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ヒカルは、アキラに問われるがまま、自分の生い立ちについて話した。
生まれてすぐに、両親と離ればなれになったこと。
養父と暮らしていたが、死に別れたこと。
以来、いろいろな屋敷で、下働きをしてきたこと。
碁石も碁盤も持っていないため、地面に線を描いて、棋譜を並べていたこと。
禁棋令を知っても、大好きな碁がやめられなかったこと。
アキラはただ、黙って、ヒカルの話に耳を傾ける。
話が終わると、アキラは目を閉じて、小さく息をついた。
「そうか…………キミは、ずいぶん小さい頃から苦労してきたんだね」
「んー……まあ、苦労っていやあ苦労かもしれないけど、オレにとっては普通だったし」
両親も養い親も亡くし、幼くして下働きに出たことを、普通だと言い切るヒカルの器の大きさに感心しながらも、アキラは、ふと思いついて尋ねた。
「それで、キミは、いつから囲碁を? 勤め先の屋敷でおぼえたのか?」
「ううん、違う。佐為に……えっと、オレを育ててくれた人に習ったんだ」
けろっとした顔で答えたヒカルに、アキラは目を見張った。
「さい?」
「ああ、うん。藤原佐為」
「ふ、藤原佐為先生だって!?」
「佐為を知ってるのか……っとと、知ってるんですか?」
ヒカルは、ここに至って、ようやく自分の言葉遣いの不適切さに気づき、慌てて言い直した。
ちらりとアキラの反応をうかがうが、咎めたてる気配はない。
むしろ、別のことに気を取られているようだ。
「藤原佐為先生といえば、皇帝の囲碁指南役で、稀代の名手。神の一手に最も近いと言われた棋士……」
ぶつぶつと唱えていたかと思うと、突然、ヒカルに向き直った。
「進藤ヒカル! 今から、ボクと一局打ってくれ!」
「へ? 今から?」
いきなり何を言い出すのかと、ヒカルは、ぱちくりと目を瞬かせた。
この屋敷に敷かれた禁棋令や、アキラやヒカルの身分を考えれば、この提案は、無謀としか言いようがない。
だが、まっすぐにヒカルを見つめてくるアキラの視線は、今から打とうというその言葉が、本気であることを雄弁に物語っていた。
「打たせてくれるのか!? ほんとに!?」
ヒカルは、目を輝かせて、身を乗り出した。
誰かと対局するのは、ヒカルとて久しぶりだ。
否やがあるはずもない。
「あ。だけど、禁棋令バリバリ実施中の九星堂には、碁盤も碁石もないんじゃ……」
目隠し碁を覚悟して、頭の中に碁盤を描き始めるヒカルに、アキラは、「ちょっと待ってて」と言い置いて、奥の書斎へと小走りに向かった。
アキラが席を立ってすぐに、金子が菓子の入った器を持って現れた。
「葡萄の果汁を煮て餡にした饅頭よ。甘いものが嫌いじゃなかったらどうぞ」
差し出されたそれは、ふんわりと柔らかそうで、まだほんのりと湯気が立っていた。
「うわあっ。オレも食べていいの? いっただっきまーす♪」
ヒカルは饅頭を手に取ると、あんぐりと口をあけて、かぶりついた。
真柴に殴られたせいで、口の中が少し切れていたが、柔らかな饅頭も、ほどよい甘みのある葡萄の餡も、傷にさわることのない優しい感触だった。
「柑子を煮て作る餡もおいしいけど、酸っぱいものは、しみるでしょう? 葡萄を使ってもらって、正解だったみたいね」
饅頭をほおばって、幸せそうに顔をほころばせるヒカルを見て、金子は、満足そうに頷いた。
「すごいなあ、金子さんって。なんでも知ってるし、てきぱきしてるし。何より、堂々としててカッコいい。若旦那さまを叱り飛ばしちまうんだもんなあ」
ヒカルに尊敬のまなざしを向けられ、金子は、まんざらでもなさそうに笑みを浮かべた。
「なあなあ。金子さんも碁打つのか?」
饅頭を咀嚼しながら、ヒカルは尋ねた。
「ルールくらいは知っているけど、そんなに強くはないわね。そういえば、以前、侍女同士の団体戦に、助っ人として出たことがあったかしら」
「禁棋令のある九星堂に勤めてるのに、碁の大会に出たのか?」
「奥様には内緒よ」
金子は、にやりと口元を上げてみせる。
おカタいばかりの侍女ではないらしい。
「そっか。じゃあ、金子さんも、若旦那さまの同志なんだな」
「同志とまではいかないわ。言ったでしょ? そんなに強くはないのよ。同志だなんて、とんでもないわ。対局するのがやっと。……あら、発見なさったみたいね」
ふと、金子は書斎を振り返って言った。
見れば、書斎の扉付近で、アキラが立ち往生している。
その腕にかかえられているのは…………足つきの碁盤だ。
アキラの足元がおぼつかないのも頷ける。
「わあっ♪」
ヒカルは、大急ぎでアキラの元へと駆けつけ、碁盤をひょいと取り上げた。
それはもう軽々と。
「本当に、キミは力持ちだね」
八寸の足つき碁盤を胸に抱いて、くるくると踊りながら運ぶヒカルに、アキラは感嘆の声をもらした。
まだ夕方だというのに、金子は、ぴっちりと窓を閉め、扉に鍵をかけた。
扉の前には簾子を張り、金子が待機して、いざという時に備える。
低めの小姐椅に座って、アキラとヒカルは碁盤を囲んだ。
碁笥を押しつけあい、なかなか先手後手が決まらない。
ニギリの結果、アキラが黒、ヒカルが白を持って、対局が始まった。
「「お願いします」」
久しぶりの碁石の感触に、知らず、心が逸るのは、お互いさまだ。
四隅を占め、カカリとシマリに続いてヒラキ。
十五手までは、よくあるパターンで進んだ。
十六手目。
ヒカルのボウシから、盤面は一気に覇権争いへと突入した。
黒は、二線三線で低く生きるのを潔しとせず、白も、天王山を譲らない。
互いに、相手の石に覆いかぶさるように。
抜きん出て、中央を駆け巡るように。
両者、一手も緩めぬ攻めの碁を展開する。
やがて。
中央に広く睨みをきかせる白の一手が、勝敗を決した。
「……ありません」
「ありがとうございました」
勝ったのは白。
ヒカルだ。
勉強のためにと、さらに20手ほど打ってみたが、白の優勢は変わらない。
逆に、おなじだけ手を戻し、最善手を探ってみても、黒に勝機は見つからなかった。
「まいったな。こんな碁は初めてだよ」
アキラは、少し悔しそうに目を細めながらも、充実感に頬を紅潮させてつぶやいた。
「若旦那さまも、すごいよ。かなり打つじゃん…っとと、打つじゃないですか」
勝利を手にして、ヒカルは笑顔全開で対局相手の健闘を讃えたが、またもや使用人として失態を犯したことに気づき、首をすくめる。
そんなヒカルを見て、アキラは、クスっと笑った。
「キミとボクは同志だと言っただろう? ふたりだけの時は、敬語を使う必要はないよ」
「でも……」
「逆に、ボクがキミに敬語を使わなければいけないのかもしれない」
「へ? なんで?」
きょとんとして小首を傾げるヒカルに、アキラは不本意そうに口をとがらせながら答えた。
「対局してみてわかった。キミとボクとでは、実力の差が大きい。おそらく二子…いや、三子は置かなければならないと思う。上手に敬意を払うのは、悔しいけれど当然のことだ」
自分の実力を真摯に認めるアキラに、ヒカルは口をはさむことができず、黙って聞いていた。
「藤原先生に碁を習い、仕事の合間に棋譜を並べて過ごしてきたキミと、10年間、頭のなかでしか碁を思わなかったボクとでは、仕方のないことかもしれない。だけど」
アキラは、一旦、言葉を切って、ヒカルをじっと見つめた。
「キミに教わりながら、ボク自身も勉強して、すぐに追いついてみせるさ」
晴れやかな笑顔で言い切ったアキラに、ヒカルは、びっくりして腰を浮かせた。
「教わりながら……って。ええっ!? オレが若旦那さまに碁を?」
下働きの娘が、大店の若旦那に碁の指導をするなんて、尋常なことではない。
身分や立場が云々というよりも、もっと物理的な問題が立ちふさがる。
時間は?
場所は?
ふたりが私的に会っているところを他の使用人に見られたら、不審がられるに違いない。
アキラは、こぶしを顎にあて、何かいい方法はないものかと考え込んだ。
ヒカルはといえば、いきなりの展開に、目を白黒させるばかりだ。
「それなら、いい考えがありますわ」
お茶のおかわりを乗せた盆を持って、ずずいと身を乗り出したのは、他でもない金子だった。
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