010. 旅の宿(4)
ふと人の気配を感じて振り返ったアキラは、そのままの姿勢で固まった。
無理もない。
この場にいるはずのない想い人が、あられもない姿で立っていたのだから。
(な、なな、な…なんだなんだなんだ。これはボクの健気な恋心が見せた幻? それとも、ボクは起きたまま夢を見ているのか? ……夢だとしても、なんて都合のいい夢なんだ…)
アキラはゆっくりと立ちあがり、湯煙の中に浮かぶヒカルのほうへと歩みを進めていった。
(なんでなんでなんで!? なんで塔矢がこんなとこにいるんだ!? ここ、女湯だぞ! もしかして…こいつ、変態!?)
ヒカルは呆然と立ち尽くしていた。
そして、彼が絶対にここにいてはいけない人物であることに気づくと、ヒカルの脳内には「塔矢アキラ=変態」という図式が構築されたが、この窮状への善後策が思い浮かぶことはなかった。
腰のあたりに小さなタオルを巻いただけのアキラが、とろんと夢見るような目をして、そろそろと自分に近づいてくるのを見て、ヒカルはようやく自分がバスタオル1枚しか身につけていないことに思い至る。
それも、貸切状態に油断して、身体の前でバスタオルをかかえているだけのありさまだ。
「!!!!!」
ヒカルはあわててバスタオルで自分の身を隠し、近づいてくるアキラから離れようとあとずさる。
(ば、ばか! こっち来んじゃねーっ! 来るなってばーっ!)
あまりに突然すぎるできごとに、声を出すことも忘れ、ヒカルはひたすら距離をとることに専念する。
「うわあぁっ!!」
ようやくヒカルの口から悲鳴があがったが、それは徐々に近づくふたりの距離に困惑したためのものではなく、水に濡れた岩肌に足をすべらせたことによるものだった。
「……!?」
その声にやっと我に返ったアキラの前には、うしろにひっくり返りそうなヒカルの姿がある。このまま倒れれば、後頭部を強打することは避けられない。
「進藤!!」
火事場のなんとかさながらの勢いで、アキラはヒカルに飛びついた。
めでたくヒカルの身体を抱きとめたものの、勢いがつきすぎて空中を飛んでいる状態だ。無事に着地するのは不可能だろう。
アキラはヒカルの頭をかばい、しっかりと抱きしめて、来たるべき衝撃にそなえた。
ばっしゃーーーーん!!
次の瞬間、派手な水音があがり、ふたりは露天風呂へと飛び込んでいた。
アキラが勢いをつけて飛びついたおかげで、すぐそばにせまっていた湯船の中に落下することができたのだ。
さほど深くはない湯船の中のこと、アキラはすぐに湯から顔を出した。
少し遅れてヒカルも顔を出す。湯を飲んだのか、身体をまるめて、しきりに咳き込んでいる。
「進藤! 大丈夫か!?」
ばしゃばしゃと湯をかきわけ、アキラはヒカルに駆け寄り、けほけほとむせて震えるその背中を軽くさすってやる。
やがて咳がおさまり呼吸も落ち着いたヒカルは、困惑したまなざしでアキラを見つめた。
「……おまえ」
低くこもった声でつぶやいたあと一呼吸おいて、ヒカルは一気にまくしたてた。
「おまえ、なんで女湯にいるんだよっ! この変態! 痴漢! すけべ! エロ河童!!」
「誤解だ、進藤! ボクはちゃんと男湯にいた!」
アキラは男湯のほうを指さして説明した。
「あの竹垣の向こうからは、こちらのようすは見えないようになってるだろう? ボクはちゃんとあっちにいたんだよ」
「じゃあ、なんで今、おまえは女湯に浸かってるんだ?」
「そ、それは、突然キミが東屋に現れたから、夢か幻かって驚いて…。悪気はなかったんだ! ……東屋が共有スペースで、竹垣の裏側は女湯だったなんて、たった今、気がついたんだよ!」
アキラの力説に納得したのかしていないのか、ヒカルは湯の中からバスタオルを拾いあげて身体に巻きつけると、その場に立ちあがった。
「……し、進藤?」
何事かと自分を見あげるアキラを、ヒカルは眉をさげて見つめ返した。
「いくら悪気がなくったって…。どうすんだよ! オレ、あかちゃんできちゃったじゃないか!!」
「え…☆」
「1回じゃできないかも…ってことぐらい、オレだって知ってるよ! ……でもここは、ご利益ばっちりな子宝の湯なんだぞ!」
そう言い放つと、ヒカルは勢いよく湯からあがり、水を吸って重くなったバスタオルからぽたぽたと水滴を振り撒きながら、脱衣室へと走り去っていった。
「こ、子宝の湯…。あかちゃん…って、進藤…」
呆然自失といった表情でヒカルのうしろ姿を見送っていたアキラだったが、やがて、これが緊急事態であると認識するやいなや、大急ぎで男湯の脱衣室へと向かったのだった。
身体を拭くのもそこそこに、アキラは服を身につけて、脱衣室を飛び出した。
いつのまにか降り出した雨に手をかざしながら、あたりのようすをうかがう。中庭の玉砂利を踏み散らす音が聞こえるのに気づき、アキラがそちらに目を向けると、ヒカルがホテルの本館に飛び込んでいくところだった。
アキラは慌ててヒカルを追いかけた。
脳裏に、「あかちゃんできちゃったじゃないか!!」と叫んだヒカルの思いつめた表情がよみがえる。
(進藤…、どうかひとりで悩まないで…!)
ヒカルの部屋をたずねるべく、エレベーターへと向かっていたアキラは、玄関の前で思いがけない人物に出会った。
桑原である。
「誰かと思えば、今度は塔矢の小倅か。こんな時間に何を慌てておる」
同年代の参加客たちと飲みに行っていたのであろうか、ほろ酔い加減の数人の客とともに、ちょうど今、ホテルに戻ってきたところのようだ。
今のアキラには、酔っ払いにつきあっている暇はない。失礼にならない程度に挨拶をかわし、先を急ぐつもりだった。
が、しかし。
「桑原先生! 今度は…とおっしゃいましたが、ボクの他に誰か来たのですか!?」
桑原の言葉に引っかかりを覚えたアキラは、桑原を問いただした。
「おまえさんが来るほんの少し前じゃったかな、進藤の嬢ちゃんが外に飛び出していったわい」
「外へ!?」
「おまえさんたち、喧嘩でもしたのか? 嬢ちゃん、泣いとったぞ」
桑原の言葉に、アキラは瞠目した。
(ボクが進藤を泣かせた…? 北斗杯で進藤を泣かせた高永夏を、簀巻きにして大川に沈めると誓ったこのボクが、進藤を泣かせた…? ボクがあのサンシャイン・スマイルを奪ってしまったのかあぁぁーっ!!)
案山子のように突っ立ったまま微動だにしないアキラの腕をつかむと、桑原はその手をひらかせた。
「何があったかは聞かぬ。……これを持っていくがよい。こんな時間に雨の中、嬢ちゃんをひとりにしておくわけにはいかんじゃろう。あのようす、風呂あがりとみた。風邪などひかねばよいがの」
先刻まで自分が使っていたビニール傘をアキラに握らせると、桑原は参加客たちを従えて、ホテルの中へと消えていった。
「ありがとうございます!」
桑原の背中に一礼すると、アキラはヒカルを追ってホテルを飛び出したのだった。
<コメント>
よいこのみなさんへ
ゆぶねのなかに、タオルをいれてはいけません。
あかちゃんがどうやってうまれてくるのか、このおはなしのなかのヒカルくんは、かんちがいしています。
みなさんは、きょうかしょや、がくじゅつしょなどの、せんもんしょせきをよんで、ただしいちしきをみにつけてください。

