012. 苺
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012.
 苺


 あかりと試写会に行った日の翌日。

 ヒカルは、アキラと碁会所で打つ約束をしていたが、それまでまだ少し時間があった。

 ヒカルは再び「スギヤマヒロシ」を訪れていた。

 昨日とおなじリップクリームの陳列棚へと足を向けながら、「別に、見るだけだっていいんだよな。お店の人だって、商品を見てもらわないと、買ってもらえるかわからないんだし」と、正論なんだか自己弁護なんだかわからない言葉を発する。

 目的の品物は、色つきリップ。

 昨日はあかりの手前、恥ずかしくなって逃げ出したけれど、本当はヒカルだって興味があったのだ。

 そこへ追い討ちをかけたのが、映像のマジック。

 昨日見た映画のワンシーンは、あまりにも衝撃的すぎた。

 だが、それとおなじくらい美しかったので、ヒカルの目には好意的に焼きついていたのだ。

 ヒロイン役の女優の唇を彩っていたのは、もっと深い紅色だったけれど。

 髪の色も肌の色も、ヒカルとはまったく違っていたけれど。

 それでも、「ちょっとだけ真似してみても悪くねーかも…なんて、思わねーこともないかもしんない」という、非常に複雑な乙女心が表面化したのだった。





 陳列棚には、あかりに薦められた品物の他にも、いくつかの類似品が並んでいた。

 ストロベリーレッド・グレープワイン・チェリーピンク・ピーチピンク。

 四色展開されているそのシリーズの他にも、別のメーカーの商品がずらり。

    [[パールの質感 スクワラン配合で、ふっくらやわらか]]

    [[天然保湿成分配合 うるおい効果2倍持続(当社比)]]

 書かれている字は読めるが、その意味するところは半分程度も理解できない。





 結局、ヒカルは、昨日手にしたストロベリーレッドの色つきリップを購入することにした。

 レジへと向かう足取りが、少しふわふわする。

 胸がドキドキするのも、気のせいではないだろう。

 代金を支払い、店員から「シールでいいですか?」とたずねられたが、返事もおぼつかない。

 困った店員は、一番小さなレジ袋にそれを入れ、ヒカルに手渡してくれた。





 駅へと向かう道すがら、小さなレジ袋はかさかさと音をたて、その存在を主張する。

 その音がやけに大きく思えて、ヒカルは駅のトイレに駆け込んだ。

 化粧直し専用のスペースに初めて足を踏み入れ、レジ袋のなかから、買ったばかりのリップクリームを取り出す。

 台紙からはずし、キャップを取って、唇に塗る。

 いつもの定番商品とおなじようにすればいいだけなのに、なぜか手がふるえる。

 やっとのことでキャップを取ると、ふわっといい香りが漂った。

 ヒカルは鏡に向かい、リップクリームをそっと唇になじませてみた。

 甘酸っぱい苺の香りに包まれる。

鏡のなかの自分は、少しだけ大人になったように見えた。

「……へ、へえ。ほんとに苺みたいな匂いだ。どうやって作るんだろ、これ。なんかすげーな」

 なんとなく気恥ずかしくて、わざとふざけて言ってみたが、ドキドキはおさまらない。

「やべっ。塔矢もう来てるかも。あいつ、遅れるとうるせーからな」

 ヒカルはリップクリームをポケットにしまい、レジ袋と台紙をリュックに放り込むと、あわててホームへと向かったのだった。





 ヒカルが碁会所の自動ドアをくぐると、アキラが市河に荷物をあずけているところだった。

 ほぼ同時に到着し、これならガミガミ怒られることもないだろうと胸をなでおろす。

カウンターの上に置かれたその荷物が気になって、ちらっと見てみると、それは、さっきまで自分がいたドラッグストアのロゴが入ったレジ袋である。

さすがチェーン店。

アキラの使う駅の近くにも出店しているようだ。

重たそうなその袋の中身はなんだろう。

ヒカルはにわかに興味がわいてきて、アキラにたずねてみた。

「なあ、塔矢。おまえスギヒロで、なに買ったんだ?」

 アキラは「スギヒロ」という略称を知らなかったが、状況から判断して、自分が買った品物についてたずねられていることは理解できた。

「えっ? ああ、シャンプーだよ。それからトリートメント…っていうのかな。シャンプーのあとに使うらしい」

「「らしい?」」

 ヒカルだけでなく、市河も聞き返す。

 アキラのさらさらヘアの秘密は、このシャンプー&トリートメントにあったのかと、こっそりチェックしてみた市河だったが、アキラの言葉からすると、どうやら初めて買ったものであるようだ。

「あんまりたくさんの種類があるものだから、何を買ったらいいのかわからなくて…。店員さんに相談したら、これを薦められたんだ」

 説明するアキラの頬が、なぜか赤く染まっている。

「今まで使ってたヤツでいいじゃん。なんで、わざわざ変えたんだよ」

 不思議そうにたずねるヒカルに、アキラは恥ずかしそうにそっぽを向いて、小さな声で答えた。

「……男として、責任ある行動をしたまでだよ」

「「???」」

 ヒカルも市河も、アキラの言葉の意味するところが、さっぱりわからない。

 アキラがそそくさといつもの席へと歩いていってしまったので、ヒカルはそれ以上つっこまず、アキラのあとについていった。

「……男の…責任?」

 カウンターに残された市河は、中途半端に透けたレジ袋のなかに見える「フケ・かゆみを防ぎ、すこやかな頭皮をつくる」というボトルの文字に、しきりに首をかしげていたのだった。





 いつもの指定席にすわり、いつものように打ち始めたところで、アキラは、いつもとは違う匂いに気がついた。

 甘いような、すっぱいような果物の香り。

 季節にはまだ早い苺の香りだ。

 いったいどこから漂ってくるのか…。

 ヒカルが長考に入ったので、アキラはきょろきょろとあたりを見まわした。

 だが、数人の常連客がいるだけで、とくにかわったところはない。

「おい。どこ見てんだよ。ずいぶん余裕だな」

 ヒカルに言われて盤面に目を戻そうとした瞬間、一段と香りが強くなったように感じ、アキラは視線を泳がせた。

 どうやら、目の前の人物が発信源らしい。

(苺でも食べてきたのかな?)

 なにげなくヒカルの唇に目を向けたアキラは、そのまま固まってしまった。

 ほんのり赤く色づいた唇。

 つややかでみずみずしく、ぷるんとやわらかそうで。

 甘酸っぱい苺の香りを漂わせながら、自分の名前を呼ぶ形に、愛らしく動いている。

「おーい、とーやあぁぁー。塔矢ってばあぁー。おーい。戻ってこーい」

 しきりにヒカルが呼びかけるが、アキラは硬直したまま返事をしない。

 それから5分ほどして、ようやく我にかえったアキラだったが、その頭のなかは、

(進藤とキスしたい進藤とキスしたい進藤とキスしたい進藤とキスしたい進藤とキスしたい)

という欲望でいっぱいで、もう碁を打つどころではない。

 おまけに、下半身に不思議な膨張感を感じ、なんだか自分が自分ではなくなってしまうような気がする。

「ごめん、進藤。今日はこれで失礼するよ」

 アキラは真っ赤になって非礼をわびると、やや前かがみにカウンターへと向かい、あわただしく帰っていってしまった。





「なんなんだよ、あいつ」

 カウンターへ赴き、ヒカルはあきれたような怒ったような口調で、市河に同意を求める。

 だが、市河はくすくすと笑っているばかり。
 アキラの前かがみ歩きを見咎めていたら、笑ってばかりもいられなかっただろうが、幸いなるかな、アキラは無事に逃げおおせていたようだ。

「なに笑ってんだよー」

 不満げにとがらせられたヒカルの唇を、市河はつんっと突っついた。

「進藤くんがあんまりかわいいから、アキラくん、どうしていいのかわからなくなっちゃったのよv

「え///

 市河に触れられて、ヒカルはようやく、自分が色つきリップをつけていたことを思い出した。

 ヒカルは急に恥ずかしくなってうつむいたが、周囲からは、意外にも自分を褒める声があがっていた。

「進藤くんも、やっぱり女の子なんだねえ。見違えちゃったよ」

「馬子にも衣装ってのは本当だな。なかなかいいじゃねーか」

 いつもケンカ口調の北島にまで好意的な言葉をかけられ、ヒカルはよけいに照れくさくなる。

「オ、オレ、もう帰るっ///

 口元を隠すようにして駆け出していくヒカルのうしろ姿を、市河と常連客たちは、微笑ましげに見送ったのだった。





 さて。

 道程の半分以上を前かがみに歩きながら、やっとのことで自宅にたどり着いたアキラは、誰もいないはずの家に灯りがともっていることに気がついた。

(きっと芦原さんが晩ごはんを作りに来てくれたんだろう)

「ただいま」

 玄関をあけると、アキラの予想どおり、台所から芦原が顔を出した。

「おかえり、アキラ。もうすぐできるよ」

「いつもすみません。ボクももう食事のしたくくらい自分でできるから、そんなにしょっちゅう来てくれなくても大丈夫なのに」

 申し訳なさそうに笑顔を作るアキラに、芦原は「いいって、いいって」と手にしたおたまを振りまわす。

「それより、いいものがあるんだ」
 芦原は、あいているほうの手で、ちょいちょいと手招きをした。

「?」

 アキラがきょとんとした顔で台所に入っていくと、芦原はおもむろに冷蔵庫をあけた。

「夕方、先生に荷物が届いてさあ。きっと初物だよね。先生あての頂き物だけど、あとで食べちゃおうなv

 芦原が取り出したのは、大手フルーツパーラーの桐の箱。
 ていねいに箱詰めされた真っ赤な苺が、みずみずしい芳香を放っている。

「#*%×▽&?$!!」

 アキラは再び下半身にえもいわれぬ膨張感をおぼえ、大急ぎで自室へと走っていった。

 もはやパブロフの犬だ。

「あれえ? アキラ、苺嫌いだったっけ?」

 芦原は、まとはずれなことをつぶやいては、首をかしげたのだった。




    <コメント>

第2部では、アキラさんにもヒカルくんにも、すこーしだけオトナの階段をのぼっていただきます。その階段をのぼりきれば、きっとそこには、めくるめく官能の世界が…待ってるといいね(他人事)。

ヒカルが感銘を受けた(?)映画のシーンの詳細は、014.「砂漠の花」で。←さりげなく宣伝

気の毒なウチのアキラさんに朗報! 「アキラはんに、ええ思いをさしたろやないか」とのリクエストが届きました。管理人がリク内容を正しく理解できれば(ここ重要)、近いうちにいいことあるぞ、アキラ!