010. 旅の宿(3)
館内の案内表示を頼りに、ヒカルは露天風呂をめざしていた。
1階の廊下のつきあたりのドアをあけて外に出ると、ちょっとした和風庭園がひろがっている。
山間部の秋は早い。
さすがに紅葉にはまだ間があるものの、東京のものとは違う冷たい風が、ヒカルの髪のあいだをすり抜けていく。
夜風が木々の匂いを吸って少し湿り気を帯びているのは、山深い土地のせいか、それとも下り坂の天気のせいなのか。
「うひゃぁ。さみー。……雨降んなきゃいいけどな」
ヒカルはジャージの襟を立てて空を見上げた。
都会と違ってよく見えるはずの星が、あいにくひとつも見えない。
襟元をなでる冷えた空気に首をすくめながら見回すと、庭園の向こうに古式ゆかしい湯屋造りの建物が見える。
「あれかぁ。なんか本格的」
ヒカルは中庭に敷かれた玉砂利を鳴らして歩き、露天風呂ののれんをくぐった。
その頃、アキラは湯の中で旅の疲れを癒していた。
大きな岩をかさねて作られた、大人が20人は入れるであろう広い湯船に、ひとりでぽつんと浸かっている。
(進藤…今頃どうしてるかな。指導碁をしているうちに、すっかり遅くなってしまった。ふたりでお風呂に行って、出る時間を待ち合わせる、という壮大な神田川計画がまるつぶれだ。明日こそは綿密に計画を立てて…。……というより、だいたい、ボクは進藤のお目付け役のはずなのに、どうして進藤と一緒にいられないんだ? おかしいじゃないか、日本棋院)
アキラは憤りをはきだすようにため息をつくと、湯から出て、見晴らしのいい東屋の椅子に腰掛けた。
「これは…まさに絶景だな」
深夜に近い時間帯とはいえ、景色が売りの露天風呂だ。転落防止のための安全策もかねているのであろうか。絶妙に計算された配置で外灯が設けられており、山肌を削る急流が眼下に一望できる。
夜の凛と冴えた空気と野趣あふれる眺望に魅了されたアキラは、冷えた身体を湯で温めては東屋へ赴き、再び湯に戻るというお百度参りのような行動を、幾度となくくり返したのだった。
脱衣室に入ったヒカルは、下足入れに誰の靴も入ってないのを見ると、「ラッキー、貸切v」と顔をほころばせた。
籐のかごに衣類を投げ込みながら、壁に貼られた温泉の効能を読む。
「うちみ、ねんざ、胃腸病、婦人病…? ぜんぜんあてはまんねーや。でも、どっか悪くないと入っちゃいけないってわけでもないだろうし。……ん? なんだ、こりゃ」
ヒカルが見つけたのは、レタリング文字の書かれた従業員の手作り風チラシ。何年も前から貼られたままなのであろう、色あせた古い紙が、医師会のお墨付きの効能書きとは反対側の壁に貼ってある。
「……ご利益ばっちり! あなたにも待望のあかちゃんがv 子宝の湯〜? マジかよぉ」
ぷふふと笑いながら、ヒカルはバスタオルを身体に巻きつけた。
「さみーさみー。早く入ろっと」
ヒカルがドアをあけて外に出ると、そこには大きな岩風呂と、外灯のほのかな灯りに照らされた見事な植栽が広がっていた。絶え間なく立ちのぼる湯煙にかすむ竹垣の向こうには、休憩用の東屋の屋根が見える。
佐為の影響で、ヒカルはほんの少しだけではあるが、和の世界の美を理解するに至っていた。
「すげー。わびさびじゃん。幽玄の間の幽玄…って、こーゆーヤツ?」
言語的表現がやや不自由なのが玉に瑕だが、ヒカルはこうした風趣が嫌いではなかった。
「わ〜び〜さ〜び〜♪〜…」
好き勝手に節をつけて歌いながら、ヒカルはバスタオルを岩にかけ、洗い場の檜の椅子に腰掛けた。
湯船に泡が飛ばないようにほどよく離して設けられた洗い場で、少し熱めの湯をかぶり、身体も髪も一度に洗う。年頃の女の子としてどうかと思うような、豪快な洗いっぷりはともかく、寒い戸外にもかかわらず、ちゃんと身体を洗ってから湯に浸かろうという心がけは立派だ。
「うぅーっ、さむっ」
ヒカルは手足をちぢこませながら、岩に囲まれた湯の中にその身をすべり込ませた。
「ふぅ…。あったけーv」
少しずつ温まっていく身体を、広い湯船の中で思いっきりのばす。
「極楽、極楽v 貸切なんて贅沢だよなぁ。イベントのお客さん、男の人ばっかりだったし。ま、そうでなくても、こんな遅い時間だもんな、誰も来ないか」
ヒカルは、自分自身でも思いがけないくらい長い時間、部屋で物思いにふけっていたようだ。
だが今はすっかり上機嫌で、貸切状態の露天風呂を満喫しているのだから、現金なものだ。
露天風呂なので首から上は夜気にさらされてはいるものの、長く湯に浸かっていれば、だんだん熱さを感じてくる。
「あちー。そろそろ出るかな」
湯からあがると、竹垣の先に東屋の屋根が見えた。その奥では、川向こうの山の中腹あたりが外灯によって照らされているようだ。
「……忘れてた。まだ景色見てないじゃん」
ヒカルは岩にかけておいたバスタオルを手に取ると、「なんせ日本一だもんなー」と言いながら、東屋へと近づいていった。
景色を楽しもうと竹垣の脇を抜けて、東屋のほうへ身体の向きを変えたところで、ヒカルは先客がいることに気がついた。
椅子に腰掛けて自分に背を向けているその人物は、湯船と東屋のあいだのお百度参り6往復半を数える塔矢アキラその人だった。
<コメント>
ごめんなさい。また、とんでもないところで切ってしまいました(汗)。
自分が読む側だったら、「なんでこんなとこで切るんじゃ、ぼけーっ!」って怒鳴ってるかも。
こんなヘモい文章なのに、楽しみにしていてくださるみなさまがいらっしゃるというのは、なんだか夢みたいな話ですが、おたよりを鵜呑みにして、がんばって書きます。明日は5週目なので、ヒカ碁スクールはお休みですし(苦笑)。

