010. 旅の宿(蛇足)
今回のイベントに参加した者たちは、それぞれ新たな知見を得た。
一般の参加客とイベント担当職員は「塔矢アキラ七段は進藤ヒカル二段にベタ惚れ説」が、まぎれもない事実であったことを目の当たりにした。
日本棋院の一般対局室をホームグラウンドとする愛好家のあいだでは、ずいぶん昔からうわさになっていたのだ。知らぬは本人ばかりなり。
辻岡忠男三段は「塔矢くんはいいお父さんになりそうだな」と、一気に飛躍した予測を立てて、悦に入っていた。
伊角慎一郎初段は「進藤のヤツ、体調が悪いこと、塔矢には言ってたんだな。まあ、俺に言われても困ったけど/// おまえにとっても、やっぱり塔矢は特別なんだな」と、冷やかし半分・応援半分で苦笑していた。
ヒカルの体調がすぐれないことは、親しくつきあっている者たちの誰の目にも明らかだった。ただ、女の子のデリケートな事情について考えてはいけない、という良識のもと、いつも通りに接していたのだ。
芦原弘幸四段は、アキラが深夜まで部屋に戻らなかったことを、師匠でありアキラの父親でもある塔矢行洋に、告げるべきかどうか思い悩んでいた。
そして考えあぐねた結果、よせばいいのに、よりによって兄弟子に相談してしまったのだった。
緒方精次二冠は、その情報に公開対局時のアキラの様子を加味して考察し、ついにアキラがヒカルを押し倒したとの結論を導き出した。
「これからは、一緒にオトコとしての会話を楽しめそうだな。くっくっく…」
眼鏡の奥の瞳にいかがわしい光を宿し、忍び笑いをもらしていたという(芦原・談)。
桑原本因坊は、ヒカルがアキラに泣かされたという事実に、眉をひそめていた。アキラのヒカルに対する想いはもちろん、ヒカルもアキラのことを憎からず想っていることを、彼はヒカル本人よりも先に気づいていた。
「……かと言って、ワシから嬢ちゃんに言って聞かせる話でもあるまい。おなごの正しい口説き方を伝授するように、小倅の親父に言っておくとするかの」
日本棋院の2階売店前で、塔矢行洋にこの一件を伝える桑原の姿が目撃され、「桑原がヒカルを孫のように可愛がっており、アキラとの結婚式の仲人を買って出た」といううわさが広まるのは、そう遠くない未来の話である。
「一緒にお風呂に入っただけでは、あかちゃんはできないのかもしれない」
ヒカルとアキラは、それぞれ未知なる謎に挑んでいた。
子宝の湯というのが嘘っぱちだったのか。
それとも、あかちゃんを授かるには何か条件があるのか。
あるいは、一緒に入浴するだけでなく、他に行うべきことがあるのか。
学校を休みがちだったふたりが、保健体育の肝心な授業を聞き逃していたことを知る者は、まだ誰もいなかった。
<コメント>
蛇足にコメントをつけるのは、蛇の足に靴をはかせるようなものでしょう。

