002. 電子回路
8月最後の日曜日。
すでに中学を卒業し、棋士の道を歩んでいるヒカルとアキラには縁のない話だが、世間では夏休みの最終週にあたるこの日、日本棋院には多くのこどもたちが集まっていた。1階の小部屋には臨時の待合室も設けられ、その保護者とおぼしき人々が昼休みを前に、まもなく戻ってくるであろう我が子のために、お弁当やら水筒やらをひろげ始めている。
小学生を対象とした1日入門教室が開催されているのだ。
こどもが「夏休みにどこかに連れて行ってくれ」とせがむのは世の常。みやげ物屋や食堂に少なくない額の紙幣を奪われ、渋滞や人ごみに気力体力を奪われる炎天下の観光地より、交通至便な市ヶ谷で丸一日こどもの面倒を見てくれるこの催し物に軍配があがるのは、もっともなことかもしれない。
騒がしいこどもたちをあずけて、涼しい待合室でのんびりと雑誌をめくって過ごす母親。少し碁を打つ父親は、めずらしく尊敬のまなざしで見つめられる。絵日記のネタとしても、囲碁はどこか知的だ。
学校の長期休暇にあわせて、夏・冬・春と、ほぼ一年中行われるこの1日入門教室だが、とくに夏休み期間は申し込みが殺到し、ここ数年は毎週開催となっている。
こうなると、普及指導員やインストラクターだけでは対処しきれず、棋戦にからんでいない年配の棋士や、まれに若手にも講師の要請が来る。
このような理由から、ヒカルとアキラは一日講師として迎えられたのである。
昼休みになり、職員から手渡された仕出し弁当をかかえたヒカルとアキラは、エレベーターで1階に向かっていた。せっかくの機会だから、こどもたちだけでなくその保護者にも囲碁普及のためのPRをしてこい、という職員からの厳命を受けて。
元五冠である塔矢行洋のひとり息子で、実力も若手ナンバーワンのアキラの名前は、その秀麗な容姿とともに、囲碁を知らない人のあいだにも深く浸透していた。こういう役割の担い手として、またとない逸材である。
問題なのは、もうひとりの棋士である。
実は、今日の講師要請の承諾に際して、塔矢アキラからひとつの提案が出されていた。それは、進藤ヒカルを同席させることである。提案というより条件といったほうがしっくりくるかもしれない。
プロ棋士として彼女もそろそろ講座の仕事に慣れたほうがいいから、と、あくまでも表面上はライバルの経験値向上を理由にしているが、本音はもちろん「進藤と一緒がいいv」のひとことに尽きる。
入段時のサボリや言葉遣いの悪さで悪評高い女流棋士の進藤ヒカルを人前に出すことに、棋院職員側にはいささか躊躇いがあったのだが、午前中の様子を見たところ、親しみやすい口調と意外に親切な教え方で、温厚そうなアキラ以上にこどもたちに慕われており、職員は一様に胸を撫で下ろしたのであった。
さて、場面は再びエレベーターの中。
「メシだー。メシ、メシーv」
まだ温かくいい匂いを漂わせる弁当箱に顔を近づけ、ほこほこと笑っているヒカルとは対照的に、憮然とした表情で弁当箱をかかえているアキラ。
(進藤とふたりっきりでお昼を過ごせると思ってたのに)
はああぁーっと深いため息をつき、手元の弁当箱を見つめる。
(おかずのとりかえっこをしたり、「ボクには少し量が多いから」って鶏の唐揚を余分に進藤にあげたり、進藤のぷにぷにのほっぺたについたごはんつぶを取ってあげたり…。そんな甘いランチタイムを過ごすはずだったのに。ああ、ボクになんの恨みがあるっていうんだ日本棋院!)
手の中のプラスチック製の重箱がめりめりと悲鳴をあげるくらい、力いっぱいこぶしを握りしめると、再びため息をついた。アキラの機嫌曲線は、下降の一途をたどるばかりだ。
「なにため息ばっかついてんだよ。あ、もしかしてこどもがいっぱいで気疲れしたのか? なんなら上の畳の部屋でメシ食う?」
ヒカルが心配そうに顔をのぞきこんでくる。
思いがけない気遣いの言葉に、アキラは自分の耳を疑った。
(進藤がボクの心配をしてくれている…? ああ、なんてことだ。マイスイートハニーにこんなに不安そうな顔をさせてしまうなんて。しっかりしろ、塔矢アキラ!)
機嫌曲線は少しだけ上昇した。おかっぱ頭をぶんぶんと振り、きりりと表情を引き締めてアキラは答えた。
「疲れてなんかいないさ。少し考え事をしていただけだよ。囲碁の普及はボクたちの仕事のひとつだ。昼休みにお客さんと親睦をはかるのは当然のことだろう?」
ほどなくして1階に着き、ヒカルのうしろを歩きながら、自分がいかにもったいないことをしたかに気がつくと、アキラは天井を仰いで後悔の涙を滝のように流したのだった。
待合室の中は、すでに弁当をひろげた親子でいっぱいだった。
「うひゃー。まだ席あるかなぁ」
きょろきょろと室内を見回す間もなく、ふたりはこどもたちの歓迎を受けた。
「進藤せんせーっ! 一緒にごはん食べよう!」
「ここ! ここあいてるよーっ!」
「塔矢せんせーっ! こっち、こっち!」
「先生たち、こっちで食べよう! ねえってばーっ!」
どこにでも必ず何人かいる強引なこどもの手によって、ヒカルはドア近くのテーブルに、アキラは窓側のテーブルに、それぞれ引っ張られていった。
ふたりっきりの甘いランチタイムどころか、ヒカルと一緒に食事をすることもできず、アキラの機嫌曲線は底値に迫る勢いである。
(進藤とおかずのとりかえっこ。進藤のほっぺたのごはんつぶ…)
こどもたちの話に適当に相槌を打ち、保護者の差し出すおかずに箸をつけながらも、アキラの頭の中はヒカルのことでいっぱいだ。さすがに営業スマイルは絶やさないものの、アキラの周囲だけ体感温度が5℃は低いことだろう。
「ああぁぁーっ! 進藤せんせー、ほっぺにごはんつぶついてるーっ! 取ってあげるー」
「お? サンキュー」
「せんせー、この卵焼き食べる? 」
「え? いいの? やったぁv ……じゃあ、オレの唐揚、1個あげるな。ほら」
「わーい!」
「あら、すみません、進藤先生。うちの子がうるさくして…」
「そんなことないっスよ。オレ、にぎやかなの好きだし。第一、メシは楽しく食わなくっちゃ」
部屋の反対側から聞こえてくるそんなやりとりに、アキラの笑顔の仮面は見事にはがれ落ちた。機嫌曲線は一気に底値を更新し、周囲の温度はシベリア寒気団の到来を感じさせるほどに下がった。実際にエアコンの設定を確認しに行った者もいる。
もはや笑顔を取り繕うこともなく、黙々と箸を動かし続けるアキラ。自分から彼を招いたはずの、となりに座るこどもはすでに半泣き状態で、食事どころではないようだ。
(おのれガキめ。よくも神聖なる進藤のぷにぷにほっぺを汚らしい手で穢したな。しかも卵焼きひとかけらを代価に、進藤の大事な唐揚を奪うとは、なんたる卑劣なふるまい。ああ、ごめんよ、マイプリティーガール。ボクが今日のイベントに推薦したばっかりに、キミにイヤな思いをさせてしまった…)
勘違いも甚だしい。
ここまでくれば、立派な表彰ものだ。
ヒカルがイヤな思いをしている、という勘違いだけではない。
自分がそのこどもにやきもちを焼いている、という事実に気づいていないのだ。
カラになった弁当箱を見つめ、アキラはため息をついた。
ふとあたりを見回すと、自分の周囲には誰もいない。
(そういえば、トイレに行くって言ってたっけ)
となりに座っていたこどもは、母親を連れて避難したらしい。
アキラは弁当箱のふたを閉めて、再びため息をついた。
「じじくせぇ。なにため息ばっかついてんだよ。食いたりねーのか?」
さっきまでこどもが座っていたパイプ椅子に座り、ヒカルがきししと笑っている。
「いや、十分にいただいたよ」
仕出し弁当を完食し、差し出されたおかずにも箸をつけたのだ。もともと小食なアキラには多すぎるくらいだ。
「そっかぁ。じゃあ、これいらないか」
ヒカルの手元にはプラスチック容器。中には小さくカットされたメロンが入っていて、赤い小さなピックが何本か差してある。
「どうしたんだい? これ」
「あっちで一緒に食べてた人にもらった。おまえも食えよ」
容器を差し出し、ヒカルは自分もひとつ口に入れ、「あめぇーv」と目を細めた。
(進藤! なんてかわいらしいんだv まるでひまわりの種をほおばるハムスターか、冬眠前のリスみたいだ。……はっ。そうか。キミもボクと一緒に食事がしたかったんだね。恥ずかしがり屋さんなキミのほうから誘ってくれるまで気がつかなかったなんて、ボクはなんてうかつな男なんだ)
周囲の温度がにわかに上がり、人々が首をかしげるなか、アキラは赤いピックを取って答えた。
「ありがとう。いただくよ」
アキラがメロンを口にしたのを見届けると、ヒカルはにやりと笑った。
「食ったな。おまえ、たしかに食ったな?」
いたずらっこのような含み笑いを浮かべて立ちあがると、ヒカルはアキラの腕をひっぱった。
「メロン代、払ってもらうぜっ」
「進藤? どこへ連れていく気だ?」
(進藤と手をつないでいる。ああ、ボクは今、進藤と手をつないでいる! ……このシチュエーションは、全国こども囲碁大会の日以来! ボクが初めてキミを碁会所に誘ったあの雨の日以来、まさに3年7ヶ月ぶり。しかも、あの時はボクが強引に迫って、キミを怯えさせてしまったんだったね。あの日を反省して今日までキミに触れないできたが、まさかキミのほうから手をつないでくれるなんて…。進藤! 積極的なキミも大好きだよv)
感動にうち震えるアキラをぐいぐいとひっぱり、ヒカルはもといたテーブルへ戻った。
「お待たせ! 塔矢を連れてきたぜ」
ヒカルはアキラを椅子に座らせると、得意げに胸を張った。
「さあ、なんでも聞いてくれ。こちらの塔矢若先生さまが、なんでも教えてくれるぜ」
「進藤? いったいなんのことだい? 碁の質問なら、キミにだって答えられるだろう?」
突然の話にとまどうアキラに向かって、ヒカルは人差し指を振りながら舌を鳴らした。
「ちっちっち。わかってねーなぁ。これだよ、これ」
ヒカルはテーブルの上にひろげられた薄い冊子を手にした。
「楽しい理科…? ああ、夏休みのドリルだね」
ヒカルからドリルを受け取ると、アキラはページをめくりはじめた
「……あれ? あんまり進んでないみたいだけど…」
3分の1程度めくったところで、アキラは首をかしげた。
「もう夏休みは終わってしまうよ? 間に合うのかい?」
できるだけやさしい声でドリルの持ち主にたずねたが、こどもはうつむいて首を横に振るばかりだ。
「だあああぁ。もうっ。だから、おまえに頼んでるんじゃん。海王中出身のその頭脳をもってすれば、こんなの楽勝だろ?」
「宿題は自分でするものだよ。手伝ってしまったら、その子のためにならない」
「ンなこと言ったって、今からじゃもう間に合わねーよなぁ? 今日ここに来たせいで宿題ができなかったなんて聞いちまったら、なんとかしてやりてーじゃん」
「まあ…、碁に時間を費やして学業をおろそかにするなんて、ボクとしても潔しとは言い切れないけれど…」
「??? よくわかんねーけど、じゃ、決まりな。メロン代がわりに、ひとつ頼むぜ」
交渉は成立し、アキラによる「小学生・理科」の夏期講習が始まった。
生徒であるドリルの持ち主は、夏休みの最終週まで宿題を放置していただけのことはあり、時々つまづいては泣き顔を作っていたが、そのたびにヒカルに励まされてくらいついていった。
「だいじょーぶ。オレもわかんねーから。……おい、塔矢。ここのちょ…ちょくなんとかってとこ、もう1回頼むわ」
「ああ、直列・並列のところだね。……進藤。これは小学生の問題だよ? オレもわかんねー…はないだろう」
「っせーな。いいから早く説明しろよ。昼休み、終わっちまうだろっ」
「はいはい」
(そんなにムキにならなくっても、キミがほんのすこーしばかり勉強が得意でないことくらい、ボクにはお見通しさ。進藤の、お・ば・か・さ・んv そんなところにも、ボクはメロメロなんだよv)
宿題を手伝うという、彼としては不本意な行為をしながらも、アキラは残りの昼休みを意外に楽しく過ごしたのであった。
1日入門教室終了後。
まだ夕陽の照り返しの強い外堀通りをわたり、ヒカルとアキラは馴染みのファーストフード店へと歩いていた。
ヒカルが空腹を訴えたからに他ならない。
今日はめずらしくアキラが先に立って歩いている。ヒカルと過ごす時間が増えたせいで、もう通い慣れてしまった道なのだ。
「ぷふふ」
アキラのうしろで、突然ヒカルが吹き出した。
「? どうかしたのか? 思い出し笑いなんて、不気味だぞ」
振り返ったアキラに、ヒカルはもうたまらないといったふうに笑い転げた。
「うははははは。さ…さっきの直列と並列の話…。ぷはは。なんか、おまえみたいでさぁ。くっ…ふふふふ…ぶはははは」
「??? ……昼休みに手伝った宿題のことか。電子回路の基礎だろう? 2個の電池と豆電球…。それが、どうしてボクみたいなんだ?」
アキラはいぶかしそうに身体ごと向きを変えて、ヒカルの笑いの発作がおさまるのを待つ。
ヒカルはまだ苦しそうにむせながらも、深呼吸してから言い放った。
「並列は同じ明るさで電池が長持ち。直列は長持ちしないけど明るくなる。そうだろ?」
「ああ。それがどうしたっていうんだ」
「だからさぁ。碁会所で検討してる時にさ、普通の声で長いことネチネチ言われ続けるのと、フルパワーの怒鳴り声で短時間に集中攻撃されるのと、どっちがマシかなって…ぷははは」
再び笑い出してしまったヒカルに、憮然とした表情で立ち尽くすアキラ。
底抜けに明るいヒカルの笑顔を拝めたものの、そのネタ元が自分とあっては、素直に喜べないのもまた事実であった。
<コメント>
電子回路って何? ICとか、そういうテクノロジー系の話はまったく門外漢なので、お題を見て浮かんだのは「直列・並列」。がびきゃの知能が小学生レベルであることが暴露されてしまいました。
前振りが長すぎて、肝心なお題は最後にちょろっと出ただけ。いけませんなぁ。

