010. 旅の宿(7)
公開対局が始まった。
アキラは演壇から少し離れた会場で指導碁を打っていたが、壇上のヒカルが気になって、それどころではなかった。本手を導く側にありながら、ハメ手まがいの醜い手を打ってしまったり、逆に大ポカで大差をつけられてしまったり。
もちろん大急ぎで軌道修正し、小ヨセに入る頃には一桁差になるように調整はしたが、見る人が見れば、そのアキラらしくない打ち筋に、首をかしげたことだろう。
アマ高段者程度でも「何かあったのか、塔矢アキラ」と指摘できそうなその盤面を、背後からのぞく者があった。
桑原である。
彼は昨夜のアキラとヒカルのただならぬ様子を目撃している。ふたりのあいだに何かあったことは、容易に想像がついた。
(いくらなんでも、あの奥手な嬢ちゃん相手にこの小倅が襲いかかることはなかろう。告白でもしたか、あるいは接吻を迫って逃げ出されたか。いやはや、青春じゃのう)
青い春幻想どころではなく、妊娠騒動が持ち上がっていることまでは、さすがの桑原にも見抜くことはできなかったようだ。
アキラの指導碁担当時間が終わるのとほぼ同時に、公開対局も終局を迎えていた。
マイクを通した芦原の声が、白を持った緒方が中押しで勝ったことを伝えている。
(中押し!? イベントの対局でそんなに大差がつくなんて、そんなバカな! ……まさか進藤、体調が悪くて、投げざるをえなかったのか!?)
アキラが大盤に駆け寄ると、ヒカルが棒で盤面を指し、伊角がそこへマグネットを並べていくのを、緒方が芦原と一緒に解説しているところだった。
黒の投了はあったものの、参加客の勉強になるようにと、ヨセまで並べて見せようという、イベントならではの光景である。
さすがに大差がついてしまった碁では、そんなことはできない。ヨセまで読み切った上で、相手が間違えるはずがないという敬意のもとに、ヨセまで打たずに投了しただけだったらしい。
アキラは少しだけほっとしたものの、相変わらず顔色の悪いヒカルが心配でたまらない。
(そんなあたりまえの展開、誰でも読めるだろう。わざわざ体調の悪い進藤にさせなくてもいいじゃないか。伊角! 進藤に指されるのを待つな。おまえが自分で並べればいいじゃないか。緒方さんも! 自分の打ち碁でしょう。進藤のかわりに、あなたが並べたっていいんですよ!)
投げた碁をヨセまで示すというのは、負けた悔しさもあって、その心中は複雑だ。
だが、こうしたイベント色の強い対局では、ここまで読みきって投了したのだ、という読みの確かさを、参加客にアピールする絶好の機会でもあるのだ。おそらく言い出したのは緒方だろう。
低段の女流棋士がよどみなく示していく石の流れを、タイトル保持者が肯定する。参加客たちは、プロ棋士であるヒカルの読みの力に圧倒され、しきりに感嘆のため息をついている。
伊角が大盤を整地して、白の2目半勝ちであることを示した時、盛大な拍手が沸き起こった。
緒方の思惑通り、参加客たちのあいだから、負けたヒカルに対して惜しみない賞賛の声があがる。
「盤面では自分が勝っている碁を投げるなんて、そうできることじゃない」
「しかも細かい碁でしょう。あそこからのヨセを全部読むなんて…」
「コウの取り番もツギも、ハマの数も、すべて数えているとは」
「まったくプロの力ってのは、恐れ入るねえ」
ヒカルが手放しで褒められているのを見て、アキラは自分のことのように誇らしかったが、やはりヒカルの身体が心配なことに変わりはない。
鳴りやまぬ拍手に一礼して、照れくさそうに壇上から降りようとするヒカルに、アキラはあわてて駆け寄った。
「進藤! ボクの腕につかまって」
「と、塔矢!? なんだよ、おまえ。どこからわいて出やがったんだ!?」
つかまってと言うくせに、アキラはヒカルの腕をつかまえて放さない。
「階段で転んだりしたら大変だよ。遠慮しないで、ほら」
お姫さまをエスコートする王子さまの出現に会場は沸きに沸き、割れんばかりの拍手に包まれた。
真っ赤になって恥ずかしがるヒカルと、まだ少し男として頼りない風貌のアキラの様子は、白髪まじりの参加客たちにとって、微笑ましいことこの上ない。
壇上の棋士たちも、やれやれといったふうに苦笑している。
どこをどう見ても、新米妊婦とそれをいたわる年下夫には見えないが、アキラは真剣そのものだった。
(みんな、どうして気がつかないんだ。進藤がこんなにつらそうなのに。なぜ笑って見ているんだ。ああ、ボクだけは進藤を守るナイトでいなければ)
階段を降りると、ヒカルはアキラの手を振り払って逃げ出した。
ここで見失ってなるものかと、アキラはいつになく素早く反応して、ヒカルを追いかけた。
ドアを出てすぐのところで、アキラはヒカルをつかまえた。
「放せよ! オレ、行くとこあんだから」
「放すものか! ……体調の悪い時にそんなに走ったりして、キミが倒れでもしたらと思うと、ボクは心配で心配で…。ましてや、キミのおなかには…」
「あ、あのさ。そのことなんだけどな」
ヒカルはアキラの腕のなかから脱出しながら切り出した。
「え…っと、アレ、来たから」
もじもじと恥ずかしそうにうつむいて、ヒカルは小さな声で告白した。
「え? あ、あれ…って?」
なんのことか理解できずに、アキラは聞き返した。
「だから…生理。来たからさ」
「せ、せい…り…?」
「子宝の湯なんつっといて、ぜんぜんご利益ねーのな」
まだ話の展開についていけずに呆然とするアキラの腕を、ヒカルは照れ隠しのようにバシバシと叩いた。
「だからさ、とりあえずオレらは今まで通り…ってことで。じゃ、オレ行くとこあっから」
ヒカルはアキラに敬礼をして見せると、「さっきから我慢してたんだよなぁ」とつぶやきながら走っていった。
「しんどおおおぉぉぉぉぉ…」
ひとり残されたアキラは、燃え尽きた線香のように真っ白になり、芦原に「アキラ、晩メシ行くぞ」と救出されるまで、石化したままその場に立ち尽くしていたのだった。
その夜。
ホテルのフロントでもらった鎮痛剤が効いたのか、ヒカルは桑原や芦原と一緒に会食会場を大いに盛り上げ、アキラはひとり寂しく壁の花になっていた。
翌日。
イベント3日目は、ヒカルはとくに仕事がなかったため、予定より早くホテルを後にした。
午前中に指導碁の担当が割り当てられていたアキラは、泣く泣く玄関でヒカルを見送り、「それじゃ、気をつけて。寄り道しないで、暗くならないうちに、まっすぐ帰ること。いいね?」と、お目付け役らしく声をかけるのが、せいいっぱいだった。
「こども扱いすんじゃねーっ!」
送迎バスの窓から怒鳴るヒカルの言葉は、本当は「女扱いすんじゃねーっ/// 恥ずかしいじゃんか///」が変換されたものである。
そのことにアキラが気づくのは、まだ少し先のようである。
<コメント>
こんなにひっぱっておいて、こんなオチですみません。
ほんとは、アキラさんはなんでも知っているオトナv っていう展開を考えていたのですが、先輩たちとのチャットのなかで、魅力的なネタをいただいたので、急遽変更しました。
アキラさん、ごめんね。今後もヘタレパワー全開してもらう予定です。

