011. リップクリーム
その日は月曜日。
本来ならば、芹澤九段主催の研究会に参加している時間だったが、ヒカルはおさななじみと映画の試写会にいくため、研究会を欠席していた。
試写会は夜7時から。会社帰りの若い女性をターゲットにしているのだから当然だろう。
「こんなことなら、研究会が終わってから待ち合わせればよかった」
ヒカルとあかりは、夕方5時を過ぎたばかりの駅前通りの喫茶店で、のんびりとティータイムを過ごしている。
口をとがらせるヒカルに、あかりはこともなげに言い返す。
「研究会は毎週あるんでしょ? こんなふうにヒカルとでかけるのって久しぶりなんだから、ゆっくりしたいじゃない?」
「ゆっくり…って、ばばくせーな。第一、今日は平日だろ? おまえ、学校はどうしたんだよ」
「うちの学校、昨日、体育祭だったの。だから、今日はその代休」
あかりはコーヒーカップをソーサーに戻し、腕時計を確認する。
そろそろ試写会の会場のある駅に移動しようと会計をすませ、改札口へと向かっていると、駅前の一等地に、大きなドラッグストアが店を構えているのが目に入った。
「あ、もうオープンしたんだ、薬局」
棋院のある市ヶ谷まで電車で通っているヒカルは、その場所に新しいドラッグストアができることを知っていた。
だが、それを「薬局」と呼ぶくらいだから、さしたる興味もなかったといえよう。
「きゃあ。やだ、スギヒロじゃないv ヒカル、ちょっと見ていこv」
いやなのか、なんなのか、意味不明な言葉を発しながら、あかりはヒカルの手をぐいぐいとひっぱる。
地元の高校にバスで通学している彼女は、ここにその店ができることを知らなかったらしい。
あかりの言う「スギヒロ」とは、社長の名前である「スギヤマヒロシ」をそのまま店名に使用した、大手ドラッグストアの通称である。
日用雑貨やら文房具やら化粧品やら、あげくの果てにはスナック菓子に至るまで、多種多様な商品を扱っており、ヒカルのように無機質に「薬局」と呼んでは、少々語弊があるかもしれない。
実は、ヒカル自身も「スギヒロ」には、よく世話になっている。
スナック菓子を調達するために他ならない。
コンビニエンスストアほどの品揃えは期待できないが、新商品の入荷はかなり早く、なにより値段が安いのが魅力だ。
ヒカルはあかりにひっぱられながら、
(映画を見ながら食べるお菓子でも買っていこうかな)
と、考えていた。
ところが。
あかりに連れられてやってきたのは化粧品売り場。
国内有名メーカーの商品ではなく、プチコスメと呼ばれるメイク用品が陳列されている棚の一角である。
ラメ入りのネイルカラーや、流行色のアイシャドーにリップカラー。
落ちないことを売り文句にするマスカラと、それを落とすというクレンジング。盾と矛を鬻ぐ者あり、の一説を思い出させるが、これは余談。
低価格でパッケージもかわいらしい商品たちは、あかりのような女子高生たちの心と財布を、ぐっととらえて放さない。
「きゃあ、なに、この色。やだ、すごくかわいいv」
あかりはネイルカラーのテスターを、せっせと小指の爪に塗る。
そうかと思うと、今度はラメの入ったアイシャドーを手の甲にのばし、光にかざしている。
「なあ、あかり。おまえ、化粧なんかすんの?」
手馴れたようすでいろいろと試しているあかりに、ヒカルは驚いてたずねた。
「なによ、ヒカル。気づいてなかったの? 今だって、少しメイクしてるのよっ!」
あかりは、ぷんっとすねた表情をつくる。
「マジ?」
ヒカルは驚いて、あかりの顔をじろじろと観察した。
うっすらとピンク色に色づいた唇。
控えめながら時おりキラリと光を反射させる目元。
誰にでも好印象をもたれる、清楚で愛らしいメイクだ。
「うへえ〜。ほんとだ、化粧してるよ」
ヒカルは目をぱちくりとしばたかせた。
「こんなの地味なくらいよ。みんな眉を整えたり、マスカラをつけたり、いろいろ苦労してるんだから。ヒカルみたいに、なんにもしなくても睫毛くるんくるんで、肌もつるんつるんな子なんて、めったにいないのよ」
あかりは、なかば怒ったように説明するが、ヒカルにはピンとこない。
「へ? オレが?」
「その自覚のなさが、またくやしいのよね」
あかりはそう言って、リップカラーのテスターを、ヒカルの唇に近づける。
「ヒカルは童顔だから幼く見えるけど、メイクしたら絶対映えると思うんだ。ね、これ試してみて」
「い、いいよ。オレ、化粧とか興味ないし…」
ヒカルはあわてて顔をそむけ、何とはなしに自分の唇をさわる。
少しかさつくその感触に、季節の移り変わりを感じた。
「そっかー。もうすぐ冬なんだよな。乾燥するわけだ」
ヒカルはあかりの追及から逃れる絶好の機会を得て、リップクリームの陳列棚へと移動する。
ずらりと並んだ品物の中から、ヒカルは迷わず、緑色の定番メントール商品を手にとった。
「ヒカルったら…。少しは目移りくらいしなさいよね」
追いついたあかりが、ため息をつく。
「これはヒアルロン酸配合で、保湿効果が高いタイプ。こっちは天然はちみつ成分が入ってて…」
ひとつひとつの商品を手にとって、あかりは売り子さんのようにヒカルに説明してくれる。
「オレ、普通のでいいんだけど…」
逃げ腰なヒカルに、あかりはなおも迫る。
「普通なんてないの。今はいろんな効果があるたくさんの品物の中から、自分にぴったりのものを選ぶ時代なのっ!」
そう言われても、ヒカルには自分にぴったりの品物なんてわからない。
ヒカルが困っていると、あかりが「これなんかどう?」と、棚の一角を指さした。
品物を手にとり、台紙に書かれたセールストークを読んでみる。
[[しっとりぷるるん あかちゃんのような唇に]]
そして、その下には、
[[摘みたてのストロベリーの香り ほんのりストロベリーレッドに色づきます]]
と、書いてある。
「あ、あかりっ! これ、口紅じゃんか」
ヒカルは、あわてて品物を棚に戻す。
「やーね、ヒカルったら。これは色つきリップっていうの。本物の口紅みたいにべったり色がついたりしないから、メイクしたことがないヒカルでも、そんなに気負わないでつけられると思うよ」
ヒカルのあまりに幼い反応に、あかりは可笑しさをこらえきれずに吹き出した。
「ヒカルって、囲碁の新聞に写真が載ったりするじゃない。少しはおしゃれしてみたら? このあいだの週間碁で、イベントのときの写真見たよ。指導碁会場だったのかな、お客さんの前で塔矢くんと打ってるヒカル、まるっきり男の子みたいだったよ」
その記事ならヒカルも見たし、自分自身もそう感じていた。
アキラに告白めいたこと(めいた…は余計だっ! アキラ談)を聞かされたこともあって、こんな自分のどこがいいんだろうと、真剣に首をかしげたものだ。
にわかにあの露天風呂での一件を思い出し、ヒカルは妙に顔が熱くなるのを感じた。
もともと買うつもりだった定番商品を手にすると、レジのほうへと歩いていく。
「失敗、失敗。でも、ヒカルって、素顔のままでも十分かわいいのよね。……ほんと、くやしいくらい」
あかりはそうつぶやくと、ヒカルのあとを追ったのだった。
そんなこんなで意外にも時間を費やし、ふたりが試写会の会場についたのは、上映開始ぎりぎりの時間だった。
ここまできて、ヒカルは映画の題名すら知らないことに気がついた。
「なあ、あかり。今日見る映画、どんなヤツなんだ?」
「こないだ電話したとき言ったじゃない。ヒカルったら、ちゃんと聞いてなかったのね」
チケットに指定された座席にすわり、あかりはため息をついた。
「『砂漠の花』っていうロマンスものよ。ちょっと昔のアラビアが舞台でね、考古学者のアメリカ人青年が、旅の商人…キャラバンの娘と恋に落ちるっていう、まあ、よくある恋愛映画よね」
「はあ? 恋愛映画? オレ、そんなの興味ねーのに…」
買いこんだばかりのポップコーンを口に放り込みながら、ヒカルは「なーんだ」とがっかりする。せっかく誘ってくれたあかりには悪いが、たぶん寝て過ごすことになるだろう。
「それでね、この監督が撮る映画って、映像がすごくキレイなんだって。ほら、このパンフレットの写真だって…」
あかりがそう言ったところで上映開始のブザーが鳴り、ゆっくりと照明が落とされた。
スクリーンに浮かぶ広大な砂漠。
砂丘の向こうに夕陽が沈み、あたりは夜のとばりに包まれる。
ヒカルにとっても、おだやかな眠りに包まれる時間のはじまりだった。
……はずだった。
映画が終わって照明がつく頃には、ヒカルはカルチャーショックのあまり目がギンギンに冴えまくり、今夜は眠れないかも…と、つぶやいていた。
そんなヒカルのようすを、あかりはただ不思議そうに眺めていたのだった。
<コメント>
ヒカルがカルチャーショックを受けるなんて、どんな映画なんでしょうねえ。←他人事(汗)
だいたい、どこが「リップクリーム」なんだろ。「映画」とか「ドラッグストア」の間違いじゃないのか?
このあと、「苺」「Nonsense」「砂漠の花」と続きます。……あらら、ネタバレっスか?
全国の「スギヤマヒロシ」さん、ごめんなさい。
千葉県が発祥の地だという、某チェーン店をもじってみました(苦笑)。

