009. 迷走
囲碁セミナー当日。
ヒカルとの待ち合わせ場所である東京駅の「動輪の広場」に、アキラは人待ち顔で立っていた。
彼がここに到着したのは、今から1時間ほど前。にへらv と壊れたその表情を見るかぎり、彼が碁界のプリンスであるとは誰にも想像がつかない。したがって、通行人から奇異な目で見られ続けながら、アキラはその1時間を過ごしていたのだった。
腕時計を確認すると、まもなく約束した時刻になるところだ。
(もうすぐ進藤が来る。進藤と2泊3日v 進藤と新幹線に乗って、進藤とごはんを食べて、進藤とお風呂に行って…。神○川の歌詞みたいにキミを待つ…。……なるほど、この1時間は、お風呂上がりのキミvを待つための予行演習みたいなものなんだね)
……アキラよ、なぜ「○田川」を知っている?
「おはよう、塔矢」
地下鉄の連絡通路から近づいた人影が声をかける。
アキラは壊れた表情を瞬時に修復し、自分より少し背の高いその人影に向きなおった。
「おはようございます、伊角さん」
刺々しい声ながら、とりあえず挨拶をする。
(ボクと進藤のふたりっきりの旅を邪魔するとは、なかなかの度胸だな。今回は、進藤のたってのお願いvだったから、やむなく同行を許したが…。この次はないものと思え)
アキラのあからさまな態度に、伊角は苦笑を隠せない。
余談だが、今回の待ち合わせは、ヒカルと伊角がすでに約束していたところに、アキラが後から加えてもらったものだ。「伊角さんと約束してるからなあ」としぶるヒカルを説得したのは、他でもない伊角である。
伊角がアキラの想いに気づいたのは、つい先日のことだ。
真柴のいつものイヤミ攻撃がヒカルの前髪に及んだ時。
アキラのあまりの激昂に「おや?」と疑問を感じた。
そしてその直後、アキラのギャグとは言い難い言葉を聞くに至って、疑問は確信へと変化を遂げたのだ。
[[キミの前髪は、ボクのネクタイとお揃いだね]]
少し目のふちを染めてつぶやくアキラと、別の意味で真っ赤になったヒカル。
[[おまえのダサダサなネクタイと一緒にすんな! オレのこの髪は、鍾乳洞もびっくりものの、天然記念物なゲージュツ品なんだよっ!]]
棋院の職員には聞こえなかったと答えつつ、伊角はしっかり聞いていたのである。
約束の時刻を10分過ぎた頃、ヒカルが走ってきた。
「お待たせーっ!」
膝に手をつき、息をきらせながら、ヒカルは「ごめん、寝坊した」とわびる。
ひととおりの挨拶をすませたところで、アキラはヒカルの荷物がいつものリュックだけであることに気がついた。
「進藤、そのリュックの中に着替えを入れてきたのか? しわになるぞ」
ジーパンにフードつきのトレーナーにスニーカーといういでたちから、会場に着いてから着替えるつもりなのだろうと、アキラは判断したのだ。
「え? 着替えって言っても、パジャマ代わりのジャージだぜ。しわになったって別にかまわねーよ」
ヒカルの言葉に、アキラと伊角がお互いの服装を確認しあう。
アキラはきっちりとスーツを着込み、伊角は普段着ながら、スーツが入っているのであろうガーメントケースを肩から提げている。
「まさか進藤、その服のままイベントに出るつもりなのか?」
伊角が遠慮がちにたずねると、ヒカルからはあっけらかんとした答えが返ってきた。
「いけない? 去年の春のイベントでも、オレ、こんな感じだったけど。晩メシのあとの指導碁はジャージだったし、お客さんもホテルの浴衣で打ってたぜ」
「その時は指導碁だけだったんだろう? 今回は緒方二冠との公開対局に出るんじゃなかったのか?」
伊角に指摘され、ヒカルは大きな目をさらに大きく見開いた。
「マジ!?」
「……キミのところには、棋院から資料が送られてこなかったのか?」
アキラはあきれた顔でため息をつく。
「ちらっと見たけど、こないだとおんなじホテルだったから、内容もおんなじだと思ってた」
内容はほぼ一緒だが、参加する棋士は毎回違うのだ。役割が変わるのは当然なのだが、ヒカルには思いもよらなかったようだ。
「げえぇぇぇ…。緒方先生と打つのかぁ。やだなぁ」
単純に緒方との対局をイヤがって口をとがらせるヒカルに、アキラは再度ため息をつく。
「やだなぁ…なんて言ってる場合じゃないだろう。キミはその格好で、舞台の上にあがるつもりなのか?」
「やっぱマズいかなぁ」
「まずいと思うよ」
伊角にも断言され、ヒカルはうなだれる。
少しのあいだ考えてから、顔をあげた。
「そっかぁ。……じゃあ、買ってくる。塔矢も伊角さんも、先に行ってて」
そう言うが早いか走り出したヒカルを、アキラがあわてて追いかける。
「……!!! 進藤!? 塔矢!?」
ひとり取り残され、呆然と立ち尽くしていた伊角が我に返った時には、すでに米粒の大きさになったヒカルの姿が、彼の視界から消えていくところだった。アキラはというと、まだ2リットルのペットボトルほどの大きさで、伊角からそう離れていないことが見て取れる。
このままでは、アキラはヒカルを見失ってしまうだろう。
伊角はポケットから携帯電話を取り出すと、送信履歴のリストをひらいて、ヒカルにメールを送った。
「がんばれよ、塔矢」
やっと500ミリのペットボトルサイズにまで小さくなったアキラを応援しながら、伊角はひとり、新幹線の改札口へと向かった。
♪〜♪〜…
背中のリュックから聞こえてくるメロディに、ヒカルは足をとめた。
「メールだ。誰だろ。……あ、伊角さんからだ」
携帯電話のディスプレイを確認し、メールをひらく。
[[件名:先に行く
本文:塔矢がおまえを追っていったから、そこで待っててやれよ。伊角]]
「はあ? 塔矢が追ってきてる? ……あいつ、何やってんだよ。先に行けって言ったのに」
そう言いながらも伊角のメールに従い、ヒカルはその場に留まってアキラを待つことにした。
しかし、2分ほど過ぎたところで、ヒカルはすでにしびれを切らした。
「なんだよ、塔矢のヤツ。もう10分もたつのに、ぜんぜん来ないじゃん」
過去にも述べたが、ヒカルはたいへんおおらかに物を数える人間である。
「どっかですれ違ったのかな。……ま、いっか。先に行こっと」
ヒカルは再び中央通路を疾走し始めた。
あと30秒も待っていれば、息も絶え絶えなアキラがよろよろとやってくるのが目に入ったであろうに。
「し…進藤…」
あと少しというところでヒカルに逃げられてしまったアキラは、
「追ってこいと言ったのは、ボクのほうなのに…」
とつぶやきながら、おかっぱを振り乱して、ヒカルを追い続けたのだった。
ヒカルを見失ってしまったアキラが真っ先に探したのは、駅に直結したデパートの婦人服売り場。
デパートだけあって、ターゲットにしているのは、会社勤めをしている女性や有閑マダムらしい。ヒカルにはまだ少し早いであろうデザインの服が、きらびやかに飾られている。
「ここではなさそうだ…」
念のため、靴売り場も覗いてから、アキラはデパートを後にした。
次に向かったのは、地下街の案内カウンター。
飲食店や雑貨屋、服飾品を扱う店やドラッグストアなど、多くの商店が立ち並ぶショッピング街をやみくもに探しまわるのは得策ではないというのは、この状況のアキラにしてはいい判断だ。
ショップガイドをもらうと、アキラはヒカルが行きそうな店をひとつずつ見てまわった。
だが、ヒカルの姿を見つけることはできない。無常にも時は刻々と過ぎていく。
「どこかで行き違ってしまったのだろうか…」
腕時計をちらりとのぞくと、針はもう正午近いことを示している。
夕刻の集合時間に間に合うためには、もうぎりぎりの時間だ。
アキラはセミナー会場へと向かうべく、改札口へと歩き出した。
(東京駅でゆっくりお昼でも食べてから新幹線に乗るつもりで、早めに待ち合わせたのに…。ボクはどうしてあんなことを言ってしまったんだ)
[[キミはその格好で、舞台の上にあがるつもりなのか]]
酷使のあまり、すでに棒のように重たくなった足を引きずって、肩を落として改札口に向かいながら、アキラは自分の言動を責めた。
(一休禅師の逸話の例もあるのに。どんな袈裟を着ていようと、一休さんは一休さんだ。どんな服を着ていても、進藤は進藤なのに…!)
[[……中央改札口でお待ちです。都内よりお越しの塔矢アキラ様、お連れ様が新幹線中央改札口でお待ちです…]]
「え? ボクの名前…? ……まさか…進藤!?」
どこにそんな力が残っていたのか、アキラは疾風のごとくコンコースを駆け抜けた。
「塔矢!」
改札口の前で、ヒカルが手を振っている。
反対の手には大きな紙袋を提げている。もう買い物は済ませたのだろう。
「しんどおおおぉぉぉぉっ!!!」
アキラは感極まって、ヒカルに抱きついた。
「え。お、おい。塔矢、大丈夫か?」
自分よりかなり上背のあるアキラに全体重で乗りかかられながら、ヒカルはなんとか踏みとどまり、アキラを抱き返した。
アキラが倒れかかってきたように見えたのだ。
「おい、塔矢ってば。大丈夫か?」
ヒカルが再び声をかけると、アキラは慌ててヒカルから身を離した。
「だ、だだだ、大丈夫/// ……それより進藤。なぜボクがキミを追ってきたことがわかったんだ?」
(なんてことだ。進藤に…ああ進藤に抱きついてしまった…v 今日は一生思い出に残るすばらしい日だ。そう、名づけて初抱擁記念日なんてどうだろう)
アキラのネーミングセンスの悪さについては、とりあえずこの場では触れないことにしよう。
「なんでって、伊角さんからメールが来たんだよ。おまえが追っかけてったから待っててやれって。おまえだって、公衆電話から連絡くれればよかったのに。……ってゆーか、おまえもケータイくらい持てよな」
ヒカルは腰に手をあてて、上目遣いにアキラをにらみつけた。
(かわいい…v)
アキラは心の中でヒカルの愛らしさを称えながら、毅然とした態度で言い放った。
「自分の行動を棚にあげておいて、何を言ってるんだ。キミが急に走りだしたりしなければ、こんなことにはならなかったんだぞ。キミのお目付け役を命じられたボクの身にもなってみろ」
「なんだよ、お目付け役って」
「棋院の人から頼まれたんだ。キミが突飛な行動をしないように、しっかり見ていてくれって」
「よけいなお世話だよ、そんなの。だいたい、おまえと伊角さんが、この服じゃマズいって言ったから、わざわざ服と靴買いに行ったんだぜ」
「こんな事態にならないように、しっかりと資料を熟読しておくべきだったんだ。それを怠ったのはキミだろう?」
「資料なんか読んだって、たぶんオレ、このカッコで来たと思うぜ」
「……はあ。それなら、やっぱりお目付け役は必要だよ」
「ちぇ。なんだよ、ったく…」
ホームに向かいながら、ふたりはいつものように口げんかを始める。
先程の一休禅師の話は、どこかに忘れてきてしまったようである。
新幹線に乗り込むやいなや、ヒカルは車内販売の弁当を買い求め、さっそく食べ始めた。
ヒカルが「おまえも食えば」と声をかける前に、アキラはぐっすりと眠り込んでしまっていた。
せっかくのふたり旅を満喫できなかったのは、決してアキラのせいではないが、彼の日頃の運動不足によるところは極めて大きいかもしれない。
<コメント>
伊角さん初登場! アキラに牽制されながらも協力を惜しまない…いいヒトですv
次回はいよいよ「お泊りイベント」です。急進展なるか!? ……って、自分であおりつけてどうする(苦笑)。
「010. 旅の宿」は長くなりそうです。なんせ2泊3日ですから(笑)。途中で切りながらUPします。

