「ただいま」を永遠に(6)

 この作品は、沙里さまのリクエストをもとに書かせていただいたものです。


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 月日は流れ、ヒカルは中学3年生になった。

 学校の進路指導で、進路調査のアンケートを配られたヒカルは、自室で鉛筆を片手にうなっていた。

     進学 (希望する学校名:                    )

     その他(具体的に:                        )

 両親の残してくれた保険金で、公立高校に進学することは可能だ。

 学力がともなえばの話だが。

「高校かあ…。アキラは行ってないよなあ」

 私立海王中学に通っていたくらいだから、アキラは頭脳明晰なのだろう。

 それなのに進学しなかった。

 プロ棋士になりたいと真剣に考え始めたヒカルも、学校へ通う時間があったら碁の勉強にあてたいと思うようになっている。

 実際、一時帰国した佐為にねだって盤と石を買ってもらい、自室で勉強するようになっているくらいだ。

「でもなー。プロになって、自分でおカネをかせぐようになったら、ここを出ていかなきゃいけないしなー…」

 学生の身だからこそ、塔矢家に居候できるのだと、ヒカルは思い込んでいる。

 社会人になったら、ひとりでアパート暮らしをしなければならなくなる。

 行洋や明子や、そして誰よりもアキラと離れて暮らすことを想像するだけで、ヒカルはとても寂しくなった。



 明日には進路調査票を提出しなければならないという日の夜。

 ヒカルは行洋から一通の封筒を手渡された。

 あけてみると、なかには、棋士採用試験願書と推薦状が入っていた。

「わたしから推薦状を書いておいた。アマチュアの棋戦で成績を残しておらずとも、試験を受けることに問題はなかろう」

 先月あたりから、数え切れないくらいの人が、推薦状を書いてほしいと塔矢家を訪れてきたが、行洋がそのたびに断っていたのを、ヒカルは知っていた。

(他の人には頼まれても断ってたのに…)

 ヒカルは封筒をぎゅっと抱きしめた。

「ありがとう、先生。……オレ、がんばるっ! 絶対、プロになる!」



 ヒカルは部屋に戻ると、進路調査票の「その他」の欄に○をつけた。

 そして、備考欄には「塔矢行洋門下・来年から日本棋院所属棋士になる予定…ってか、絶対なる!」と書き込んだ。

 塔矢家を出ることになっても、碁の道を歩きたい。

 行洋のように碁の高みを追求したい。

 佐為のように碁の楽しさを伝えたい。

 アキラと互角に戦える力をつけたい……。

 ヒカルの目に、もう迷いはなかった。






 翌日の放課後。

 採用試験の願書を提出するため、ヒカルは日本棋院会館を訪れていた。

 アキラの手合いが終わるのを待って、一緒に事務所に行こうという約束をしていたのだが、肝心な時間を決めていなかった。

 3年生になってから午後は授業がない日が増え、今日も午前中授業だったため、ヒカルは友達とパンを買い、食べ終えるとすぐに市ヶ谷へやってきたのだ。

 いつになったらアキラが現れるのか、まったく予測がつかない。

 1階や地下の展示物を見ているだけでは退屈してしまい、ヒカルは2階へ行ってみた。

 エレベーターの前の自動販売機で炭酸飲料を買い、階段の前の椅子に座っていたが、待てど暮らせどアキラは来ない。

 飲み終わった缶を捨てようとゴミ箱を探していると、奥に「一般対局室」と書かれた広いスペースがあることに気がついた。

「棋譜でも並べて待ってよっかな」

 ヒカルが財布を取り出して料金を払おうとすると、受付の女性に申し込み用紙に記入するように言われた。

 名前・住所・電話番号。

 問題は次だ。

「段級位…って、何?」

 ヒカルがたずねると、受付の女性はヒカルを初心者と勘違いしたらしく、入門教室のチラシをくれた。

「入門教室…? もう塔矢先生の門下だけど、またどっかに入門するの?」

 不思議そうに首を傾げるヒカルの言葉を聞いていた者があった。

 アキラの1年後に入段した棋士の和谷義高である。

 たまたま碁掛紙を買うために売店に寄ったところ、かわいい女の子がいるなと、ヒカルの存在に気づき、ちらちらと見ていたのだ。



「なあなあ。おめえ、塔矢先生ンとこの門下生なわけ?」

 軽い口調で声をかける和谷に、ヒカルは身構えたが、受付の女性が「和谷三段ですよ」と教えてくれたので、少し気を許して答えた。

「うん。オレ、塔矢行洋門下の進藤ヒカル」

「進藤ヒカルちゃんかあ〜。俺は和谷。和谷義高っていうんだ。森下先生の門下だ」

「ふーん。ところでさあ。アキ…じゃなくて、塔矢アキラ見なかった?」

 ヒカルは和谷の自己紹介をさらりと聞き流し、アキラの所在をたずねた。

「塔矢? ああ、あいつ、今日は長引きそうだぜ」

「なんで?」

「今日の塔矢の相手、長考派で有名なんだ」

「そっかあ。じゃあ、やっぱ棋譜でも並べて待ってよっと」

 申し込み用紙の段級位欄に「塔矢先生に聞いて」と書き込むと、ヒカルは料金を払って対局室に入った。

 対戦を希望しない飛び込みの客に戸惑いを隠せない受付の女性を尻目に、ヒカルは入り口付近のあいている席にすわり、さっそく白黒ふたつの碁笥を手元に引き寄せた。

「なあなあ、ヒカルちゃん。ヒマなんだったら、俺と打とうぜ」

 強引にヒカルの前にすわり、和谷はニカッと笑った。

「別にいいけど…」

 ヒカルがうなづくと、和谷は「やりっv」と白の碁笥を引き寄せた。

「塔矢には何子置いてんだ?」

 研究会や夕食後の対局では、勉強のために互先で打っている。

 戦績は2勝83敗だが。

 プロとアマが対局するときは、少なくとも二子置くものだと聞き知っていたので、ヒカルは「二子」と答えた。

 その結果がとんでもない事態を巻き起こすことになろうとは、このときのヒカルには知るよしもなかった。






「……ありません」

「ありがとうございました」

 和谷の投了をもって、対局はあっけなく終わった。

「ヒカルちゃん…おめえ…二子なんてウソだろ」

 和谷は黒の碁笥に手を入れると、反対の手でもうひとつの碁笥をヒカルのほうへ追いやった。

「ニギれよ。真剣勝負だ」

 和谷はヒカルの実力を認め、自ら互先の勝負を持ちかけたのだ。

 その頃には、ふたりのうしろにはギャラリーがびっしりとはりついていた。

 衆人環視のなか、ヒカルが白を持って、第二局目が始まった。

「あの子、誰だい?」

「相手はプロだろ。なんで、あの女の子が白を持ってるんだ?」

 一般対局室とは思えないほどのギャラリーの数に、手合いを終えたプロ棋士も、何事かと集まってくる。

「おいおい、和谷のヤツ、押されてるじゃないか」

「何者だろう、あの子。藤原先生の手にも似てるし、塔矢先生の気配もするし…」

「まだ中学生ぐらいじゃないのか。院生でもなさそうだし。いったい何者なんだ?」

 結局小ヨセまで打って整地したところ、白の1目半勝ちであった。

「ふうぅぅ〜。ほんっと強いな、おめえ。俺、マジで惚れちまうぜ」

 和谷は男前に唇の端を上げて、熱い視線でヒカルを見つめた。

 研究会で、緒方にもそれに似た言葉をかけられ、そのたびに行洋やアキラから、冗談だからくれぐれも本気にしないようにと注意されていたヒカルは、和谷の告白を見事にスルーした。

「勝っちまったよ、あの子」

「いったい、どうなってるんだ。あんなに打てる子が、どうして今まで無名だったんだ?」

「なんでも塔矢行洋先生の身内だとか…」

「「「「「塔矢先生の!?」」」」」






 やっと手合いを終えて、エレベーターを待つのももどかしく、階段を降りてきたアキラは、2階の一般対局室に人だかりができているのを見て、イヤな予感がした。

 一般の愛好家にまじって、伊角・本田・越智・冴木といった若手プロの姿も見える。

 人ごみをかきわけていくと、予想通り、中心にはヒカルがいた。

「ヒカル!」

 他者牽制の手段としても最も効果的な方法で、アキラは、ヒカルの注意を自分に向けさせた。

「アキラ! 終わったのか?」

 満面の笑顔で振り向いたヒカルのそばへ歩み寄り、アキラはヒカルの肩に手を乗せて盤面をのぞき込んだ。

「和谷くんに打ってもらってたんだね。ありがとう、和谷くん」

 視線を和谷に向けなおし、敢えて余裕の笑みで礼を言う。

「ああ、いや…。こっちこそ、すげー勝負させてもらった。ところで…その…」

 呼び捨てしあうヒカルとアキラの関係をたずねて撃沈するのが怖くて、和谷は言葉を濁した。

「ヒカル。今日、お母さんたち遅くなるらしいから、夕飯は途中で食べて帰ろう」

 アキラは再びヒカルに向き直り、にっこりと微笑みかけた。

「マジ? じゃあ、オレ、ラーメンがいいv」

「ラーメンだけじゃ栄養が偏るよ。……そうだ。帰りに何か果物を買って帰ろう」

 アキラは、しきりに「帰ろう」を強調し、いかにも一緒に住んでいることを匂わせる。

「な、なあ。ヒカルちゃん…。おめえ、塔矢ンちに住んでんのか?」

 和谷がおそるおそるたずねると、ヒカルは「うん。そーだよ」と、力いっぱい肯定した。

 和谷、早くも失恋決定。

「父も母も、ヒカルを実の娘のようにかわいがっていてね。将来は…おっと、もうこんな時間だ。悪いけれど、これで失礼するよ。行こう、ヒカル」

 アキラはヒカルをうながして、4階の事務室へと向かった。

 当然のように、ヒカルの肩に手をまわして…。



「塔矢アキラに恋人出現…か」

「今まで、浮いた話のひとつもなかったのになあ」

「塔矢先生も奥さんも、あの子をかわいがってるそうじゃないか」

「進藤ヒカルちゃんかあ。かわいくって、強くって…と来りゃあ、これ以上の良縁はないだろうよ」

「一緒に暮らしてるみたいだし、こりゃもう決まりだな」

 あとに残されたギャラリーたちは、和谷の傷に塩を塗りたくるような噂話に花を咲かせていたのであった。



 和谷に置き石の数をきかれたとき、せめて定先と答えていたら、二局目でヒカルが白番になることはなく、普通に「もう一局!」となったはずだった。

 そうすれば、そんなに注目を集めることもなく、「けっこう打てる女の子が来てたな」くらいで終わっていたのだが。

 進藤ヒカルの名前は、プロ試験が始まる前から、こうして世の中に広まっていったのだった。






 エレベーターのなか、ヒカルはアキラが語尾を濁した言葉の続きが気になって、不安ながらもたずねてみた。

「……な、なあ、アキラ。さっきの将来は…って、先生たち、なんて言ってたんだ?」

 アキラにしてみれば、わざと婚約者を匂わせるための発言をしただけであって、深い意味はなかったのだが。

「えっ? ああ…。うん。えっと…。将来、この家からまたひとりプロ棋士が誕生するのを楽しみにしている…って、そう言ってたんだよ」

 本当のことを言っていたら、ヒカルは喜んでアキラに抱きついただろうに。

 塔矢アキラ18歳。

 まだまだ修行がたりないようである。

 


 原作のヒカルだったら、棋院の地下の展示室を一日中眺めて、佐為の思い出に浸ったことでしょう。

 和谷くんだけでなく、他の院生メンバーたちも登場させたかったのになあ。名前だけになっちゃいました。




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