010. 旅の宿(1)
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010.
 旅の宿(1)


 新幹線の駅から送迎バスに揺られること45分。
 車窓からの風に森林の濃い空気がまざる頃、バスは目的地に到着した。

  水明館

 緑の山々と透き通った清流に囲まれた創業
120余年の老舗ホテルである。

 このホテルの一番の特徴は、渓谷美を一望に見おろす「展望露天風呂」だ。湯量豊富なことはもちろん、山肌をけずる急流の野趣あふれるその眺望は、テレビの旅番組などで何度も紹介され、昨今の温泉ブームともあいまって、知名度が高まっている。


 もっとも囲碁ファンのあいだでは、タイトル戦が行われる聖地のひとつとして、古くから知られていた。ここ数年は、日本棋院主催のイベント会場としても、その名を馳せるに至っている。



「塔矢先生、進藤先生。着きましたよ」

 聞き憶えのない声に、アキラがはっとして目をあけると、バスの運転手が自分たちをのぞきこんでいる。となりに座るヒカルも、目をこすりながら運転手のほうをぼーっと見ている。

「え…。あ、あれ?」

 一番うしろの座席を陣取り、ヒカルとふたりで目隠し碁をしていたはずだった。

(上辺の白の模様を黒がケシにきて…。右下隅にもう一手必要だった黒が、先手で中央に連絡したのを、うまいなと感心したところまでは記憶があるんだが…。その後、白は左下のキリを見て……そんなことより! せっかくのふたりっきりの時間を、ボクはまた無駄に過ごしてしまったのかあああぁぁぁっ!)


 東京駅で疲労困憊したアキラは、新幹線でのふたり旅を寝て過ごしてしまっていた。

 その反省を踏まえ、今度こそはと、決意も新たに送迎バスに乗り込んだアキラだったが、身体はかなり休息を欲していたらしい。


 おかげで疲れはすっかり取れたが、代償として払ったものの大きさに、アキラはがっくりとうなだれたのだった。



 チェックインの後は、19時から始まる会食まで特に予定はない。

 ヒカルは、明日の指導碁会場へと、アキラを誘った。

 バスの中での一局を盤に並べ、続きを打つためだ。

 アキラにしても、ヒカルと打つことに否やがあるわけがない。

(本当はホテルの近くをふたりで散歩するのもいいかなって思ってたんだけど…。大丈夫。チャンスはまだある。せっかく進藤が積極的に声をかけてくれたんだ。まずは、さっきの愛の棋譜を完成させなければ。一局打ったあとで散歩に誘おう。夕暮れ時のほうがロマンチックだろうしv



 指導碁会場では、すでに集まりつつある参加客同士が、自由に打ち始めていた。

 ヒカルとアキラが席につくと、周囲はすぐに黒山の人だかりとなった。

 サービス精神旺盛なヒカルがゆっくりと並べるのに倣い、アキラもギャラリーに示すようにていねいに並べていく。

「「お願いします」」

 挨拶を交わしなおし、白石をつまんだところで、アキラは愕然とした。

 先程、バスの中で感心した黒のケシが、実は白の見損じによるものだったことに気がついたのだ。

(あそこでツケずにヒイていれば、その後のサガリは急がない。黒のトビは絶対だから、右下隅にもう一手入れている暇はない。白がオケば、黒が粘ってもコウ…。……こんな大事な局面で眠ってしまうなんて、ボクはそんなに疲れていたのか! もっと身体を鍛えなければ…)


 気を取り直して、アキラは当初からの懸案だった左辺に打ち込んだ。
 左下隅の白地が中央突破するための強攻策だったが、ヒカルの黒はそれを小さくカカエず、あくまでも中央を譲らぬ構えだ。そのまま空中戦に突入した。

 上辺から左上隅にかけての白模様を味方に、アキラは果敢に戦ったが、中央の攻め合いは白が一手たりない。




「……ありません」

 アキラは頭をさげた。

「ありがとうございました」

 ヒカルは石をどけて、先程の白のツケまで盤面を戻した。

「ここで白が後手ひいたので決まっちまってたのかなあ。無理にキラないで、こっちのやっと生きた黒を封鎖してたらどーよ?」

「いや、封鎖できるほど、ここの白は強くない。サバキと中央の戦いの両方に臨むのは、あまりに危険が大きいだろう」

「んじゃ、このどでかい模様に手を入れて、地にするってのは…あ、だめか」

「ああ、一手じゃ守りきれない。この時点で地合で負けてる。……やっぱり、ここでヒカずにツケたのが敗着だった」

 珍しくおだやかに検討がなされ、周囲のギャラリーも感心することしきりだったが、アキラにとっては、睡魔に負けた見損じが敗着とあっては、納得のいく結果ではない。



「もう一局!!」

 アキラはヒカルに再戦を挑んだ。

「よっしゃ、来い!」

 ヒカルも嬉々として受けて立つ。

 参加客にプロの打ち碁を見せているのだから、これも仕事のうちである。

 実際、ギャラリーの数は増え続け、うしろのほうの客は、別の盤に並べて見ているくらいだ。



 やがて。

「お食事の準備が整いました。みなさん、鳳凰の間へいらしてください」

 イベント担当の職員が声をかける。

「お? もうそんな時間? この続きは、また今度な」

 ヒカルはいそいそと石をかたづけ、参加客たちと連れ立って「メシv メシv」と指導碁会場を後にする。

 あわててそのうしろについていきながら、アキラはため息をついた。

「夕暮れ時のロマンチックな渓谷…」


 そのつぶやきはとても小さな声ではあったが、すぐ前を歩いている初老の客には聞こえていたようである。

 ただ、その言葉の意味するところはつかめなかったため、うしろを振り返るには至らなかった。

 もし振り返っていたら、アキラの顔に「後悔してます」と大きく書いてあるのが見えたことだろう。





   <コメント>

はじまりました、2泊3日。それなのに盤面の描写ばっかりでごめんなさい。

一応、仕事で来ているはずなので、碁のシーンを入れてみました。

ちなみに、アキラさんの敗着となったツケは、先日の段位戦でワタクシがやってしまったものです。プロの碁と一緒にしてすみません(汗)。アキラさんにとっては「大ポカ」、ワタクシにとっては「自信満々の一手」だったという扱いで、勘弁してやってください。