梳いた髪にリボンを結ぶ。

 絹の上着は、野を駆ける騎馬民族風な立ち襟。

 透けるような薄布の袖に手を通せば、遠い異国の香りがする。

 花結びの飾りボタン。

 凝った意匠の縁取り。

 まだ履き慣れない革の靴は、少しだけ窮屈だけれど。

 そよ風に、エプロンの裾が揺れる穏やかな午後。

 新米侍女は、主人の部屋へと向かう。

 手押し車の車輪の音も勇まし……く?





  如果天空要下雨   第九話





   ガツン☆

   ひゅーん

   ゴトン

   ごろごろごろ…………

「やべっ。またやっちまった」

 ヒカルは、あわてて床にしゃがみ、回廊に転がる茶器を拾う。

 手押し車に茶器を乗せ、パンパンと手をはたくと、何事もなかったような顔をして、アキラの部屋へと歩いていく。

 ヒカルは、洗い終わった茶器を厨房で受け取り、手押し車に乗せて運んでいる途中である。

 だが、きれいに洗ってあったはずの茶器は、すでに砂だらけだ。

 部屋に着いたら、もう一度洗いなおす必要があるだろう。

「こんな手押し車に乗せるより、頭の上に乗せて運んだほうが、早いしラクなのになあ……っとと……うわっ」

   ガツン☆

 ヒカルは、回廊の柱に手押し車をぶつけてしまった。

   ひゅーん

 その衝撃で、茶器が重力に従って落ちていく。

   ゴトン

 釉を施して二度焼きした、厚みのある丈夫な茶器は、床に落ちても割れたりしない。

   ごろごろごろ……

 ただ、床の上を転がっていくだけだ。

「ああ、もう。今日だけで何回目だろ。柱にぶつけても落っこちないように、手押し車に柵ぐらいつけとけってんだ」

 ヒカルは、ぶつぶつとこぼしながら、再び茶器を拾う。

 手押し車を押して歩くヒカルのあとには、必ず、傷だらけの柱が残った。

 アキラの部屋にたどり着くまでに、これを5回ほどくり返し、こっそり様子を見ていた金子は、頭をかかえてため息をついたという。








 水汲み仕事を終えたあと、ヒカルがアキラの部屋を訪れるようになって、すでに10日が過ぎていた。

 この数日のうちに、緒方のデザインによる制服は、ヒカルが動きやすいようにと、大幅に改造されていた。

 大きく腕を振っても、動きを妨げられることはなく、元気よく闊歩しても、裾さばきは快適だ。

 ただ、うまれてこのかた、布製の靴しか履いたことがなかったヒカルには、高級な山羊革の靴は、どうも窮屈すぎるようだ。

 いくら柔らかな革を使ってはいても、布とおなじ感触は期待できない。

 履きなれればぴったりと足に馴染み、布製の靴とは違い、全力疾走しても足の裏を傷つけることがない……という緒方の言葉を信じて、ヒカルは、「もうしばらく辛抱だ」と、自分に言い聞かせているのだった。



「若旦那さま~。お茶の用意をいたしましまし……いたしましま……あれ?」

 部屋の隅の水場で茶器を洗いなおし、金子に手伝ってもらいながら、なんとかお茶を淹れたヒカルは、手押し車を押して、居間に入った。

「進藤。敬語を使う必要はないと言ったはずだろう? それに、お茶くらい、ボクだって淹れられるのに」

 アキラは碁盤の前に座ったまま、ヒカルを振り返った。

 アキラにしてみれば、一刻も早く対局を始めたいところなのだが、肝心なヒカルは、やれお茶だ、やれお茶請けだと動き回ってばかり。

 だいぶ待ちくたびれてしまっているようだ。

「そうは言うけどさー。いくらカムフラージュだからって、侍女がお茶のひとつも淹れられなかったら、さすがにヤバいだろ…………うをっ!?」

   つるり

 手押し車をとめて、急須を持ったまではよかったのだが、ヒカルの意に反して、急須は放物線を描いて落下していく。

   ばしゃん☆

 熱湯の入った急須は、幸い、アキラを直撃することはなく、布張りの衝立にぶつかっただけだった。

 ただし、漢詩の一節が書かれた布は、熱湯を浴びたせいで、だらだらと墨を流し、見るも無残な状態になってしまったが。

「あああああ。虞世南の書が……」

 アキラは、衝立の足にしがみついて嘆いたが、それを見ていた金子は、例によってニタリと笑った。

「若旦那さま、お忘れですか? 本物は倉庫に保管したではありませんか」

「そ、そうだった……」

 ほっと息をつくアキラに、ヒカルは、口をとがらせた。

「なんだよ、もう。信用ねえなあ。衝立の書も、壁の絵も、香炉も花瓶も筆置きも、ぜーんぶ偽物と取り替えちまうなんて」

 ヒカルはそう言うが、彼女が侍女の真似事を始めてからというもの、もしもこれが本物だったら……という危機が何度もあったことは、紛うことなき事実である。

 たった今も、金子に手渡された雑巾で衝立を拭いていたのだが、強くこすりすぎて塗料をはがしてしまったくらいだ。

「あれえ。どうなってんだ? 雑巾に色がついてら」

 首を傾げるヒカルを、アキラは、半ば無理やり小姐椅に座らせると、自分の黒石を盤に置いた。

「もう、そんなことはいいから。早く打とう。……三子置かせてもらうよ」

「あっ、何やってんだよ。三子なんて多すぎるだろ。若旦那さまだったら、二子で十分だよ」

 ヒカルは不満顔だが、アキラは、ようやくヒカルの注意を対局に向けることができて、ニコニコと笑っている。

「ほら。また若旦那さまって呼んだ。ボクたちは同志だと言っただろう?」

「そんなこと言ったって…………じゃあ……若旦那?」

「もう一声かな」

「うーん。……おぼっちゃま?」

「一歩後退」

「じゃあ……」

 ヒカルは、人差し指を口にあて、天井を睨んで少し考え込んだあと、視線をアキラに戻した。

「これならどうだ。えっと…………ご主人さま」

   ぶっ☆

 アキラは、勢いよくお茶を吹き出した。

 側仕えの侍女が、主に対して言うのだから、決して誤った表現ではない。

 だが、年頃の青年にとっては、少し刺激の強すぎる呼称だ。

 アキラの耳には、「ご主人さま~v」というニュアンスに変換された甘い声がリフレインしている。

 フリルつきの白いエプロンと、おそろいのヘッドドレス。

 膝に両手をついて身を乗り出すと、露になる胸元。

 上目遣いに見つめる潤んだ瞳。

 濡れた半開きのくちびる。

 どこで仕入れた知識かは甚だ疑問だが、博識なアキラの脳裏には、古今東西のさまざまな主従絵巻がくり広げられている。

 健康な青少年には、少々きつい妄想かもしれない。

「よ、よけいに悪い!」

 赤くなった顔を隠しながら叫ぶアキラを、ヒカルは不思議そうに見つめた。

 その無邪気な表情に、アキラの心臓は、バクバクと悲鳴をあげている。

(ボクとしたことが、なんと不埒な妄想を。彼女は同志じゃないか。不謹慎すぎるぞ!)

 何度も深呼吸をくり返し、目を閉じて精神を集中させる。

「じゃあ、なんて呼べばいいんだよ~」

 ヒカルの問いかけに気を取られ、油断して目をあけたのがいけなかった。

 上目遣いに睨みつける、愛らしい顔が目の前に迫っているではないか。

「し、しし、進藤!」

 思わず叫んでしまったアキラに、ヒカルは「あ、なるほど」と、頷いた。

「わかったぞ。名字で呼び合えってことだな。よし」

 ヒカルは、にっこりと微笑みを浮かべながら、アキラを呼んだ。

「と・う・や?」

 一文字ずつ区切って発音するヒカルの声は、アキラの毛細血管に著しい負担をかけた。

   ガタン☆

 派手な音をたてて立ち上がると、アキラは書斎へと走っていった。

 両手で鼻を押さえていたのは、言うまでもないだろう。

「なあ、金子さん。塔矢、どうしたんだろ。打たねえのかな……」

 不思議そうに目をしばたかせるヒカルの肩に手を置いて、金子は首を横に振った。

「名前を呼ぶときに、一文字ずつ区切るのは、やめておいたほうが身のためよ」

 金子の助言の意味は、ヒカルにはまったく通じず、ますます混乱するばかりだった。








「さて、と。少しのあいだ、これを借りるわよ」

 金子はそう言って、手押し車を指差した。

「柱にぶつけても、衝撃で物が落ちたりしないように、柵をつけておいたほうがいいみたいだから」

 先刻のヒカルのつぶやきを聞いた金子は、それはいい案だと、すぐに営繕係に言いつけておいたのだ。

 窓の飾り格子ほどではないにしろ、見た目のよい柵をつけてくれることだろう。

 手押し車を押して回廊を進みながら、金子は、ふと、アキラの部屋を振り返った。

「なんだか、とってもおもしろくなりそうなのに。こんな時に転職するなんて、わたしもツイてないわね」

 ため息とともに吐き出された金子の言葉は、誰の耳にも入ることはなかった。





 いよいよ、ドジっ子メイドさんのデビューです。

 虞世南というのは、初唐時代の三大書家のひとりです。

 立ち襟(チャイナドレスの襟)は、満州人の民族衣装です。

 清の時代には、漢民族も着ることを命じられました。

 でも、女性用の襟は、高さ1cmほどの低いものが主流だったようです。←時代劇の受け売り

 盛唐の時代は、日本でいう奈良時代。

 高松塚古墳の壁画のような衣装が、中国でも用いられていました。

 ところで。

 ここしばらくはギャグテイストなシーンが続いていましたが、次回は、少しシリアスちっくな展開です。

 第一話の思わせぶりな独白、おぼえてますか?





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