オレがアイツでアイツがオレで   第3話



 いきなり叫び出したアキラに、周囲の視線が集中してしまい、ヒカルはアキラを引き連れて、ハンバーガーショップを出た。

「とりあえず、家に着くまで黙っとけ」

 ヒカルの鶴の一声に従い、アキラは黙って、先導するヒカルの後を歩いていった。

 最初の目的地は進藤家だ。

 幸い無人だったため、二人で家に上がり込み、当初の予定通り、着替えやらなにやらを旅行用バッグに押し込んでいった。

「次はおまえんちだ」

「え? だ、だだだだだけど進藤……?」

「いいから、おまえんちに着くまで黙っとけって。よそから見たら、オレがキョドってるみたいじゃんか。恥ずかしいっての」

 多感な青少年の淡い期待に満ちた問いかけは、ヒカルの仏頂面によって遮られた。

 …………正確には、アキラの顔なのだが。

 にわかに頬を染めたアキラを尻目に、ヒカルは台所のテーブルに置かれていた広告の裏に書き置きを残すと、アキラを連れて次の目的地……いや、今日の最終目的地である塔矢家へと足を向けた。

 ヒカルの家にアキラが泊まり、アキラの家にヒカルが泊まるという筋書きは、どうやらご破算になったらしい。

 それも道理。

 アキラが、ヒカルの振りをするのは簡単だと言ったのは、ヒカルのことを男だと思っていたからである。

 女性を演じる覚悟と言ったら大袈裟かもしれないが、そんな心づもりなどできていないアキラを自分の家に送り込んだりしたら、あっという間に正体がバレてしまうに違いないと、ヒカルなりに状況を分析していた。

 そんなわけで、ふたりは塔矢家に向かっているのだ。

 両親不在のアキラの家ならば、少しおかしなところがあっても、当然、誰にも見咎められることはない。

 このうえなく好都合である。

 
 てくてくてく
 もくもくもく
 
 てくてくてくてく
 もくもくもくもく
 

 てくてく歩くヒカルと、もくもくとついていくアキラ。

 傍から見れば、元気いっぱいに歩く塔矢アキラのうしろを、何か言いたそうに口元をむずむずと波打たせた進藤ヒカルが、アキラを睨みつけつつ追いかけるという奇妙な図式になっている。

 ここが、日本棋院を擁する市ヶ谷から離れた場所であることを、目には見えない何かに感謝すべきなのだろうが、あいにく二人とも、そんなところに頭が回る状況ではないようであった。
 
 


 
 塔矢家に着くや否や、玄関の戸締りもしないうちに、アキラが口をひらいた。

「進藤」

「なんだよ」

 古式ゆかしい鍵をくるくると回しながら呼びかけるアキラに、ヒカルは振り返った。

 その足は、すでに居間へと向いている。

「なんなんだ、あの書き置きは!」

 非難するような目で睨みつけられたが、ヒカルは、ケロッとした顔で言い放った。

「ああ? なんか問題あんのか? オレにしちゃあ、すっげえ親切な書き置きだったんだけど」

 ヒカルの残した書き置き。

 そこには、『しばらく帰らないからメシはいらない』と、ミミズの這ったような字で、堂々と書かれていた。

「うちのお母さん、『今日は夜ごはん食べるの、どうするの? ちゃんと早めに教えてくれないと、お母さんだって困るのよ』って、いっつもうるさいんだ」

 ヒカルは、「メシいらないって書くだけでも十分なのに、わざわざ外泊するって書いちゃって、オレってば親孝行〜♪」と、悦に入っている。

「問題はそこじゃない……いや、そこなの…か? まあいい、とにかく!」

 なにやらぶつぶつとつぶやいたあとで、アキラは声を張り上げた。

 ヒカルが自分の家に泊まると聞いて、胸を高鳴らせたのもつかのまのこと。

 広告の裏に書かれるミミズのような文字の列に、小指の先ほどの常識がにわかに顔を覗かせたのである。

 ヒカルに「いいから黙ってろ」と言われて渋々と無言でいたものが、自宅に戻った途端に爆発したのだろう。

「あんな書き置きひとつで、外泊が許可されると思っているのか! キミにはモラルというものがないのか!」

「へーきへーき。うちのお父さんもお母さんも、碁のことがよくわかってないから。急に外泊しても、碁の世界って、そういうもんなんだ…って、思い込んでるみたいでさ」

 終電なくなって朝までカラオケとか、和谷んちで雑魚寝とか、そんなのしょっちゅうだぜと、カラカラと笑うヒカルに、アキラは呆然としてつぶやいた。

「結婚前の女性が、男の家に泊まるなんて。そんな……」

「なに言ってんだよ、塔矢。おまえ、オレが女だって、知らなかったくせに。知ったとたんに説教かよ。ずいぶんエラソーじゃんか」

「そ、それは……」

 お年頃の少女を、少年だと勘違いしていた手前、アキラとしては強く言えない…………が。

 ハッとしたようにヒカルを見つめ、大きく息を吸い込んで、アキラは叫んだ。

「なんということだ! キミと社を、おなじ部屋に泊めてしまったじゃないかーーーーーーっ!」


「……ってゆーか、ツッコミたいのは、オレのほうなんだけど。オレのこと、男だと思ってたなんてなあ」

 小学6年生のときに知り合って以来、もう何年のつきあいになると思っているのか。

 ヒカルは、アキラをジトっと睨みつけた。

「そ、それは……キミ、中学生の頃は学ランを来ていたし、今だって、改まった席ではネクタイを締めているじゃないか」

 あわてて言い訳をするアキラに、ヒカルは、はあ…っと、ため息をついた。

「やっぱ、塔矢には、オレのレベルの高いシャレは理解できなかったか」

 小学生ながらも学ランを着て、中学生の囲碁大会に出てからというもの、周囲の友人たちに「似合う似合う♪」と褒められて、ヒカルは、ことあるごとに詰襟の学生服を着ていたのだ。

 もちろん仕事でも、ノリのいい棋士仲間の期待に応えるべく、しばしばネクタイにスーツといったいでたちで、イベントに参加している。

 その最たる例が、先日の北斗杯だ。

 目にも眩しい青いスーツを着込み、キリっとネクタイを締めて登場した女性棋士の姿に、棋士会のお歴々は頭を抱えたが、韓国や中国の囲碁関係者には概ね好評だった。

 ヒカル自身は、ジェンダー云々という小難しい話には興味はなく、「単なるシャレ」だと公言しているが、発展目覚ましい赤道直下の某国では、ヒカルの服装を例に挙げて、女性団体が大規模な運動を展開しているともいう。

「まあ、おカタイ塔矢には、ちょっと難しい笑いだよな。気にすんな」

 ヒカルは、カラカラと笑いながら、アキラの肩をポンと叩いた。

 ここは慰められる場面なのだろうかと、アキラは、少し首を傾げたのだった。






 三コウをめざして、すぐにでも真剣勝負をするつもりだったが、思いがけない展開に頭がついていかないアキラを慮って、ヒカルは対局をあきらめた。

 今日はもう寝ようぜ、と、早々に床につくことにした。

 アキラは自室、ヒカルは客間だ。

 もぞもぞと寝返りを打ちながら、アキラはつぶやいた。

「進藤と社。布団の距離は、どれくらいだったんだろう。ああ、気になる……」

 どうやら、合宿の夜のことを想像しているらしい。

 アキラがヒカルのことを好きだと自覚したのは、北斗杯の2日目。

 塔矢家での合宿の時は、まだ「少し気になる存在」程度だったため、ヒカルと社を一緒に客間に押し込んでしまったのだ。

 ヒカルが女の子であることを知らなかったとはいえ、アキラにとっては、人生最大の失着である。

 ぐるぐると思い悩みながら寝返りをくり返していたアキラは、ふと、顔をあげた。

「ちょっと待てよ。進藤が女の子だったということは…………ふふふ。天はボクの味方だ。世間の目が勝手に築いた、ボクらのあいだの障壁は、あっさりと取り除かれたわけだ。ふふっ、ふふふふv」

 自分で勝手に思いこんでいたくせに、よく言うよ。

 あいにく、そう突っ込んでくれる者はいない。

 布団のなか、不気味に微笑むアキラ少年だった。






 翌朝。

 この日は、ふたりそろって対局の予定が入っていた。

 まだ、なにひとつ、具体的な対策を練っていないが、対局は休めない。

 ヒカルは、朝7時に、ぱっちりと目を覚ました。

 おそらく、アキラの体内時計によるところだろう。

「おーい、塔矢。起きてるかー?」

 アキラの部屋へ声をかけながら、ヒカルは洗面所へ向かった。

 歯ブラシをくわえて鏡を見ると、寝癖ひとつついていないサラサラとした黒髪が映っている。

「見事な形状記憶おかっぱだな」

 ぶんぶんと、多少乱暴に頭を振っても、ちゃんと元に戻る。

 それがおもしろくて、何度も試しているうちに、鏡のなかに、見知った顔が加わった。

 正確には、少し違う。

 過去にないくらい困惑した表情を浮かべた自分の顔が映っていたのだ。

「よう。おはよ、塔矢」

 くるりと振り向き、さわやかに挨拶をしたヒカルに、アキラは挨拶も返さず俯いた。

「なんだよ、塔矢。朝っぱらからシケたツラしやがって」

 ゴシゴシと歯ブラシを動かしながら、ヒカルはアキラの顔……まあ、自分の顔でもあるのだが……を、覗き込んだ。

「えー…っと、進藤。あの…その……」

 アキラは、やっとのことでそれだけ言うと、真っ赤になってうつむいた。

「あ? はっきり言えよ。っつーか、なんか隠してんのか?」

 見れば、アキラは後ろ手に、何かを持っているようだ。
 
 もじもじと身体を揺すり、視線を彷徨わせること数分。

 アキラの言葉を待つあいだに、ヒカルの口のなかは、歯みがき粉のスースー感で、たいへんなことになっている。

 もう、辛くて辛くて堪らない。

 なんとなくタイミングを逸してしまい、洗面台に向き直って、ぶくぶくできる雰囲気ではなくなってしまっている。

 こんなことなら、さっさと口を漱いでおけばよかったと、ヒカルは心の底から後悔していた。

「…………進藤」

 アキラは、ようやく口をひらいた。

 やれやれ、やっとこの辛さから解放されると、ヒカルがホッとしたのもつかのま。

「コレのつけ方を教えてくれ……!」

 バっと突き出したその手には、白い小さなブラジャーが握られていた。




                                         つづく



2007.02.14 初出
2012.01.05 再掲