004. ピンク
9月半ばの水曜日。
自分の手合いのある週ではなかったが、同じ年に入段した友達・和谷義高との待ち合わせのため、ヒカルは棋院に来ていた。
和谷の対局が終わるまで6階の休憩室でごろごろしているつもりだったが、誰かが置き忘れていったらしい雑誌を見つけて、ヒカルは見るともなしに、ぱらぱらとページをめくった。さして興味があるわけではないが、星占いのページで手をとめる。
「……今月の運勢…ふーん、いいじゃん。えーっと、ラッキーカラーは…ピンクぅ?」
「ほう、星占いか」
ふと見上げると、十段と碁聖のタイトル保持者・緒方清次が立っている。
「緒方先生…。こんなとこで何してんの?」
タイトルホルダーを前にしても少しも怯まないこの態度は、近い将来トップ棋士の仲間入りをしようという自信の表れなのか、それとも礼儀知らずなだけなのか。
「向かいの部屋で取材があったのさ。終わって出てきたら、おまえのその目立つ頭が見えたんでな。少しからかってやろうと寄ってみたんだ。ありがたく思え」
言いながら、ヒカルの横に腰をおろす。
「はあ? 間に合ってるんだけど…」
「つれないことを言うな。……今月の運勢…か。おまえの星座はなんだ?」
「……おとめ座」
「くっくっく…。おとめ座か。それはいい。ほう、ラッキーカラーはピンクか」
「どーせおとめ座ってガラじゃねーよ」
自分があまり女性らしくないという自覚はあるのか、ヒカルはぷぅっと頬をふくらませる。
「かまわんだろう? おとめ座生まれの半分は男だ」
「それ、どーゆー意味だよっ」
「気にするな。……おまえ、今月が誕生日なのか?」
「へ? そういえば…来週だ。9月20日。先生、もしかして、なんかくれんの?」
瞳をきらきらさせて、ヒカルは緒方を見つめる。現金なものだ。
「考えておこう。……それより進藤」
「?」
「ジェンダーって知ってるか?」
「じぇんだー?」
「歴史や慣習の中で生まれた性差…男と女の役割みたいなものだ」
緒方はヒカルにもわかるようにと簡潔に話しているが、聡明な読者諸氏には不愉快な説明の仕方かもしれない。
「それって…男が外で働いて、女が家事をする…みたいなこと? 古いなあ、緒方先生。今はそういう時代じゃないじゃん」
「わかってないな、進藤。たとえば、男の子は水色の服、女の子はピンク色の服。そう決められていたら、おまえ納得するのか?」
「それはヤだけど、そんなのありっこないし…」
「無論、女だからピンク色の服を着て着飾らなければならないだとか、しとやかにしなければならないだとか、そんなことにこだわる必要はない。本人の勝手だ。だが、なぜ女流だけの棋戦がある? なぜ棋士の採用に女流枠がある?」
「え…っと…」
「女は弱いだとか、女は男とは同じ棋戦で戦うのは無理だとか、まだまだ、そういうくだらない思想に囚われている古狸も多いということだ。だが、オレはおまえに会って考えが変わった。相手が女だから油断した? 女のくせに二次予選に進んだ? そんな言葉は聞く耳持たん。だから、おまえも上がってこい。オレはおまえと公式戦で戦うのを楽しみにしてるんだぜ」
「そりゃどーも…」
「碁界にはジェンダーが色濃く残っている…負けるなよ」
そう言うと緒方は立ち上がり、「ここは禁煙だからな、長居は無用だ」と言い残して出ていった。
「ふーん。緒方先生って、意外にいい人なんだ…。年取ると、人間がまるくなるって、ホントなんだな」
ヒカルはひどく毒を含んだ表現で、少し緒方を見直したのだった。
緒方の言葉に嘘はなかった。
ヒカルを待っていると言ったことも。
ジェンダーに負けるなと言ったことも。
そして。
からかうために立ち寄ったと言ったことも…。
翌週。
9月19日の午後。
アキラは少なからず緊張した面持ちで、碁会所のいつもの席で棋譜を並べていた。
まもなくやってくるであろうヒカルを待っているのだ。
(明日は進藤の誕生日。ボクより先にひとつ大人になってしまうのは、ちょっぴり悔しいけれど、愛しい進藤の誕生日だもの、やっぱりお祝いしてあげたい。それなのに日本棋院め、こともあろうに進藤の誕生日当日に、ボクに中部総本部で対局させるなんて、いったいどういう了見なんだ)
アキラはびしっと石音を立てて打った。
温厚なアキラは、普段は棋譜を並べるのに、強く石を打ちつけることはない。
周囲の常連客が驚いてこちらをみているのに気がつくと、アキラは意味もなく、まだ並べ始めたばかりの石をくずし始めた。
すべての石を碁笥に戻したところで、足元に置いたかばんにちらりと目をやる。
いつもなら受付に預けるとこるだが、今日は特別だ。
なにせヒカルへのプレゼントが入っているのだから。
(おととい緒方さんに教えられるまでキミの誕生日を知らなかったなんて、ボクは自分が恥ずかしいよ。それでも昨日、一日がかりでデパートを歩き回って、やっと、これだ…っていうプレゼントを見つけたんだ。気に入ってくれるかな…)
かばんを膝にのせ、少しだけファスナーをあけて中をのぞくと、小さな包みが今か今かと出番を待っている。
ガアァァァ
「こんちはー! 塔矢もう来てる?」
自動ドアの開く音とともに、ヒカルの声が飛び込んできた。
アキラはあわててファスナーを閉め、かばんを足元に戻すと、何事もなかったかのようにヒカルに声をかける。
「遅いぞ、進藤!」
(いつ渡そう? 帰り際がベストだけど、いつも進藤は怒って帰ってしまうから、うまく渡せるか甚だ疑問だ。それなら、いっそのこと、今渡してしまおうか…)
アキラが考えあぐねているあいだに、ヒカルは席についていた。
「あ、そうだ。なあ塔矢。ジェンダーって知ってる?」
「え? 何? ジェンダー…?」
プレゼントを渡すタイミングを見計らっているところを急襲され、アキラは思わず聞き返した。
「へええぇぇぇ。おまえ知らなかったんだ。おまえでも知らないことってあるんだな。いいか、ジェンダーってゆーのはな…」
ヒカルは鬼の首でも取ったかのように、得意気に朗々と語り始めた。
もちろん緒方から聞いた話の受け売りに過ぎず、ヒカル自身には含むところは何もないのだが、いつもアキラに教わるばかりのヒカルにとって、めったにないチャンスであるがゆえに、その語り口はいつになく熱い。
平塚らいちょう先生もかくやあらん。
ヒカルが顔を紅潮させて語れば語るほど、アキラの顔は蒼ざめていく。
もちろんアキラがその言葉を知らなかったわけではないし、ヒカルが激しくジェンダーを否定しようとも、ヒカルを愛する気持ちに変化があるわけでもない。
問題は、かばんの中身にあったのだ。
ヒカルへのプレゼント。
うすいピンク色の包装紙に濃いピンク色のリボン。リボンの結び目には、赤い小さな造花があしらってある。
アキラは緒方から、ヒカルの誕生日情報だけでなく、今月のラッキーカラー情報も入手していた。
包装だけでなく、プレゼントの中身も、当然、ラッキーカラーを意識して選んだものである。
ヒカルからこんな話を聞いた後で、どんな顔をしてこれを渡せというのか。
アキラは巨大なハンマーで後頭部を殴られたような思いがした。
「ん? どうかしたのか? 塔矢。なんか顔色わるくねー?」
「なんでもないよ。少し頭痛がするだけだ」
(ごめんなさい、緒方さん。せっかく教えてもらった情報だったけど、無駄になったみたいです…)
「マジ? おまえ、明日名古屋で対局だろ? ムリしないで早く帰れ」
「進藤!? ボクなら平気だよ!」
「いいから、いいから。ムリすんなって」
ヒカルはアキラのかばんをつかむと、たたたっと受付へと駆けていき、自分のリュックを受け取った。
ちょいちょいと手招きしながら、
「ほら、駅まで一緒についてってやるから、早いとこ帰って寝ろ」
と呼びかけた。
「あら、アキラくん、具合悪いの?」
「大丈夫ですかい? 若先生」
市河や常連客にまで心配されて、帰らないわけにいかなくなってしまった。
(なんてことだ。進藤にプレゼントを渡せないばかりか、打つこともできないなんて…)
駅まで歩くふたりっきりの時間も、今日ばかりはアキラの妄想をかきたてることはなかった。
誕生日当日。
ヒカルは緒方からプレゼントをもらった。
「ありがとーっv 開けてみていい?」
ばりばりと豪快に袋を破ると、昔懐かしいキャラクターの小さなマスコットが顔をのぞかせた。
「ピンクパンサーだv ん…と、ここにつけよっと」
ヒカルはそのマスコットをリュックのファスナーに取りつけ、満足そうに揺らして楽しむ。
「ところで進藤。アキラくんからは何かもらったのか?」
「塔矢から? ううん、別に。今日は名古屋に行ってるだろうし、昨日は碁会所で会ったけど、あいつ頭痛いからって打たないで帰っちまったし」
「ほう、アキラくんが頭痛? ……めずらしいな。体調管理には余念がないはずなのに」
「ほんとだよ。せっかくオレがいいこと教えてやったのに」
「いいこと?」
緒方の眼鏡の奥がキラリと怪しい光を放つ。
「ほら。前に先生が言ってたジェンダーってやつ? 塔矢のヤツ、知らないみたいだったから、オレが教えてやったんだ。それなのに、あいつ、急に真っ青になっちまってさ…。今日、ちゃんと名古屋行けたのかな」
「くっくっく…。なるほどな。タイミングはぴったりだったというわけだ」
「何が?」
「いや、なんでもない。こっちの話だ。じゃあな、進藤」
緒方はヒカルの話に満足げにうなづくと、喫煙スペースを求めて踵をかえした。
彼がからかったのはヒカルではない。アキラである。
ヒカルの誕生日とラッキーカラーの情報を流せば、まちがいなく食いついてくる。
そんな緒方の予想は的中した。
そして、ヒカルの性格からして、得たばかりの知識をひけらかすことも容易に想像がついた。
プレゼントを渡した後で、ヒカルからジェンダーの話を聞いて青くなるか。
それとも、渡す前に聞いてしまい、プレゼントを渡せなくなるか。
いずれにしても、緒方にとって楽しい展開になることに、大きな違いはなかった。
緒方が去った後。
ヒカルはピンクパンサーのマスコットを揺らしながらくすくすと笑った。
「緒方先生って、ほんと、ギャグのセンスねーよなー。あんだけジェンダーってヤツについて熱く語ったんだったら、もっと乙女ちっくなものをくれなきゃ、オチがつかないじゃん」
アキラからのプレゼントをもらっていたら、ヒカルは意外に喜んだのかもしれない。
それは、あくまでも「おまえってギャグのセンスあんなー」というレベルの話にすぎないのであろうが。
<コメント>
やっちゃいました、ジェンダー発言。しかもギャグのネタに使ってしまうなんて、熱心に活動していらっしゃる方々からは、お叱りを受けそうです。
このへんのことについては、多目的室のなかで触れていますが、読む・読まないは、お客様ご自身に一存いたします。いろいろな意見があって当然ですので。
途中までオガヒカちっくに展開してみましたが、いかがでした? ヒカルくんには、まだまだ天然さんでいてもらいたいものです。

