「ただいま」を永遠に(3)

 この作品は、沙里さまのリクエストをもとに書かせていただいたものです。


お戻りの際は窓を閉じてください



 ヒカルが塔矢家お預かりの身となってから、1ヶ月が過ぎた。

 両親の急死や環境の変化という心理的ストレスをものともせず、ヒカルはすっかり塔矢家に馴染んでいた。

 明子は、学校から帰ったヒカルと、一緒に夕飯のしたくをするのが日課になった。

 行洋は、佐為に碁を教わったというヒカルと、夕飯前に盤を囲むのが日課になった。

 あいかわらず、アキラはヒカルの一挙手一投足に舞い上がっているが、行洋と明子は、もうずっと以前からヒカルと一緒に暮らしていたかのような錯覚を覚えていた。

 明るく朗らかに笑い、くるくると表情を変える、人懐っこいヒカル。

 だから、誰も気づかなかったのだ。

 彼女が戸惑っていることに。






 いつも、ヒカルは決まった時間に帰ってくる。

 16時20分だ。

 塔矢家は、今まで通っていた公立葉瀬中学校の学区外にある。

 だが、いきなり身の回りのものすべてが変わってしまうことによるヒカルの負担を考え、特例を許可してもらえるよう、佐為がはたらきかけてくれていた。

 そのため、ヒカルは、3駅離れた葉瀬中学校へ電車通学することになったのだ。

 毎日おなじ時間に帰宅するということは、毎日おなじ電車に乗っているということだ。

 授業が早く終わる日も。

 放課後、友達に誘われた日も。



 なぜなら。

 その時間ならば、明子が水撒きをしたり、草花の手入れをしたりして、門に面した表庭に出ているからだ。

 門の前で、「おばさん」と、明子に声をかければ、「おかえりなさい。早く着替えていらっしゃい。おいしいお菓子をいただいたのよ」と、家に入るように促してもらえる。

 その言葉があって初めて、ヒカルは門をあけることができるのだ。

 ヒカルの戸惑いは、「やったーv」とか「オレも手伝うよ。ちょっと待ってて」という明るい声に隠されて、外からはうかがい知れない。

 いくら塔矢家の人々が自分を歓迎してくれていても、他人の家に無遠慮に上がり込むわけにはいかない…と、ヒカルは頭のなかで、わかったようなわからないような理屈を、もう1ヶ月ものあいだ、こねくりまわしていたのだ。






 その日は、午後から雨だった。

 ヒカルはいつもの電車に乗り、16時18分に家に帰ってきた。

 それほど強い雨ではなかったので、ヒカルは駅前のコンビニエンス・ストアで傘を買うこともなく、改札口から走ってきたのだ。

 そのため、いつもよりも2分早いご帰還となった。

 だが、雨のなか、明子が庭の手入れをしているわけがなかった。

「おばさん、今日は庭に出てないや…。どうしよう。勝手に入っていいのかな。でも、それって、けっこー図々しいよな…」

 ヒカルは塔矢家の養女になったわけではない。

 ヒカル自身、自分はただの居候だと思っているし、公式書類上、そのことに間違いはない。

 いつかヒカルをアキラの嫁に…と考えている塔矢家の人々が、ヒカルを養女にするわけがなかったのだが、そのことをヒカル自身が知るはずもなく、中途半端な礼儀知識ゆえに、ヒカルは門の前で立ち往生してしまったのだ。

「ぴんぽーん…って鳴らしたら、たにんぎょーぎだとかって言われるかもしれないし、だからって、黙って家に入るのもなー…」

 ヒカルが変に気を遣い、ぐるぐると考えあぐねているうちに、雨脚はどんどん激しくなっていく。

 予報によると、今夜は大荒れの天気になるらしい。

 次第に風も強まっていき、大粒の雨が横から吹きつける。



 髪からぽたぽたと雫が落ち、時々目に入って痛い。

 水を吸ったセーラー服の袖もスカートも、風にあおられて肌にぴたぴたと貼りついて気持ちが悪い。

 お気に入りのスニーカーも、ぐしょ濡れで重たい。



 呼び鈴を押そうか、黙って門をあけようか。

 すでに30分ほど経過している。

「さみー…。早くあったまりてーよー」

 ヒカルは意を決して、呼び鈴に手をかけた。

 その時。

 門の前に一台のタクシーがとまり、アキラが降りてきた。

「やった、アキラだ。ラッキー♪」

 ヒカルはアキラに駆け寄った。

 びしょびしょのスニーカーが、かっぽかっぽと音を立てる。

「ひ、ヒカル!?」

 全身水浸しのヒカルの姿を、アキラは上から下まで舐めまわすように見渡した。

 そして、我に返ったようにヒカルの腕をつかんで、家のなかへと引っぱり込んだ。

「こんな雨のなか、キミは何をやっているんだっ!」

 雫のしたたり落ちる前髪をかきあげながら、ヒカルは「てへへ…」と苦笑いの表情を作った。

「いやあ、今日はおばさんが庭にいなかったからさ。こーゆー時って、ぴんぽん鳴らすのと、勝手に入ってくるのと、どっちが失礼なのかわかんなくって。ほら、オレってバカだからさ」

「いったい、いつからあそこにいた!?」

「え…っと、1分か2分ぐらい?」

「たかが1分や2分で、こんなになるわけないだろうっ! ずいぶん長いこと外に突っ立っていたはずだ。この大バカ者!」

 珍しいアキラの怒鳴り声を聞きつけて、明子が玄関先に出てきた。

「どうしたの? ……まあ! ヒカルさん!?」

「あ、おばさん。えへへ。どーも…」

 にへらと笑うヒカルを大急ぎで浴室に押し込み、脱衣室に着替えを用意すると、明子はアキラを茶の間に誘い、事の詳細をたずねた。






 アキラが玄関先でのやりとりを再現し、明子はヒカルが毎日おなじ時刻に帰宅していた理由を知った。

 そして、まだ一度もヒカルが「ただいま」と言ったのを聞いたことがないという事実に、アキラと明子は愕然とした。

 突然、「今日からここが自分の家だ」と言われて、「はい、そうですか」と、芯からくつろげるような単純で傍若無人な人間など、そうそういるものではない。

「遠慮するなと言ったって、それは無理な話よね…」

「ボクがヒカルのような境遇にあったとしたら、やはり気兼ねして落ち着かないでしょうね」

 わがままいっぱいに育った現代っ子のようなヒカルの外見にとらわれて、配慮がたりなかった自分たちを、明子とアキラは責めた。



 その時。

   がたん

 遠くで物音がした。

 中庭の奥の廊下あたりだ。

「泥棒かしら」

 明子はすっくと立ち上がると、室内箒を片手に、勢いよく飛び出していった。

「ちょっ…お母さん…っ!」

 予測不可能な明子の行動に遅れをとったアキラも、慌てて後を追う。

 武器としても好都合だろうと、アキラが台所の消火器をつかんだところで、明子の叫び声が響きわたった。

「きゃああぁぁぁっ! ヒカルさんっ!」

 ヒカルという名前に、アキラは消火器を放り出して、明子のもとへと駆けつけた。

 すると。

 中庭の前の廊下を、ヒカルがずりずりと這っていた。

 少し手前の床から、濡れたセーラー服を引きずったあとが残っている。

 おそらく、そのあたりで倒れて、そこからは這って移動していたのだろう。

「ヒカル! 大丈夫か!?」

 アキラが慌てて抱き起こすと、ヒカルはへらっと笑った。

「えへへ。転んじゃった…」

 頭を打っていないかと確認するうちに、アキラの手がヒカルの額に触れた。

「すごい熱じゃないか!」

 アキラはヒカルをかかえあげて、ヒカルの部屋へと運んだ。

 体温計や氷枕や薬を、かわるがわる持ってくるアキラと明子に、ヒカルは熱にうるんだ目で謝り続けた。

「ごめんなさい…」

「心配かけてごめんなさい…」

「迷惑かけてごめんなさい……」

 苦しそうな息とともに吐き出される謝罪の言葉に、明子はいたたまれなくなって涙を浮かべた。

「倒れたとき、どうして助けてって呼んでくれなかったの? そんなに私たちは頼りにならない?」

「ちがう…。……親戚でもなんでもない、ただ佐為の知り合いの先生とその家の人っていうだけなのに、こんなによくしてくれるから…。だからこそ、甘えちゃいけないと思って…」

「ここがヒカルさんの家になるのよって言ったでしょ? おばさん、ずっと女の子が欲しかったって、ヒカルさんが来てくれてうれしいって言ったでしょ?」

 明子はヒカルの額に濡れたタオルを乗せ、頭をなでた。

「うん…。でも、やっぱり悪いような気がして、オレ、どうしていいか、わかんなくて…。ごめんなさい、おばさん。ごめんなさい……」

 はあはあと喘ぎ、時折「ごめんなさい」とつぶやきながらも、薬が効いてきたのか、ヒカルは眠りに落ちていった。






 それから5日後。

 すっかり熱もさがり、元気に朝食の席についたヒカルに、行洋から銀色の小さな鍵が手渡された。

「君もこの家の家族なのだから、戸締りはしっかり頼むぞ」

 必要なことすら省略した物言いだが、その真意はしっかりとヒカルに伝わった。

「はい!」

 ヒカルは、定期入れのキーホルダーに、さっそく鍵を取りつけた。

 ちゃりんと鳴る高い金属音が、自分の居場所はここなんだと告げているように聞こえた。

「その鍵はね。アキラさんが合鍵屋さんで作ってきたものなのよ」

 ごはん茶碗を手渡しながら、明子がこっそりとささやいた。

「え? アキラが?」

「ええ。ヒカルさんが倒れた日にね。『ヒカルのために合鍵を作ってきますから、マスターキーを貸してください』って、すごい剣幕で。ほら、コピーのコピーだと、誤差が出て役に立たないことがあるでしょう?」

 ヒカルがアキラを見やると、落ち着かない表情で、ぶつぶつと何かをつぶやいている。

 また妙な台本でも考えてきたらしい。

「ありがとな、アキラ」

 満面の笑みで礼を言うヒカルに、アキラは咳払いをしてから言い放った。

「これからは、帰宅したら『ただいま』と言うこと。自分の家に帰ったら、みんなそうするだろう?」

 どうやら、今回はシナリオ通りに言えたようだ。

 行洋と明子も、うんうんとうなづいている。

 自分の家…という言葉が、どれほどヒカルを勇気づけたか、想像に難くない。

「うんっ! ここがオレんちなんだもんな!」






 友達から家族へと、一気に関係が進展したことに気をよくし、肝心な「恋人」という関係をすっ飛ばしていることに塔矢家の人々が気づくのは、もう少し先のことである。



 愛されるヒカルちゃんを書いてみたくて、遠慮のかたまりにしてしまいました。

 次回は、ヒカルが塔矢家に来て3ヶ月後のお話です。

 そろそろモーション(死語)かけないと! がんばれ、アキラ!




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