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館を取り巻く使用人たちがざわめいたのは、当然のことだろう。
何事かと駆けつけてみれば、禁棋令の突然の廃止。
彼らの反応は、さまざまだった。
ただただ驚くばかりの者。
禁棋令の原因や廃止の理由を、あれこれと想像する者。
以前は碁に親しんでいた者も少なくないようで、大きくガッツポーズを決めている姿が、あちこちに見受けられた。
「進藤!」
アキラは喜び勇んで、ヒカルの手を取った…………つもりだったが。
すかっ
アキラの手は宙を掻き、すでにヒカルは、明子に攫われるようにして、回廊に足を踏み出していた。
「さあ、わたくしの部屋へ行きましょう。さっそく囲碁のルールを教えてちょうだい。ヒカルさんは、甘いものはお好きかしら? おいしいお菓子があるのよ」
強引にヒカルを引きずっていく母親の姿に、アキラは軽い眩暈をおぼえた。
「ちょっと待ってください、お母さん!」
アキラはふたりの後を追いかけ、ヒカルの反対側の腕をつかんだ。
「進藤は今、ボクと対局していたんですよ。いきなり連れていかないでください」
「あら、もう石はくずれてしまったじゃない。残念でしたわね。もうアキラさんの番は終わりよ。ヒカルさんは、わたくしが借りていきます」
「いいえ。もう一度並べ直して、そこからまた打てばいいだけのことです。さあ、進藤。さっきの続きを……」
「アキラさんったら強引ね。ヒカルさんは、あなたの侍女なのでしょう? いつでも打てるじゃない。少しのあいだ、わたくしに貸してくださるくらいの鷹揚さはないのかしら」
ああ言えば、こう言う。
暖簾に腕押し、ぬかに釘。
アキラは、自分の脳のどこかで、何かがぶちっと切れる音が聞こえたような気がした。
血管か堪忍袋の緒か、それとも両方だろうか。
いずれにしても、彼のそれらは、わりと容易に切れるらしい。
「進藤は物じゃありません! 貸すとか借りるとか、そんな言葉は使わないでください!」
額に青スジを浮かべ、目を三角形に吊り上げ、口角に泡を飛ばして怒鳴る様子は、対局後の検討シーンと非常に似通っている。
そして。
勢いのまま、続けられた言葉は。
「進藤はただの侍女じゃない。ボクの大切なひとだ。ボクは……進藤が好きなんだ!」
先刻の告白シーンが、衆目環視のなかで再現されたのだった。
しんと静まり返ること十五秒。
十六秒目に、にわかにどよめきが起こったが、ヒカルは、ぽけっと口を半開きにして呆けていた。
たとえるならば、貴人の埋葬品として用いられる焼き物か、豊かな森に棲むという木の霊か。
絵姿を紙に描くならば、目と口は、少しゆがんだ白い丸で表すのが正解だろう。
口の端から魂が飛び出して、天にのぼっていくという比喩も、あながち誇張表現とは言えまい。
「好きだ」というセリフを中心とした、先程よりもストレートな告白に、ヒカルが現実逃避してしまうのも、無理はないだろう。
声量も三倍増し。
ましてや、明子をはじめ、大勢の使用人たちが見ている前とあっては、あまりにも居た堪れない。
そのあたりの空気を読まないのが、塔矢アキラらしいというかなんというか。
彼は、今度こそ、ヒカルに返事を迫ったのだ。
「進藤。キミの返事が聞きたい」
天にのぼりかけた魂が、ようやく戻って来つつあったところに、この追い討ちだ。
ヒカルは、身体中の血が、顔の血管に集まってくるように感じた。
恥ずかしさのあまり、周囲を見回す余裕などなかったが、自分たちを取り巻く人々の様子は、否が応にも視界に入ってしまう。
ニヤニヤ笑いながら、ヒカルの返事を待つ者。
イエスかノーか、賭けを始める者。
羨望のまなざしを向ける女性使用人もあったが、その視線から、今までのような意地悪なものは消えていた。
そして、少し離れたところで、見守るようにヒカルを見つめているのは、あかりと明日美。
(こんなとこで、返事なんかできるかっての!)
ヒカルは耳まで赤くした。
ぎゅっとこぶしを握りしめ、唇をわなわなと震わせて、小さな声でつぶやく。
「…………し……」
「「「「し?」」」」
その場にいるすべての人間の耳目が、ヒカルに集中していた。
ヒカルの声をとらえて、大勢で訊き返す。
「…………し……、し……」
「「「「し~?」」」」
全員が疑問形で復唱するなか、ヒカルは、すーっと、大きく息を吸い込んだ。
「知るか、ボケ~っ!」
大声で叫び、その場から一目散に逃げ出した。
その姿、まさに脱兎のごとし。
だが。
走り去っていく小さな背中は、答えがイエスであることを、言葉よりも雄弁に語っていた。
そして、月日は流れ。
九星堂の社内報の一面を、『塔矢アキラ次期社長婚約』の記事が飾った。
以下は、その引用である。
塔矢アキラ次期社長婚約。お相手は初恋の君・進藤ヒカル嬢。
ヒカル嬢は十八歳。浙江省上虞市出身。
九星堂本店の水汲み係から、次期社長の侍女に大抜擢。
侍女の仕事の傍ら、次期社長とともに、囲碁の研鑚を続けている。
明子社長代理の囲碁指南役も兼任。
まさに当代の『灰姑娘物語』だ。
十年の歳月を超えて再会したふたりは、現在、アツアツ交際中。
この発表に先んじること3週間。
後宮に勤める金子が、明日美からの手紙によって、すでにこの情報を入手していたことは、まったくの蛇足である。
おしまい(?)
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