006. 昔話
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006.
 昔話



「なんだよ、まだ話し中かよ…」

 自室のベッドに寝転がり、ヒカルは枕元に携帯電話を放り投げた。

 研究会が中止になったため、アキラを碁会所に誘おうと電話をかけ始めてから、もう2時間近く経つだろうか。
 アキラなら、その回数を「37回だ」と正確に断言するところだが、いかんせん、ヒカルはおおらかに物を数える人間だった。

「もう100回以上かけてんのに、なんでつながんないんだよ…」
 100回以上(あくまでもヒカル的カウント方法)も電話をかけてしまうほど、自分がアキラと対局したいと思っていることを、彼女自身がどうとらえているのか。
 それは、そのようすをしばらく観察することによって、明らかになるかもしれない。



「こんなことなら、和谷たちとカラオケ行けばよかったかな…」


 出かける間際に研究会中止の連絡を受けたヒカルは、その電話口で和谷からカラオケに誘われたが、今日はアキラがずっと家にいると言っていたことを思い出して断ったのだ。
 友達と遊びに行くことよりも、アキラと打つことを、ヒカルが初めて選んだ記念すべき日。
 そういうアニバーサリーなイベントに、奇怪なほどの執着を持ちそうなアキラだが、肝心な時にそれをみすみす逃してしまう。
 つくづく、報われない男である。


 アキラの家の電話がずっと話し中である理由は、今ここでは述べる必要はないだろう。

 ベッドの上でごろんと寝返りをうち、ヒカルが窓の外を眺めると、秋特有の雲が、夕暮れの赤に染まっている。

 この時間ではもう、今日はアキラと打つことはできまい。



「あーあ。つまんねーの。……ったく塔矢のヤツ、誰と長電話してんだよ。あいつが2時間もしゃべるなんて…ありえねーっ。でも、相手が話好きなのかもしれないし。……ま、あいつも、かみなりの話題で1時間ひっぱれるヤツだけどさ」

(1時間じゃないっ! 40分だっ! ……でもキミになら、24時間耐久レクチャーだってできるよv…By塔矢アキラ)
 ごろごろと転がりながら、ヒカルは誰にというわけでなく話し続ける。

 佐為と一緒にいた頃のくせが、まだ抜けきれていないのだ。

「それとも、電話で目隠し碁なんかしてたりして…って、誰とだよっ!」

 あくまでも想像に過ぎないのに、本気で怒鳴ってしまった自分に、ヒカルは苦笑いを浮かべる。

「……ちぇ。なんだよ、塔矢のヤツ。オレとは打たない気かよ」

 ヒカルは少しすねた口調でつぶやきながら、以前、アキラに言った言葉を思い出した。

   おまえとは打たない

「……オレ、ひどいことしちゃったんだな…。……佐為にも…」


 打ちたいと葉瀬中まで押しかけてきたアキラとは打たず、囲碁部の部員と打っていた。

 打ちましょうよと泣きつく佐為を振り払って、他のみんなと打っていた。


 いずれもヒカルの成長のために必要なことではあったけれど、その頃よりも少しだけ大人になったヒカルは、自分の過去の言動を素直に顧みることができるようになっていた。

「佐為は、あかりとか門脇さんとかネット碁の相手とか、誰とでもうれしそうに打ってた。……なんにも知らなかったオレが相手でも…」

「塔矢だってそうだ。初めてあいつんちの碁会所に行った時、あいつはもうプロ並みの力を持ってたのに、どこの誰ともわからない素人ヅラしたオレに『いいよ、ボク打つよ』って言ってくれた」

 自分に大きな影響を与えたふたりの碁打ちの姿が、脳裏に浮かび上がる。




 ベッドの上に投げ出していた手足に力を込め、ヒカルは勢いよく飛び起きた。

「……オレだって! オレだって打つよ! いつでも、誰とでも! もう絶対に断ったりしない! もちろん、オレからもいろんな人に対局を申し込むんだ。それが、オレの選んだ道だから…!」

 一局一局を積み重ね、過去から未来へと碁をつないでいくことが自分の道なのだと、改めて自分に言い聞かせると、ヒカルはベッドを降りてドアを開け、階段へと向かった。


「まずは塔矢だ。急に押しかけてったら、あいつ、怒るかな。……でも、それはしょうがないよな。オレだって、それだけのことしちゃったんだから。葉瀬中の理科室と図書室で、オレは2回も断っちゃったんだから、今日1回だけだったら、あいつが断っても許してやろっと」

 対局拒否の回数に一致を見ないその論述は、ヒカル的ジャイアニズムの先駆けとも言うべきか。

 しかし、断られるのを覚悟の上で押しかけてまで、アキラと打ちたいという心意気は立派である。


 階段を駆け降り、お気に入りのスニーカーを履く。

 靴ひもを結び、履き心地を確かめてから振り返る。



「お母さぁーん。ちょっと出かけてくるぅーっ!」


 玄関のドアに手をかけたところで、母・美津子が台所から顔を出した。

「ヒカル。出かけるんだったら、ケチャップ買ってきてくれない?」

「ケチャップぅ? オレ、今から塔矢んち行くんだけど」

「なに言ってるの! 夏と違って、もうあと1時間もしたら真っ暗よ!」

「えぇぇぇーーーーっ! だってオレ、今すぐ打ちたいんだもん…」

「こんな時間に伺ったら、おうちの人にも迷惑でしょ? 明日になさい!」

 あいつんち誰もいねーもん…という言葉は、言わないほうがいいような気がして、ヒカルは口をとがらせたまま押し黙った。

「ケチャップ買ってきてくれないんなら、別にいいわよ。普通の卵焼きにするから」

「……へ?」

「今日はオムライスにしようと思ってたのよ、あんた好きでしょ? でも、ケチャップがないんじゃしかたないわね。今日は普通の卵焼きね」

「買ってくる!」

 ヒカルは美津子に向かって手を出した。

「ケチャップ買ってくるから、お金! 早く早くー」

 その場で足を踏み鳴らし、上に向けた手を上下に揺らしながら催促する。

 美津子から小銭入れを受け取ると、ヒカルは玄関を飛び出した。

「行ってきまーす!」

「気をつけるのよ! 寄り道しないのよ!」

「大丈夫! 10分で帰る!」



 ヒカルは予告どおり10分後に帰宅し、そのさらに10分後には、美津子特製オムライスを口いっぱいにほおばっていた。


 ヒカルの中で大きく育ち始めていた「塔矢と打ちたい」という気持ちは、今日のところは、オムライスの誘惑の前にあっけなく敗北したのであった。





    <コメント>

シリアスを狙ってみましたが、あえなく撃沈しました。

ジャイアンはご存知ですよね? 「オレの物はオレの物、おまえの物もオレの物」を座右の銘とする、アノ少年です。

ヒカルがオムライス好きv というのはフィクションです。なんとなく、ハンバーグとかカレーとか、そういうおこさまメニューが似合うような気がして。しかも、おつかいに行くのに、ケチャップはお手ごろ。夕飯間際に、りんごと蜂蜜を買いに行かせたんじゃ不自然だし(笑)。