005. この手の中に
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005.
 この手の中に



 アキラにとって悪夢のような、ヒカルの誕生日から1週間が過ぎた。

 中国滞在中の両親に留守をまかされたアキラは、純和風建築の自宅の拭き掃除に励んでいた。

 今日の掃除のテーマは「盲点のほこりを一掃しようキャンペーン」である。

 本棚や茶だんすといった日常よく開け閉めするようなところでも、普段あまり使わない物が入っている引き出しの取っ手には、うっすらとほこりがたまっている。


 柱時計の彫刻部分や窓枠もまたしかり。

 閉めっぱなしのふすまの取っ手…こんな5mm程度のヘコミにもほこりがたまるものなのかと、アキラは新たに知った事実に驚きながら、せっせと手を動かしている。




   ぷるるるるる…

 電話の音に、アキラはぞうきんを床に置き、玄関へと向かった。

 さすがに黒電話ではないが、古いタイプのプッシュホン式電話で、発売当時にアキラの母・明子がめずらしがって買い求めたものだ。留守番電話の機能はあるものの、子機の必要性が世間に認識されていなかった頃の製品であり、広い塔矢邸には不便であることこの上ない。

 親機だけしかないのなら、リビングかダイニングにでも置けばいいのに、この家の住人の脳には「電話は玄関」とでもすり込まれているのか、誰も言い出さないまま現在に至っている。

 電話は棋院のイベント課の職員からであった。

 来月中旬のイベント参加への打診である。

 それは、行楽シーズンに温泉地のホテルで行われる2泊3日の大きなイベントで、毎年春と秋の2回開催されている。トッププロと若手プロの公開対局を目玉に、指導碁やセミナーや福引抽選会など、もりだくさんな内容だ。とくに、プロ棋士との会食は、アマチュアの囲碁ファンにとって、魅力的なひとときである。

 もともと、アキラはこのイベントに参加する予定ではなかった。公開対局の打ち手として緒方が、その大盤説明会の司会者として芦原が、同じ塔矢門下から選ばれていることで、アキラの参加は見送られていたのだ。

 だが、指導碁担当の棋士のスケジュールがあわなくなったことで、客寄せにはうってつけのアキラに依頼が来たのである。

10月の…ああ、連休の週ですね。……ええ…はい…。」

 棋院職員の話を聞きながら、アキラは手帳を確認する。

「……あ…。そのイベントの3日目は、ちょっと都合がつきません。私的なことですが、以前から決まっていたことですので…。ですから、せっかくですが…。……ええっ!? なんですって!?

 断りの言葉を口にしようとしていたアキラだったが、受話器の向こうから飛び込んできた重大情報に、思わず声を荒げた。

[[実は、参加できなくなったのは森下先生のところの冴木くんで、公開対局に参加する進藤くんのお目付け役を頼んでいたんだけど。こうなると、進藤くんの保護者として適任なのは…]]

 職員が言い終わる前にそれを遮り、アキラはきっぱりと言い放った。

「……出ます」

[[えっ?]]

「出ます。そのイベント、ぜひ参加させてください…!」

(泊りがけのイベントに出るなんて聞いてないぞ、進藤。どうして黙ってたんだ。遠い空の下で2泊3日も過ごすなんて、心細くないはずがないのに。寂しくないはずがないのに。……バカだな、進藤v ひとつ大人になったからって、ムリしなくていいんだよ? その不安な気持ちを受けとめるためにボクがいるんだから…)
 アキラは耳と肩のあいだに受話器をはさみ、すぐさま手帳のスケジュールを書きなおした。

  
10月○日  自治会リサイクル作戦  9:30 富士見町なかよし公園集合 
  10月×日〜○日  進藤と温泉宿で2泊3日v

[[そうかい? 助かるよ。まあ、進藤くんのお目付け役っていうのは冗談だけど、指導碁と会食だけの簡単な仕事だから、忙しい塔矢くんには断られてもしょうがないと思って、ダメモトで電話したんだよ。いやぁ、ほんとによかった。……詳しいことは、近いうちに資料を送るから。よろしく頼むね]]

「こちらこそ。せいいっぱい努めさせていただきます。進藤のお目付け役…!」




 通話が終わってからも、アキラは受話器を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。

(進藤と一緒に仕事。進藤のお目付け役。しかも進藤と同じ、ホ…ホ…ホテルに泊まるうぅぅーっ!)

 アキラは何を妄想したのか、うろたえて受話器を落としてしまった。

 北斗杯でも同じホテルに宿泊したではないか。

 自宅を合宿所として提供したではないか。


 妄想の世界にトリップしているアキラは、そんな記憶をたぐりよせるのではなく、びよんと伸びたコードをたぐりよせると、おもむろに受話器に頬ずりを始めた。

 先刻までぞうきんを持っていた手でつかんだ、その受話器に…。

(ごめんよ、受話器さん。こんな素敵な知らせを運んできてくれたキミを放り出すなんて、ボクのバカ・バカ・バカ。……ああ、なんだろう、この感じは…。まるで、この手の中に、幸せの青い鳥をつかまえているようだ…)

 その後、受話器にあいた無数の穴にほこりを見つけたアキラは、綿棒で掃除を始めた。
 ヒカルが碁会所へのお誘いの電話をかけてきたとは知らぬまま、「幸せだなあv」と頬ずりをくりかえしながらのその作業は、およそ2時間続いたのだった。

 塔矢アキラ15歳。昇段規定の改正により現在七段のプロ棋士。

 ここが両親不在の自宅であったことこそ、彼にとって何よりの幸せであることに気づくことはなかった。





<コメント>

こんなシリアスなお題なのに、ギャグってしまいました。しかも、やっぱりお題は最後にちょっと出ただけ…。

お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、ここから「010. 旅の宿」まで連作です。