「ただいま」を永遠に(4)

 この作品は、沙里さまのリクエストをもとに書かせていただいたものです。


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 ヒカルが塔矢家にやってきてから3ヶ月が過ぎていた。

 ほぼ日課となったヒカル&行洋の夕飯待ち対局は、この3ヶ月のあいだに三子局から定先へと置き石の数を減らしていた。

 二子局までは、まれにヒカルが勝利することもあったが、定先になってからは、一度も勝てないでいる。

「藤原くんとは何子で打っていたのかな?」

 難解な大ナダレ定石を避けて、ヒカルにも打ちやすいようにと平易な形に整えながら、行洋はたずねた。

「三子になったばっかしだった。小6の時に習い始めた頃は、九路で打ってたんだから、これでもちっとはマシになったのかな」

 初めて石を持った日のことを思い出して、ヒカルは「えへへ」と笑った。

 たどたどしく親指と人差し指で石の端をつまんだヒカルも、今では人差し指と中指できれいにはさんで持つようになっていた。

「小学校6年生で碁を始めたということは…約3年か。マシどころか、たいしたものだと思うがな」

 トップ棋士である塔矢行洋を相手に、指導碁とはいえ定先。

 しかも、平易に変形させたとはいえ、大ナダレ定石をノータイムで打ち進めるヒカルの棋力は、とても碁を始めて3年の少女のものとは思えない。

「またまた〜。ほめ過ぎだよ、先生」

 ヒカルは行洋の言葉を信じなかった。

 なぜなら、今まで規格外に強い佐為と行洋を相手にしか打ったことがなかったから、自分の棋力など意識したことがなかったのだ。






「ただいま帰りました」

 いつもは夕飯ぎりぎりに帰ってくるアキラが、めずらしく早い時間に帰宅した。

「おかえりー、アキラ」

「ただいま、ヒカル」

 完全に打ち解けたナチュラルな挨拶に恍惚としながらも、アキラは、中盤にさしかかったばかりの盤面を見やって目をみはる。

 黒から見て左下の星に石がない。

 小目に置いたのか?

 それとも、自由置碁?

 左上隅の大ナダレ定石が、多少わかりやすい進行になっているのは、指導碁ゆえだろうが、恐れずにナダレに突入した黒の一手があってのものだ。

「何子局だい?」

「じょーせん」

 ひらがなで答えるヒカルに、アキラは船頭さんの「船が出るぞ〜」という時代劇でお馴染みのシーンを思い浮かべたが、正しく意味を理解すると、まじまじと盤面を見つめて手順を追った。

 白を持つ行洋の手は、明らかに指導碁のものである。

 だが、黒のヒカルもかなりの打ち手のようだ。

 母の明子から、「夕飯前に毎日打っているのよv」と聞いてはいたものの、未来の嫁を構いたくてしかたがないくせに、碁の他にとりえのない父・行洋が、むりやりヒカルをつきあわせているのだろうと、アキラは自分のことを棚にあげて想像していた。

 数年前に心筋梗塞を患って以来、タイトル戦に赴く以外は、主に自宅で執筆活動をしている行洋にとって、ヒカルとの対局がささやかな楽しみになっていることは、まさに事実だ。

 だが、「ほのぼの対局・縁側風味」というにはあまりにもハイレベルな展開に、アキラは息を飲んだ。



 その後、数手進んだところで、明子から「お夕飯のしたくができましたよ」と声がかかり、続きは明日へ持ち越しとなった。

「夕食後に、ボクと打たないか?」

 ヒカルと碁という、人生の二大関心事を前にして、黙っていられるアキラではなかった。

 ヒカルとしても、佐為からみっちり習った基礎と、行洋の戦力アップ講座のおかげで、碁がどんどん楽しくなってきている状態だったので、「ああ、いいぜ」と、二つ返事で了解したのだった。






 行洋に「二子で打ちなさい」と言われ、ヒカルは星にふたつ石を置いた。

 アキラはごくりと喉を鳴らした。

 父・行洋とは定先で、自分とは二子。

 つまり、指導碁ではなく、本気の対局をしろということだ。

「「お願いします」」

 挨拶をかわしてすぐに、白と黒が残りの隅の星を占めた。

 白がカカって黒がハサむ。

 定石通りに進むおだやかな碁は、中盤の黒のツケで一変した。

 ハネればキられるし、ノビれば重い。

 手抜きはできないし、他に打つべきところも見つからない。

 攻め合いになるのを覚悟で、アキラはハネた。

 黒がサバいているあいだに外勢を築く手もあったが、三隅を黒に押さえられている以上、外勢も無意味だ。

 ここでサバキを許すわけにはいかない。

 ヒカルは、ツケた石を軽く見て、反対側からさらに打ち込む。

 攻撃的とも言える石の運びだが、どちらかが生きれば黒の勝ちだ。



 終始、攻め続けるヒカルだったが、やはりアキラの方が上手だった。

 片方は連絡を絶たれ、片方はセキ崩れで死。

「負けました」

 ヒカルはぺこりと頭を下げた。

「……ありがとうございました」

 少し遅れて、アキラも頭を下げる。

 まさに、興奮さめやらぬといった感じだ。

 もっと打っていたいという思いが、自分のなかから湧きあがってくる。

「とくに黒に敗着らしい手はなかった。白がうまく打ったというところか」

 行洋はヒカルをほめたつもりだったのだが、当のヒカルは目をくるくるさせてアキラをたたえた。

「やっぱすげーよなあ。佐為も先生も強いけど、アキラもめちゃくちゃ強いんだな。みんなカッコいいなー。オレだけ、ぜんぜんダメじゃん。かあぁっ、なんか悔しいぜ」

「ぜんぜんダメってことはないだろう? こんなに打てるんだもの」

 ヒカルにカッコいいと言われて天にも昇る気持ちになりながらも、アキラはヒカルの棋力を認めて言った。

「だめだめ〜。ハンデつけてもらっても勝てないんだから、ぜんぜんお話にならないよ」

 ハンデもなにも、佐為も行洋もトップ棋士だ。

 アキラも若手ナンバーワンで、リーグ入りも果たしているくらいの実力者だ。

 そんな3人を相手にまわし、勝てないから自分はダメだなんて、どんな思考をしているのだろう。

「オレもプロ棋士になりたいなーって思ってたんだけど、みんなみたいに強くないと無理なんだろうな。ちぇ〜っ」



 ヒカルのぼやきを耳にして、アキラは目をみはった。

 ヒカルがプロになる。

 決して無理ではないだろう。

 対局相手が限られていたために、自分の棋力も、場合の手も知らず、まだまだ稚拙なところはあるけれど。

 第一、自分がヒカルの年齢のとき、ここまで打てただろうか。

 いつだったか、食事のときに、ヒカルが碁を始めて3年だと聞いたことがあった。

 将来、家庭を持ったら、夕食後のコーヒーでも飲みながら、ふたりでのんびりと盤を囲みたいものだと、妄想をふくらませていたアキラは、人生の軌道修正を余儀なくされた。

 ヒカルとの対局は、互いにしのぎをけずりあう真剣勝負になるかもしれない。

 それも、公式戦で。



「進藤くん。プロになりたいという気持ちがあるのなら、今度、研究会に出てみてはどうかね?」

 行洋がヒカルを誘った。

 彼もまた、ヒカルの実力を認めているのだ。

「けんきゅーかい?」

「キミが学校に行っている時間にやっているから、見たことがなかったかもしれないね。お父さんのお弟子さん…ボクの兄弟子たちが家に集まって、碁の勉強をしているんだよ」

 アキラはちらりと父親を見た。

 ヒカルを誘うからには、ヒカルの帰宅時間にあわせてくれるんでしょうねと、目で訴える。

「いつもは午前中に行っているが…。進藤くんも参加できるように、次の研究会は午後から始めることにしよう。早く帰宅できる日は火曜日だったね」

 毎週火曜日は、午前中で授業が終わるため、ヒカルとたくさん打てるとあって、行洋は密かに楽しみにしていたのだ。

 その楽しみがなくなるのは残念だが、土日はイベント関係で門下生が出払ってしまうため、研究会は平日に行うしかないのだ。

「じゃあ、今度の火曜日の午後…と、知らせておきます」

 善は急げとばかりに、アキラは玄関の電話へと向かった。

「楽しみだなあ、研究会」

 うっとりとつぶやくヒカルに、行洋は目を細めた。

 もしかしたら、ヒカルは、アキラの嫁だけでなく、互いに切磋琢磨しあう生涯のライバルにもなってくれるかもしれない。

 そんな将来を夢想し、にまにまと崩れていく頬を、行洋はどうにもできないのであった。

 

 


 その夜から、アキラは再び机に向かい続けることになった。

 ひろげられたノートには、「対兄弟子・除菌抗菌作戦」と書かれている。

「緒方さんからヒカルを守るには、どうしたらいいだろう。あの人は女ったらしだからな」

「芦原さんが相手の場合には…。あの独特のペースにはまらないように、注意が必要だ」

「村上さんは…まあ、大丈夫だろう」

「ダークホースといえば、笹木さんあたりか…」

 ヒカルのためを思えば、研究会に参加するのはいいことだと賛成するものの、一癖も二癖もある兄弟子たちに、ヒカルを口説かれないようにと、水面下で作戦を練り続けるアキラであった。



 次から、登場人物が増えます。

 兄弟子たちを牽制する前に、自分がもっと突っ込めよな、アキラ。まったく、ふがいない。




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