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如果天空要下雨 第七話
「いい考えがありますわ」
そう言ったきり、黙って茶器を並べていく金子を、ヒカルとアキラは、じっと見上げていた。
ふたりは、碁盤の高さにあわせて小姐椅に座っているため、立ち動いている金子の姿が、とても大きく見える。
「いつまで、そんな低いところに座っていらっしゃるんです? お茶がさめてしまうじゃありませんか」
両手を腰にあてて、仁王立ちする金子には、特有の威圧感がある。
ヒカルはもとより、主人であるはずのアキラまで、あたふたと立ち上がった。
ふたりが円卓の前の椅子に座るのを待って、金子は、先程の話の続きを口にした。
「簡単なことです。進藤ヒカルを、若旦那さま付きの侍女にすればいいのです」
金子はさらりと言ったが、ヒカルは、その意味を理解するのに数秒を要した。
「えええっ!? オレが、じ、じ、侍女ぉーーーっ!?」
自分を指差し、信じられないという顔で叫ぶヒカルに、金子は、「ええ、そうよ」と、あっさりと答えた。
「わたしはもうすぐ、楊家のお嬢さま付きの侍女として、後宮へ上がる予定です。この件は、若旦那さまには、すでに了解いただいているはずですわね」
金子が、ちらりとアキラのほうを見ると、アキラは「うん、残念だけどね」と、頷いた。
「後任の侍女には誰がよいかと考えていたところです。この娘にいたしましょう」
「なるほど! さすが金子さん。それはいい考えだ」
「そんなテキトーでいいのかよ……」
感心してポンと手を打つアキラを尻目に、ヒカルは、明日美の話を思い出していた。
明日美が憧れるキャリアウーマン。
皇帝の寵妃の側仕え。
働く女性たちの羨望を一身に受ける国一番の侍女。
ヒカルは今の今まで忘れていたようだが、目の前にいる金子こそ、キャリアウーマンの頂点に、最も近い人物なのだ。
後宮で働くということ自体は、女性にとっては、そう珍しいことではない。
男子禁制のその場所では、さまざまな端仕事を女性が行っているのだから。
だが、下働きではなく、貴人に仕える高級侍女として働くとなると、また話は別だ。
通り一遍の仕事ができるだけでは、条件を満たすことはできない。
仕事の正確さに加え、そのスピードも要求される。
よく気が利き、段取りがいいことも必須だ。
常に先の先を読んで、主人の快適な生活を守ることができなくてはならない。
そして、日常の小さなトラブルから、水面下で企てられる陰謀に至るまで、さまざまなを綻びを素早く見つけ、事を荒立てずに解決できる能力も必須である。
ほんの数時間しか金子の働きぶりを見ていないヒカルにも、金子が、その条件を満たしてあまりある優秀な侍女であることは、十分にわかった。
短時間で湯を沸かし、制服の裾を縫い、傷に沁みない葡萄餡の饅頭を用意させる。
上品な香をほのかに焚き、タイミングよくお茶のおかわりを出す。
薬の知識にも精通し、あわてずに応急手当てができる。
さらに。
禁棋令を破ったヒカルを、他の使用人たちに訝しがられないように、アキラの部屋へ連れてくるその手腕。
そんな金子の後任の侍女として仕えるなど、ヒカルには、逆立ちしたって無理だとういう自覚がある。
まあ、逆立ちなんかしたら余計に無理な話だが、それはさておき。
ヒカルといえば、高価な茶器を割り、窓の細工格子を壊し、せっかく乾いた洗濯物を泥だらけにしてしまう才能の持ち主だ。
水汲みだけなら誰にも負けないと自負してはいるが、そんな馬鹿力が、侍女に不要であることは言うまでもない。
「金子さん。オレには無理だよ。オレ、水汲み係のままがいい」
できないと断言して首を横に振るヒカルに、金子はニタリと笑った。
「大丈夫よ。あなたには、今まで通り、水汲み仕事を続けてもらうつもりだから。その能力を使わずにいるのは惜しいもの」
「金子さん。水汲みの他に侍女の仕事もだなんて、彼女の身体がもたないよ」
アキラの非難に、金子は「ご心配なく」と、あっさり答え、ヒカルに向き直って言った。
「侍女というのは、ただのカムフラージュ。水汲みが終わったら、この部屋に来て、若旦那さまと囲碁を打てばいいのよ」
つまり。
物置小屋の軒下で地面に棋譜を描いていた時間を、アキラの部屋での対局にあてる、ということだ。
「さすがだよ、金子さん! なんていいアイデアなんだ!」
アキラは、両手を強く握りしめて金子を仰ぎ見た。
だが、金子は「喜んでばかりはいられませんよ」と、釘を刺す。
「進藤ヒカルを侍女にする以上、若旦那さまは、身のまわりのことは、すべてご自分でなさらなくてはならないのですからね」
「大丈夫だよ。金子さんの厳しい指導のおかげで、ボクは、たいていのことは自分でできるから」
どうやら、ヒカルのダメダメぶりは、アキラと金子にも伝わっていたらしい。
「わたしがお暇をいただくまで、あと2週間ほどです。そのあいだに、もっとしっかりしていただかないと、少々心配ですけどね」
「心配性だなあ。ボクは、朝ひとりで起きられるし、着替えもできる。お茶だって淹れられるよ」
「そんなことではありません。若旦那さまはいつも、ご自身の興味の赴くままに猪突猛進。優先順位をしっかり見極めていただかないと。それから、とくに気がかりなのは、あまりにも個性的すぎる色あわせのお衣装ばかり好ん……」
「わかった、わかった。それより、問題は彼女の破壊的な実務能力を、どうやってカバーするかだよ」
「そうですわね。茶器は、割れにくいように、少し武骨なくらい厚手の焼き物を使うことにして……」
「物を運ぶのに、何か手押し車のようなものがあったほうがいいかもしれないな」
「それはいいお考えです。水甕のように頭に乗せて運ぶのでは、あまり見た目がよくありませんから」
次から次へと具体的な案を出していくアキラと金子を、ヒカルは口をあけたまま、交互に見つめているしかなかった。
その後、今日のできごとについて、金子からいくつかの知恵を授けられ、ヒカルは自分の部屋へと戻った。
「ヒカルーーーーっ! 禁棋令を破って、真柴さんに殴られたって聞いたけど、大丈夫だったの!?」
「若旦那さまから直々にお叱りを受けたんですって!? クビなんてことにはならないわよね!?」
ヒカルを心配して、寝ずに待っていたあかりと明日美に手を取られ、ヒカルは部屋の中央に座らされた。
「ああ! ひどいわ! こんなにあざになって」
「誰が手当てしてくれたの? まさか、若旦那さまが手配を?」
油を節約するために明るさを抑えられてはいるが、燭台の灯りが、ヒカルの顔をぼんやりと照らせば、包帯の巻かれた額や、色の変わった頬があらわになった。
興奮のあまり、涙を流さんばかりにしているふたりをなだめて、ヒカルは、金子に言われたとおりに、アキラの部屋でのことを伝えた。
「ごめん、心配かけて。金子さんに手当てしてもらったあと、若旦那さまから長々と怒られてたんだ」
さすがに、説教の内容までは、金子から伝授されてはいなかったが、幸い、あかりも明日美も、そこには突っ込まなかった。
「よかった。クビにはならないのね? ヒカルと一緒にいられるのね?」
「禁棋令を破って、お説教だけで済んだなんて、信じられないわ。ああ、老天爺、感謝します」
ふたりは安心して、表情をゆるめただけだった。
「ありがと。ほんと、ごめん」
自分のことのように思ってくれるあかりと明日美に、ヒカルは、心から謝辞を述べた。
「……あ。だけど」
ヒカルは、金子の「これは言っておきなさいよ」という言葉を思い出して続けた。
「なに、どうしたの?」
「他にも罰を受けたの?」
ふたりは、にわかに表情を曇らせる。
過剰なまでの反応に、ヒカルは申し訳ない気分になりながら答えた。
「ええっと、たいしたことじゃないんだけどさ。これからは水汲みだけじゃなくて、他にも仕事をさせるって」
「水汲みの他にですって!?」
「あんなに朝早くから重労働をさせておいて。ひどすぎる!」
ヒカルに水汲み以外の仕事ができるのかという言葉は、ふたりとも、なんとか飲み込んだようだ。
「えーっと、その。……陽が高いうちに仕事を終えて、のんびりしているから、よけいなことに気が回るんだ…って、そう言ってた」
本当は、水汲みが終わったら、アキラと碁を打てるのだから、ヒカルにとって、こんなに嬉しいことはない。
「それで? どんな仕事をさせられるの?」
「まさか、これ以上の重労働じゃないでしょうね?」
じっとヒカルを見つめてくるふたりを前に、ヒカルはゴクリとつばを飲み込んだ。
金子は、あかりと明日美のサポートが絶対に必要だと強調していた。
すべては、この一瞬にかかっている。
まさに正念場だ。
ヒカルは、思い切って、口をひらいた。
「えーっと、実は…………若旦那さま付きの侍女になれって言われたんだ」
「…………」
「…………」
沈黙すること数秒。
「…………えっ?」
「………………ええっ!?」
「「えええええーーーーーっ!?」」
あかりと明日美の声が重なった。
「で、でも。でもさ。ほんとは、侍女っていうのは嘘なんだ」
ヒカルは、あっさりと暴露した。
これも金子の作戦だったりする。
「どういうこと!?」
「わかるように説明しなさいよ!」
ふたりは、掴みかからんばかりに身を乗り出す。
「実は、内緒なんだけど…………若旦那さまは、碁が好きみたいなんだ」
ヒカルは、小さな身体をさらに縮め、声をひそめてささやいた。
「碁を教えるために、形式だけは若旦那さまの侍女になるんだ。今までどおり、水汲みをして、それが終わってからの時間だけ」
これは、事実だ。
だが、ここからは、実際とは少し異なる。
「だけど、もし、このことがバレたら、もちろんオレはクビ。若旦那さまに、碁を無理強いしたっていう濡れ衣も着せられて、鞭打ち100回のあと、この屋敷から放り出される」
禁棋令を破ったことを許すかわりに、アキラに碁を教えること。
ただし、そのことが露見した場合には、すべての責任をヒカルが負う。
それを聞いたあかりと明日美は、きっと、ヒカルを助けてくれるに違いない。
これが、金子のたてた作戦だ。
ヒカルは、本当のことを話したいと訴えたが、金子は、「若旦那さまを悪者に仕立て上げたほうが、あなたに味方する気持ちを煽ることができるのよ」と、軍師のような顔つきで断言した。
玉の輿を狙っているあかりと、キャリアアップをめざしている明日美。
アキラの侍女というポジションは、どちらにとっても、かなり魅力的に見えることだろう。
彼女たちの、いや、九星堂で働くすべての女性たちの、夢の実現に向けての最短コース。
そんな役職に大抜擢されたヒカルを、ふたりが妬まないとも限らない。
金子は、そのことを考えて、敢えてアキラを悪者にしたというわけだ。
「鞭打ち100回!?」
「ご自分だって、囲碁がお好きなくせに!? なによ、それ!」
金子の予想どおり、ふたりは、ヒカルの身を案じた。
「ちょっと待ってよ。……若旦那さまは、そんなに悪い人じゃないよ」
逆に、ヒカルがアキラをフォローしてしまったくらいだ。
「どこが悪い人じゃないのよ! 都合が悪くなったら、全部、ヒカルに押しつけるわけでしょ!? 十分に悪者だわ!」
「ヒカル! わたしたちに手伝えることがあったら、なんでも言ってね。全力でサポートするわ!」
金子の作戦は功を奏し、あかりと明日美は、ヒカルに前面協力を申し出たのだった。
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