立ち読み処おそらくみなさん座っておられるとは思いますが)



みっつのねがいごと(R15)

  冒頭の5ページ分です。
  





 旧正月のにぎわいも過ぎた早春の頃。

外灘に明かりが灯り始める夕暮れ時。

 碁会所が入っている雑居ビルの階段に、女の子たちのにぎやかな声が響いていた。

阿光、阿光! 你干什么? 快来呀!(ヒカル、ヒカル! 何やってんの? 早くおいでよ)」

阿光! 天快黒了!(ヒカル! もうすぐ暗くなっちゃうよ!)」

 すでにビルを出て舗道で待っている友人たちの呼ぶ声に、ヒカルは乏しい語学力を駆使して、返事の言葉を探した。

「来了、来了!(今行く!)」

 自動販売機のボタンを押して、お目当ての炭酸飲料が出てくるのを待つ。違う商品が出てくることもあれば、何も出てこないことすらあるというこの国の自販機は、ロシアンルーレットか、あてにならない占いのようだと、ヒカルは常々思っている。

 また、釣銭などまともに出てくるわけがないと、中国の自販機に対して、自分なりの評価をくだしていたので、いつも、ちょうどぴったりの金額の硬貨を投入していた。今回もまた然り。

 すなわち、現在のヒカルの関心は、指定した通りの製品が出てくるかどうかの一点にある。

   ごとん

   ……かちん

 取出口から覗くと、期待通りというかなんというか、やはり違う商品が出ていた。

 そして、ペットボトルの滑り落ちる音に続いて、出てくるはずのない硬貨が釣銭口にあたる音がした。

「きしし♪ さすが中国。機械もアバウトってか」

 商品が間違っていることなど、現金の存在を匂わす硬質な音の魅力の前には、毛ほども気にならないらしい。

 にんまりと手をのばすヒカルに、友人たちの叱責の声が届く。

阿光! 公共汽車已経到了。快来呀!(ヒカル! バス来ちゃったよ。早く!)」

該走哇!(もう行かないと!)」

「来了、来了! 等一下!(今行くから! ちょっと待てってば!)

 急かす声に応えを返し、ヒカルは、制服のスカートのポケットに、釣銭をあわてて突っ込んだ。

「……なんで『行く』が『来る』なんだよ。っつーか、『あごん』って誰だよ。……ったく、ワケわかんねえよ、中国語って」

 日本のものと比べると、かなりやわらかめのペットボトルを開けながら、ヒカルは友人たちの待つ舗道へと走っていった。

 

 

 

 ここは中国・上海市。

 経済の発展めざましいこの地には、多くの日本企業が支店を構えている。

鉄道や道路などの利便性が高く、商業都市として常に繁栄を続けているこの街は、コスト削減を目的とする海外工場ではなく、市場拡大のための支店もしくは営業所を置くに値する大都会なのだ。

 ヒカルの父親である進藤正夫が、この地への転勤を命じられたのは、およそ1年前のこと。ここ数年の日本企業の中国市場参入を鑑みれば、よくある話だといっていいだろう。

サラリーマンの宿命だと割り切って、日本国内では単身赴任をくり返していた彼だったが、さすがに、長期の海外勤務には不安があったようだ。

 赴任してから半年ほど経った頃、妻と小学6年生の娘を、この街に呼び寄せたのだった。

 

 

 

 友人たちとバスに乗り、ヒカルは7つ目のバス停で降りた。

 すでに陽は落ち切っていたが、街灯やマンションの廊下からこぼれる電灯の明かりで十分に明るい。

 枯れた木立に施された電飾もまた、あたりを煌々と照らしている。

「阿光、明天見!(ヒカル、また明日!)」

「再見!(またね!)」

「啊、再見!(おう、またな!)」

 終点である郊外の住宅地へと向かうバスを見送って、ヒカルはマンションのエントランスをくぐった。

 オートロックで管理人が常駐し、しかも間取りが広くて築浅なこの賃貸マンションは、住民のほとんどが日本からの転勤族で占められている。バス停から徒歩30秒という便利さや、治安のよい地区であることも、理由に挙げられるだろう。

 だからといって、すっかり陽が落ちた時間に、外国人の小学生がひとりで帰宅するというのは、あまり感心できた話ではないのだが。

「ただいま~。ああ、腹へった~」

「ヒカル! また碁会所に寄ってたのね。学校が終わったら、すぐに帰ってくるように、いつも言ってるでしょ! あんたって子は、まったくもう……」

 ヒカルの母親は、烈火のごとく叱った。

「いいじゃんか。そこのバス停まで、友達も一緒だったんだし」

「友達っていっても、学校の友達じゃないんでしょ? 言葉もろくに通じないんじゃ、なにかあったとき困るじゃないの」

 ヒカルは、日本人学校に通っている。あまり勉強は得意ではないヒカルだが、その朗らかな性格ゆえに、すぐにクラスメートと親しくなった。

だが、先ほど一緒にいたのは、学校の近くの碁会所で知りあった中国人姉妹だ。姉は中学2年生、妹は小学5年生である。

ヒカルは囲碁が大好きだが、学校には、碁を打つ友人がいない。

そのため、放課後、碁会所に寄って、年の近いこの姉妹と碁を打つことが、ここ上海の生活のなかで、最も充実したひとときになっていた。

「碁を打つのに言葉なんか必要ねえもん」

 ヒカルは、ぼそっとつぶやいて、『MY LOOM』と切り文字ステッカーの貼られた自室のドアをあけて、その身を滑り込ませた。

 賃貸住宅のドアにステッカーを貼るという行為についても、その綴りが明らかに間違っているということについても、12歳という多感な年頃を海外で過ごすことになったヒカルを気遣って、両親は何も言わないまま放置しているのだった。

 

 

 

 ヒカルは制服をハンガーにかけて、身軽なジャージに着替えた。私立である日本人学校には、初等部にも制服があるのだ。

 ベッドにうつ伏せに寝転がって、もう何度も目を通した碁の新聞を読む。

 日本の友人が送ってくれた『週間碁』だ。

「すげえよなあ、塔矢行洋……」

 ヒカルが見ているのは、名人戦第四局の棋譜。彼が、3期目の防衛を決めた一局だ。

 塔矢行洋とは、棋聖・天元・十段・名人・碁聖の五冠を誇る、日本を代表する棋士である。

「オレも、こんな碁が打てるようになりたいなあ」

 ヒカルは、うっとりと夢見るように棋譜を眺めていたが、やがて、はあ…っとため息をもらした。

「お父さんが転勤にさえならなければ、院生になったり、プロ棋士の指導碁を受けたり、もしかしたら塔矢名人の弟子になれたりできたのになあ。みんな、お父さんのせい……いや、違うな。きっと、部長とか常務とか社長とか、よくわかんないエライ人のせいだ。会ったことないけど」

 ごろんと仰向けに寝返って、天井を睨みつける。

「あーあ。お父さんを日本勤務に戻してくれないかなあ……」

 

    その願い 叶えて差し上げましょうか?

 

「な、なんだ、今の声」

 ヒカルは、がばっと起きあがった。

 室内を見まわしても、人の姿は見えない。

 だが、壁の一角が光っている。

 ハンガーに吊るした制服のスカート。そのポケットのあたりから、眩しいほどの光があふれてくるようだ。

 白から藤色を経て紫へ。そしてまた淡い色へと変化しながら、部屋中を光で包み込む。

「なんなんだよ。いったい、どうなってんだよ。ポケットに、なんか入れたっけ……あっ!」

 ヒカルは、何かを思いついたように制服に飛びついた。

 ポケットを探ると、発光の原因は、すぐに見つかった。

それは、自動販売機から間違って出てきた釣銭……ではなく、直径2センチ強・厚さ1センチ弱の碁石だった。

 

 

       ○   ●   ○   ●   ○

 

 

「……で、あんた誰?」

 光がおさまった頃合を見計らって、ヒカルは声の主に尋ねた。

 目の前にいるのは、高烏帽子をかぶり、平安時代の装束を身にまとった若い男性。優しげな美男子ではあるが、なぜそんな格好をしているのか、どこから部屋に入ってきたのか、胡散くさいことこの上ない。

「わたしは藤原佐為。碁石に宿る精霊です」

 佐為と名乗った男は、大きな袖を優雅にひるがえして、ヒカルにお辞儀をして見せた。

 美しいという表現がぴったりな柔和な顔つきには、人間から恐怖感を取り除く効果があるのだろうか。

ヒカルは部屋から逃げ出したり、大声をあげて母親を呼んだりせず、碁石を手の上で転がしながら、「ふーん。オレは進藤ヒカル」とだけつぶやいた。

 だが、だからといって、猜疑心まで払拭されるとは限らない。

「おまえ日本人だろ。なんで上海にいるんだ? っつーか、そのヘンな着物はなんだよ。ほんとに精霊なのか? あやしいヤツだな」

 ヒカルが大きな瞳を三白眼に変えて睨みつけると、佐為は袖で顔を覆ってしまった。

「ああっ。ヒカルったら、わたしのことを疑っているんですか? ひどいですぅ……」

 今にもメソメソと泣き出しそうな佐為に、ヒカルは「悪かったよ」と謝った。

 現金なもので、佐為はすぐに笑顔になって、自ら進んで自己紹介を始めたのだった。

 

「精霊になる前……今から千年ほど前でしょうか、わたしは日本で大君の囲碁指南役を務めていたそうです。その頃の記憶はないのですが、わたしを精霊にしてくださった天帝が、そのようにおっしゃっていました」

「千年前っていうと、『イイクニ作ろうなんとかかんとか』よりも前のことだな。おまえ、そんな昔から精霊やってんのかよ。超ベテランなんだな」

「それが……この碁石に宿ったのはいいのですが、なかなか人に見つけてもらえなくて。わたしを見つけてくれたのは、ヒカルで2人目なのですよ」

「え? 千年のあいだに、たったふたり?」

「150年くらい前でしたか、虎次郎という碁打ちに会ったのが最初で、今回のヒカルが2人目です」

「なーんだ。精霊歴は長くても、ぜんぜん活躍してねえじゃんか」

「そんなにいじめないでください。……ああ、碁石でなく、碁盤に宿ればよかったのでしょうか」

 碁盤に宿ったところで、佐為の姿が見える人間は、やはり虎次郎とヒカルだけなのかもしれないが、そのことについての確証はないので、ここでは敢えて触れないでおこう。

「……あ。じゃあ、もしかして、人口が多い中国に行けば、精霊としての活躍の機会が増えると思って、上海に来たとか?」

「違いますよ。数年前、日本の『ばざー』とやらで集められた文房具や遊具が、発展途上国の小学校に寄付されたのですが、そのなかには、明らかに不用品と思われるものも含まれていました。ゴミ同然のものは廃棄されましたが、わたしの宿る碁石を含めた古い棋具は、古物商の手を介して、中国へと渡ってきたのです」

「なるほど。碁会所で使う碁盤も碁石も、中古で十分だもんな。中国には碁会所がいっぱいあるし。リサイクルされてよかったじゃんか」

「それはそうなんですが……」

「なんだよ」

「碁笥のなかで、ちょっとのあいだ居眠りしていたら、なぜか自動販売機のなかに移動させられてしまいまして」

「はあ? なにそれ」

「機械のことはよくわかりませんが、硬貨を貯めておく箱が歪んでいたらしくて、その高さをあわせるために、わたしの宿る碁石が機械のあいだに噛まされたんです」

「そのはさまってた碁石が、なんの拍子かわかんないけど、今日、オレが自販機を使ったときに、釣銭として出てきたってわけか。さすが中国製だな」

 長い自己紹介の終盤に語られた、ヒカルと佐為の出会いのくだり。

 中国製の自動販売機の杜撰な設計が一枚噛んでいたとは驚きだ。

「ヒカルは中国が嫌いなんですか?」

 佐為は、ふと思いついて、ヒカルに尋ねた。自動販売機のなかにいたときから、中国に対するヒカルの物言いを聞いていたのだろう。

「うーん、嫌いってことはないけど……そうだ、佐為! さっき、おまえが言ってたこと、あれ本当か?」

 ヒカルは突然思い出したように、手のなかの碁石を見つめて尋ねた。

「あれ……と言いますと?」

 首を傾げて見せる佐為に、ヒカルは詰め寄る。

「だーかーらー。願い事を叶えてくれるってヤツだよ!」

 真剣な目をして答えを待つヒカルに、佐為はにっこりと頷いた。

「もちろんです。どんな願い事でも、みっつだけ叶えて差し上げますよ」

 ヒカルは、「じゃあさ、じゃあさ」と、目を輝かせた。

「オレのお父さんを、日本勤務にしてくれ!」

「お安いご用です」

 佐為が請け負うと、ヒカルのてのひらの上で、碁石がきらめいた。

先程と同様の紫色の光があたりを包み込む。

 やがて、光がおさまると、佐為は誇らしげに言い放った。

「これで、あなたの願い事は叶いましたよ」

「マジ!?」

 ヒカルは喜び勇んで部屋を飛び出した。

 だが、そこは見慣れたダイニングキッチンで。

「ヒカル。お父さんが帰ってきたから、晩ごはんにしましょう。手を洗ってらっしゃい」

 普段と変わらぬ母親の言葉に、ヒカルは佐為を振り返った。

「なんにも変わってないじゃん!」

「まあまあ。見ていてください」

 佐為は、余裕綽々といった感で、ヒカルのあとについてくる。

「ヒカル? 誰と話してるの?」

 母親が怪訝そうな顔で尋ねた。

 どうやら、ヒカル以外の人間に、佐為の姿は見えないようだ。

「なんでもない」

 ヒカルは洗面所へ行って手を洗い、テーブルについた。

 

 夕食の席。

晩酌のグラスを傾ける正夫の表情が、いつになく明るい。

 妻や娘が不気味に思うほどもったいぶってから、彼は種を明かした。

「実はな。急な話だが、日本勤務を命じられたんだ。来月早々には、日本に帰れそうだぞ」

 ヒカルは父親の言葉を聞くと、すぐにうしろを振り返った。得意そうに微笑む佐為に、「グッジョブ♪」と、親指を立てて見せる。

 来月早々……3月の初めには、日本に帰れるということだ。

 日本の暦は、4月から始まる。

 すべてが新しくなる春。中学校入学という大きなイベントもさることながら、それとは違う何かが始まりそうな予感がして、ヒカルの胸は、期待に満ちあふれていた。


 佐為の不思議な力を借りて、ヒカルは本当の男の子に変身します。

 二次性徴っていうんですか? えろくはありませんが、うふふなシーンが出てきますよ。