他の者に聞かれ、奥様のお耳に入ったら、どうなさるおつもりですか」
両手を腰にあてて叱りつける金子と、首をすくめて「すまない」と謝るアキラ。
まったく、どちらが主で、どちらが側仕えなのか。
ヒカルは呆然としながらも、とにかく、訊きたいことを口にした。
「えーっと。もしかして、若旦那さまは、囲碁を打つのか…っと、ですか?」
ヒカルの質問に、アキラは、にっこりと微笑んだ。
「ああ、そうだよ。この屋敷で、囲碁の話をするのは10年ぶりだ。よく来てくれたね、同志よ」
閉じた扇子を剣のように立てて、その上の部分を、両方のてのひらで覆った姿は、まるで何かの結社の挨拶のようだった。
|