003. 背中
「うえぇぇぇ。あぢいぃぃぃ…」
対局が終わり、石が戻された後の碁盤に伏せ、ヒカルは呻き声を上げた。
「ごめんなさいね、進藤くん。今朝からエアコンの調子が悪くって。これでも飲んで我慢して。ねっ。……アキラくんも、はいどーぞ」
碁会所の受付嬢・市河晴美が、とりなすように言いながら、盆に乗せたグラスを差し出す。ヒカルのグラスには炭酸飲料、アキラのグラスにはウーロン茶。カラカラという氷のぶつかる音は、確かに涼しげではある。
「わーい、いっただっきまーすv」
冷たい炭酸の刺激で喉を潤し、ヒカルは「ぷはあ」と満足げに目を細めたものの、次の瞬間には再び盤の上に伏せてしまう。そのようすを表す擬音には「ぬよぉぉぉん」と「へにょぉぉぉん」のどちらがふさわしいか悩むところだ。
9月上旬の昼下がり。
暦の上では秋。朝晩の風には少しだけ涼やかな秋の気配が感じられるようになったとはいえ、日中はまだまだ暑い。TVの天気予報でも、当分真夏日が続くと言っていた。
エアコンなしの室内はサウナ状態だ。
朝一番にエアコンの故障に気づいた市河が、あわてて修理依頼の電話をしたものの、同様な依頼が立て込んでおり、明日の午後まで修理に来られないという。
朝から何人も常連客が訪れたが、室内のこもった空気に顔をしかめると、みな一様に「また来るよ」と言って出て行ってしまった。
そのため、今ここにいるのは市河・ヒカル・アキラの3人だけである。
「だらしがないな、進藤。さあ、もう一局打つぞ」
(なんてかわいいんだ、進藤。まるでくたっとしたぬいぐるみのようなそのしぐさ…。でも、いつも騒がしい常連さんたちがいない今日、誰にも邪魔されずに愛の対局を重ねるには、またとない機会なんだよ? ほら、顔を上げて。ふたりの新たな愛の一局を始めよう)
黒石の入った碁笥に手を入れ、早くニギれとばかりにじゃらじゃらと音を立てる。
「……ったく…。おまえは暑くないのかよ」
しぶしぶ白石をつかみ、盤の上に並べながら、ヒカルは不満そうにぼやいた。
「心頭滅却すれば火もまた涼し、というだろう。……今度はボクが白だね」
「? わけのわかんねーこと言ってんじゃねーよ。なんで火が涼しいんだよ。バッカじゃねーの?」
……どちらが、お・ば・か・さ・んvなのか。判断はアキラに任せるとして。
碁笥を交換して挨拶を交わす。
ぱち。
じゃらじゃら…ぱち。
じゃら…。
静かな室内に、石の音だけが響く。
低く単調に。
時に強く。
盤を挟み向かいあう、打ち手だけの世界。
実際、市河は、窓を大きく開けた受付スペースに涼を求めて移動してしまったので、最奥のいつもの指定席は、文字通り、ふたりだけの世界だ。
(愛しの進藤を苦しませるなんて、エアコンのメーカーを訴えてやろうかとも思ったが、この状況はなかなか悪くない…いや、むしろいいかもしれない。ありがとう、ダ○キ○エアコン!)
思いがけず、ふたりっきりvの対局に恵まれ、アキラはこのアクシデントに感謝した。
時間はたっぷりある。まだ何局も打てそうだ。
だが、だらしなく崩れたアキラの相貌は、次の瞬間、ヒカルの一言で固まった。
「わりい。オレ、やっぱ帰る」
「……何?」
デッサンの崩れた表情を2秒ほどかけて修復し、ヒカルの顔を見る。
「敵前逃亡とはいい度胸だ。キミはそれでもプロなのか?」
「だって…。めちゃめちゃあちいんだもん!こんなとこに、いらんねーよ! オレ、帰る!」
「ふざけるな!!」
椅子を引いたヒカルを怒鳴りつけ、ガタッと勢いをつけて立ち上がるアキラ。
お馴染みの光景に、ヒカルのリュックを手にした市河だったが、ふと思いついてふたりのもとへ歩み寄った。
「まーた喧嘩してるの?」
「喧嘩じゃありません、市河さん。対局の途中なのに進藤が帰るなんて言い出すから…」
「だって、こんな暑いとこにいたら、ね…ね…熱なんとか症…になっちまうじゃん!」
「熱中症だろう! そんなことも知らないのか!」
「知ってるに決まってんじゃんか! たまたま出てこなかっただけだよ!」
「嘘をつくな! 先週の金曜だって、TVに出ていた国連の…」
「だあああぁぁぁっ! そんな昔のこと、今さら蒸し返すんじゃねー…」
「あーもう、はいはい。ふたりとも落ち着いて」
市河はふたりのあいだに割って入り、ヒカルのほうへ向きなおった。
「進藤くん。暑い暑いって言うけど、それはそんな格好してるからじゃないの?」
「え?」
市河の言葉に、アキラの視線がヒカルの服に釘付けになる。
白い無地のTシャツに、2番目のボタンまではずしたチェックのシャツを重ね着している。そのシャツは、肘までロールアップされてはいるものの、かなり厚手の長袖だ。
「だって…。碁会所とか電車の中とか、けっこう冷房きいてて寒いじゃん? まさか、ここのエアコンが壊れてるなんて思わなかったんだもん。しょうがねーじゃん」
「バカか、キミは! 脱げ! 今すぐそのシャツを脱ぐんだっ!」
「ぬ…脱げって…/// 塔矢…」
「あ…」
言ったほうと言われたほう、双方真っ赤になってうつむくなか、大人の余裕か、市河がヒカルのシャツのボタンをはずしていく。
「ちょっ…/// いいよ、市河さん。もうオレ帰るし…」
「だーめ。帰るにしても、こんな格好で外を歩いてたら、それこそ、駅に着くまでのあいだに熱中症になっちゃうわよ。はい、腕のばして」
小さなこどもを着替えさせるかのように、するするとヒカルの腕を袖から抜いてしまう。
スポーツブランドのロゴが刺繍してあるTシャツの袖口から、ほっそりと引き締まった白い二の腕が現れた。
「どう? これならそんなに暑くないでしょ?」
市河はヒカルのシャツをハンガーにかけるべく、立ち去ってしまう。
「あ、市河さん! オレのシャツ…」
「その格好なら、まだここで打っていられるでしょ? 急いで帰ることないんじゃない?」
言いながら、ちらりとアキラに視線を泳がせる。
(貸しにしておいてあげるわよ、アキラくん)
市河の真意には気づかないながらも、援護射撃を無駄にするなと、勝負師の勘がアキラに告げる。
「そうだよ、進藤。どうせ外も暑いんだ。夕方になって少しは過ごしやすくなるまで、ここで打っていたほうがいい」
「う…ん。わかったよ、そうする。でも、その前にちょっとタンマな」
横歩きでアキラの前をすり抜け、うしろ向きに歩いてトイレに向かうヒカル。
「?」
アキラにはその理由がわからないが、市河はヒカルの意図するところがわかる位置にいた。
いつもはたっぷりとしたデザインのTシャツを好んで着るヒカルだが、今日は重ね着のため、ぴったりとしたTシャツを着ていたのだ。当然、下着の線も外からわかってしまう。
アキラに背中を見せないように歩くヒカルの可愛らしい乙女心に、市河は微笑みを隠せない。
「どうしたんですか? 市河さん」
「別にv それより、よかったわね、アキラくん。進藤くんが帰らないでいてくれて」
「はい。最近はボクと進藤のスケジュールがなかなか合わなくて、今日は久しぶりにゆっくり打てる日だったんです」
「そう。でも、ごめんなさいね。暑くて集中しにくいんじゃない?」
「大丈夫ですよ。さっきも進藤に言ったけど、心頭滅却すれば…って言うでしょう?」
「進藤くんには通じなかったみたいだけどね」
「そうですね」
くすくすと笑いあうアキラと市河に首をかしげながら、ヒカルが戻ってきた。
「なーに笑ってんだよ。ほら、続き打つぞ」
「続きを打つのはキミだよ。まったく、自分の手番で席を立つなんて…」
夕暮れの色が室内を染めるまで、ふたりは盤を囲み続けた。
ヒカルが怒り出して「帰る!」と立ち上がるまで。
アキラに背中を向けていることに気づかないまま、ずんずんと歩き、シャツとリュックを受け取って、自動ドアを抜けていく。
そのうしろ姿を見送ったアキラが、夕陽のせいでなく頬を染めていたことに気づいたのは、市河だけだった。
<コメント>
ちょっと思春期なふたりを書いてみました。
15歳では、まだまだ色気のある男の背中はしていないだろう、ということでアキラさんは落選。ヒカルくんのブラ透けTシャツ(露骨)をネタにしました。
ウチの市河さんは、幼いふたりを見守るお姉さん…といった役どころです。
次は塔矢門下のアノ人にご登場願う予定です。早く書きたいv

