001. one
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001.
one


 夏の終わりのとある午後。
 いつもより少し早い時間に手合いを終えた進藤ヒカルは、日本棋院会館の玄関に立ち尽くしていた。

 もともと、一年中ほとんど陽のあたることのない場所だが、そのガラスのドアの外は、いつもにも増してうす暗い。建物の中にいても、叩きつけるような雨の音が聞こえる。

 夏の風物・夕立である。

「マジかよぉ」
 厚いガラスのドアを押し、外をうかがうと、雨音が3倍増しになる。風向きのせいか、足元にまで雨が吹き込んでくる。

 玄関脇の傘立てには、置き忘れられた数本の傘。ここにいるのはヒカルひとり。誰も見ていない。
 ……しかし、それに自然に手をのばすことがないくらいには、彼女は善人であった。

「マジどうすっかなぁ」

 ここから市ヶ谷駅までは徒歩1分。走れば30秒もかからないだろう。

 とは言っても、まるでバケツをひっくり返したかのようなこの大雨だ。30秒もあれば、立派な濡れネズミができあがるに違いない。

……しかし、そのことに気がつくほどには、彼女は賢くはなかった。

「よっしゃ! 気合いだ、気合い! 行くぜっ!!」

背中のリュックを頭の上にかかげ、ヒカルはドアに体当たりした。

「進藤!」

ドアがあいて大きくなった雨音のすきまを縫って届く、聞き慣れた声。

 大きく一歩を踏み出そうとしていたヒカルは、出鼻をくじかれて、ドアのあいだにはさまった。高くかかげていたはずのリュックが、ヒカルの頭を経由して床に落ちる。ケガをするほどのことではないが、これはかなり恥ずかしい。

「とーやぁ。いきなり大声で呼ぶんじゃねーよ。ひとの気をそぎやがって…」

 ドアのあいだから這い出しながら、上目づかいに睨みつけると、そこには極上のスマイルを浮かべた声の主・塔矢アキラが立っていた。中途半端に開かれた黒い折りたたみ傘を差しかけながら。

「進藤。まさか、この雨の中を駅まで走ろうなんて考えていたわけじゃないだろうな?」

 エレベーターの扉が開いたところで、ヒカルの姿を見つけたアキラは大慌てで声をかけ、普段の上品な物腰からは想像しがたい猛ダッシュでヒカルに駆け寄ったのだ。

(ああ、愛しの進藤。こんな雨の中を飛び出していくなんてムチャはしないでおくれ。大丈夫。傘ならボクが持ってるから。さあ、ボクの傘にお入り。……ってこれは…あ、あい、あいあいがさぁーーーーーっ!!)

 ダッシュと同時にかばんの中から傘を出し、スナップボタンをはずして柄をつかみ、たたまれた骨をのばすのももどかしく傘をひろげたが、半分おちょこ状態になってしまった。

 いったん傘を閉じ、きれいにひろげなおしてから、アキラは再び傘を差し出す。

「いくら夏だといっても、こんな大粒の雨に濡れたら風邪をひくぞ? ボクの傘に入っていけ」

「ええーーーーっ! それって相合傘じゃん。やだよ、そんなの。オレ、走ってくからいい!」

 ヒカルは再びリュックを頭の上にかかげるが、アキラはさらに畳みかける。

「棋士同士でひとつの傘に入ることに、なんの抵抗があるというんだ。体調管理もできないなんて、キミにはプロの自覚がないのか?」

 表面上は相互扶助を装っているものの、アキラの脳裏は3年越しの想い人との相合傘の妄想でいっぱいだ。

(こんなことなら、折りたたみじゃない普通の傘を持って来るんだった。男女が身を寄せあってひとつの傘に入る相合傘こそ、恋人たちのあるべき姿。傘こそが、ボクたちの距離を一気に近づける究極のアイテム。それなのに、この傘じゃ小さすぎて、愛しの進藤を雨から守れない。……あ、でも待てよ。「もっとこっちへ寄りなよ、濡れてしまうよ」なんて肩を、だ、だ、抱いたりして…。いい! いいじゃないか。ビバ・折りたたみ傘!)

 その愛しい進藤ヒカルに不用意に声をかけてドアにはさませておいて、雨から守れないも何もないのだが、アキラの妄想がヒカルに聞こえるはずもなく、体調管理やプロの自覚といったセリフに、ヒカルはアキラの提案を額面どおりに受け取った。諾の意を伝えようと息を吸い込んだところで、ほんの一瞬、外に光が走った。

 ごろごろごろごろ…

「うげぇ、かみなりだぁ。おい塔矢。その傘にかみなりが落ちたらどうすんだよ。おまえも傘ささないで走ったほうがいいんじゃねー?」

 相合傘か駅までずぶ濡れかの二者択一に、かみなりという要素が加わり、ヒカルは考えを改めた。

「周囲に高い建物がこんなにあるのに、なぜ地上から2メートルもないボクの傘を選んで落ちるというんだ?」

(かみなりを理由に躊躇うほど相合傘が恥ずかしいのかい? そんなにテレなくてもいいのに。初々しいんだね、進藤はv

「でもさー、かみなりって、先のとんがってる物に落ちるっていうじゃん? 傘なんか一番ヤバいんじゃねーの?」

「ビルの屋上には避雷針というものが設置してある。かみなりの電流を地面に逃がすためだ。地上近くの傘よりも避雷針に落ちる確率のほうが何倍も高いよ」

(ほんとにかみなりが怖いのかい? なんてかわいいんだv でも心配いらないよ。ボクがついててあげるからv

「でもさー」

「さっきから、でもさーでもさーと何度言えば気が済むんだ。いいかい進藤。かみなりというのは大気中の電子の…」

 最愛のヒカルがかみなりを怖がっていると勘違いしたアキラは、彼女の不安を取り除くべく、かみなりについて説明を始めた。持てる知識のすべてを総動員した「かみなりレクチャー」は、開始から40分が経過した今、やっと総論の域を出て、各論に入ったばかりである。


「あれ? アキラに進藤くん? こんなとこで何やってんの? ずいぶん前に部屋から出ていかなかったっけ?」

 アキラのかみなり講座が、各論の佳境のひとつである「フランクリンの凧の実験」にさしかかったあたりで、塔矢門下の芦原弘幸が不思議そうに声をかけた。未成年でたばこを吸うわけでもないふたりが、玄関先の喫煙スペースの長椅子で、なにやら延々と語りあっているように見えたのだ。実際には、アキラが一方的にしゃべりまくっていたのだが。

「あ、芦原さん。こんにちはー」

 時ならぬ授業に退屈し始めていたヒカルは、ぴょこんと長椅子から立ち上がり、芦原に駆け寄った。

「聞いているのか、進藤。その嵐のさなか、フランクリンは…」
 アキラもガタッと得意の音をたてて立ち上がると、それてしまったヒカルの気を引こうと熱弁をふるった。兄弟子であるはずの芦原には、なんの挨拶もなしだ。

 そんなことは気にも留めず、芦原は外を眺めて言い放った。

「雨あがったみたいだね。よかったぁ。さっきまでかみなりも鳴ってたし。やっぱ日頃の行いかなぁ」
 芦原の言葉につられて外を見たヒカルは、リュックを背負うと、

「あ、ほんとだ。ラッキーv じゃあな塔矢。芦原さんも、さよならーっ」
と言い残し、元気よくガラスのドアをあけて駆け出していった。

「し、進藤!」

 スタートダッシュで出遅れたアキラは、その場に留まるしかなかった。
(せっかくのチャンスだったのに。進藤と相合傘で帰るはずだったのに。進藤の肩をだ、だ、抱き、抱き寄せちゃったりするはずだったのに)

 そんなアキラの恋心を知ってか知らずか、芦原はアキラの手元の傘を見て、飄々と笑った。

「アキラ、もう雨やんだんだから傘しまえば?」

「…………」

 出番のないまま畳まれたこの黒い傘は、アキラの部屋のクロゼットにしまわれ、二度と使われることはなかった。
 のちにふたりをひとつに結びつける傘は、旅先の旅館名の入ったビニール傘だったりするのだが、それはまた別の話である。




  <コメント>

アキヒカ初書きです。


棋院を出る時に大雨に降られた体験をもとに書いてみました。しかも、あの日は買い忘れたものがあって、翌日また行ったんだっけ。

お題のoneから想像したのは相合傘だったのですが、おふたりさん、残念ながら、ひとつの傘には入ってくれませんでした。っていうか、雨やんでるし。アキラさん自業自得です。

ドアにはさまったヒカルと、室内で半分おちょこな傘を持ったアキラ。初書きなのに、このシチュエーションっていったい…。