010. 旅の宿(5)
ホテルの前の坂道をくだり、川沿いの通りに出たところで、アキラは途方に暮れた。
ヒカルを追っては来たものの、彼女がどこへ行ったのか、まるであてがないのだ。
右に行けば、居酒屋や土産物屋が並ぶ温泉街。
左に行けば、小さな郵便局とバス停の他には、数キロ先まで何もない。
ヒカルが、深夜まで営業している酔客相手の温泉街にいるのならば、まだいい。イベントに参加している客が、きっとヒカルを見つけて声をかけるだろう。
「……こっちでなければいいのだけれど…」
アキラはヒカルにいてほしくないと思いつつも、街灯もなく車もほとんど通らない真夜中の山道へと向かった。
まもなく日付も変わろうかというこの時間、アキラにとっては、ヒカルが誰もいない暗い道をひとりで歩いていることのほうが恐怖だったのだ。
次第に強くなっていく雨風に、頼りないビニール傘を傾けながら、アキラはガードレールに沿って進んでいった。
暗闇にうっすらと浮かびあがる、錆びたバス停。
三方をトタン板で囲っただけの小さな古い待合室で、ヒカルはベンチに座っていた。
もともとバスの便がよい土地ではない。ましてや、こんな時間にバスが走っていようはずもない。
人っ子ひとり通らないバス停で、ヒカルはただただ困っていた。
「雨やまないなー。……つーか、さっきより激しくなってねー?」
誰に問いかけるわけでもなく、ヒカルはつぶやいた。
露天風呂を出て、ホテルの部屋に戻ろうとしたところで、桑原たちと鉢合わせしたヒカルは、彼らと一緒にエレベーターに乗るのをためらって、外へと逃げ出した。
自分の頬に涙が伝っているのを、彼らに見られたくなかったからである。
玄関の脇で一行が通り過ぎるのを待って、中へ戻ればよかったとヒカルが思い至ったのは、このバス停にたどり着いてしばらくしてからのことであった。
激しくなる雨と風に足止めをくらい、誰もいない深夜のバス停でひとりきりという非日常的な状況下にありながら、ヒカルは少しずつ冷静になり始めていた。
「こんなに冷えると、やっぱ、あかちゃんにはよくないよなー。……さっきはパニクって泣いちゃったけど、オレ、おまえのことを邪魔だと思ったわけじゃないからな」
ヒカルは、自分の腹のあたりに向かって話しかけた。
「いつかは結婚して、こども産むんだーって思ってたわけだし。それがちょっと早くなっただけのことだよな。オレ、いちおー社会人だし、収入あるし。……お父さんがいないぶん、お母さんのオレが2倍も3倍も愛してやるからな」
「お父さん…塔矢アキラっていうんだけど、すっげー碁バカでさ。碁のこと以外、なんにも興味ないって感じ。着てるもんとかもさー、スーツの時は、ちったぁ見られるんだけど…まあ色彩センスは置いとくとしてな。他の服なんか、もうすげーの。ある意味チャレンジャーだね。今時ありえねー髪型しててさ。おかっぱだぜ、おかっぱ。座敷わらしかっつーの」
「体力もなくてさー、そんなにモヤシみたくひょろっとしてるわけじゃないんだけど、ちょっと走っただけで、すぐに息切れしやがんの。完全に運動不足だな、あれは」
「……でも、悪いヤツじゃねーんだよ。おまえのことだって、オレがコケそうになったのを助けようとしてくれたせいなんだ。あいつ、オレにがっつり飛びついて、オレの頭とか押さえつけて、自分が下敷きになろうとして、空中で回転しやがったの。あの運動神経のない塔矢がだぜ? そこまでしてオレをかばってくれたんだ。……それなのに、オレ、あいつのこと変態呼ばわりしちまって、まだお礼も言ってねーや」
「だからさ、お父さんとお母さんが相談してあかちゃんを作ることになったワケじゃねーけど、おまえは堂々と生まれてきていいんだ。お父さんの塔矢が、お母さんのオレを助けようとしてできた、名誉の負傷…じゃなくて、名誉のこどもなんだからな。……まあ、何回一緒に風呂に入っても、あかちゃんができないって悲しんでる夫婦もいるらしいけど、なんせあそこは子宝の湯だからなー。1回でもご利益ばっちりなんだってさ…。……あ、別に、しょうがないとか、運が悪かったとか思ってるんじゃないからな。誤解すんなよ」
ヒカルは1日目の受精卵(ヒカル的知識による)に向かって話しかけているうちに、すっかり母親気分にひたっていた。
そして、父親である(あくまでもヒカル的知識)アキラのことを見直していたのだった。
簡素な郵便局の前を通り過ぎ、アキラはバス停にたどりついた。
待合室に人の気配はない。
「こっちじゃなかったか…」
温泉街へと踵を返そうとした瞬間。
「……ふ…ぇっきし」
小さなくしゃみが聞こえた。
目をこらしてみると、少し先に、反対方向へ向かうバス停がうっすらと見える。
「あそこか!?」
ぱしゃぱしゃと水音を立てて、アキラはもうひとつのバス停へと走った。
「ふぇ…ふぇ…ぇっきし」
「進藤!」
アキラがヒカルの前に立ったのは、2回目のくしゃみとほぼ同時であった。
「と…塔矢!?」
「……やっと見つけた」
先程まで思い浮かべていた人物の登場に、ヒカルは動揺を隠せない。
「な、なんで、ここに…」
「こんな遅い時間に外に出るなんて…。……寒かっただろう、早くホテルに帰ろう」
アキラは質問には答えず、ヒカルを立たせようと腕をのばした。
「!!!」
びくっと肩先を震わせて距離をとるヒカルに少し傷つきながらも、アキラは傘をたたんでヒカルのとなりに腰をおろした。
ふたりのあいだに沈黙が横たわる。
永遠とも、ほんの一瞬とも思われる時間が流れた。
「あ、あのさ」
先に口をひらいたのはヒカルだった。
「さっきはゴメンな。オレのこと助けてくれたのに、変態とか痴漢とか言って。……それから、ありがと。オレがケガしないように、かばってくれて」
めったに聞けないヒカルの殊勝な言葉に、アキラは妄想を炸裂させそうになったが、今はそれどころではないと思い留まった。
「ボクのほうこそゴメン…。とっさのこととはいえ、キミとお風呂に入ってしまって…。あそこが、その…子宝の湯だなんて、知らなかったんだ。本当に軽率だった」
言外に「子宝の湯だと知っていたら助けなかった」と言われたような気がして、ヒカルはいたく傷ついたが、アキラの迷惑になることのほうがいやだった。
「気にすんなって。おまえはコケそうになったオレを助けようとして、しかたなく風呂に落ちただけだ。この子は、オレがひとりで育てる。責任取れなんて言わないから心配すんな」
「責任!? キミとのあいだにできたこどもの親であることを、ボクが責任なんて言葉で済ませると思っているのか!?」
打ち碁の検討中でも見られないほどの激情をもって、アキラはヒカルに問いただした。
「と、塔矢?」
「責任なんてネガティブな言葉で表してもらいたくないな。これは人類の男子にとって、最高の栄誉だ」
アキラは、きっぱりと言い切った。
暗闇に慣れたヒカルの目には、アキラの真摯かつ誇らしげな表情がはっきりと映っている。
「最高の栄誉って…。おまえ、言葉の意味わかってて言ってる?」
「キミに言われるとは心外だな」
「……るせーっ///」
「この際だから、はっきり言っておく。ボクはキミが好きだ。心の底から愛している。愛する人をケガから守ることができ、なおかつ偶然とはいえ自分とのあいだにこどもを宿してもらえたなんて、これほど素晴らしいことがあるだろうか」
アキラは自分の愛を声高に説いた。
それはそれは、聞かされたヒカルが気恥ずかしくなるほど堂々と、朗々と。
「な、なに言ってんだよ、おまえ。オレにあかちゃんができたもんで、頭のネジゆるみすぎて、2・3本飛んだんじゃねー?」
「誤解してもらっては困る。たとえネジが飛んでいようと、キミよりは的確に物事の判断はできるつもりだ」
「おまえ、なにげに失礼だよな。……っつーか、急にそんなこと言われたって、信じらんねーよ。だいたい、おまえ、オレのどこが好きだってんだよ。物好きにもほどがあんだろ」
「物好き? キミのそのくるくると動く大きな魅力的な瞳や、太陽の光を受けて輝く黄金色の前髪や、少し華奢な腕や肩を、愛しいと思うのが物好きだと言うのか? ボクを追いかけて院生になり、プロ棋士になったキミを…ボクを特別だと見てくれるキミを、ボクも特別な目で見てはいけないと言うのか? 碁にしか興味のなかったボクを…」
「ああぁぁー、もういい/// わかったからもう言うな///」
いかにも彼らしい口調で力説するアキラを、ヒカルは照れくさそうにさえぎった。
だが、アキラはなおもヒカルに迫る。
「本当にわかってくれたのか? あいだをかなり端折って要約すると、ボクは、こどもの父親としてキミと一緒に生きていきたいと言っているんだよ?」
「へ…」
「あれは不幸な事故だったと、もしくは親になるには若過ぎると、キミが悲しい決断をしてしまったら…と思うと、ボクはいてもたってもいられなかった。キミの棋士としての生活を考えると、たしかに今は、子をなすべき時ではないかもしれない。それでも、ボクは産んでほしいと思った。ボクとふたりで親としての道も、棋士としての道も、一緒に歩いてほしいと願った。……さっき、軽率だったと言ったのは、キミの将来の生活設計についての考えを一度もきいたことがなかった怠惰な自分を反省しての言葉だ」
「へ…」
「今こそキミに問おう。進藤、キミは…」
「へ…ふぇっくしょん!」
生涯の伴侶としてボクを選んでくれるだろうか、という言葉は、ヒカルのくしゃみによってさえぎられた。
アキラはにわかに現実の世界に立ち戻り、ヒカルの腕をつかんでベンチから立たせた。
「いつまでもこんな寒いところにいたら、風邪をひいてしまう。おなかのこどもにもよくない。さあ、早くホテルに帰ろう」
アキラはビニール傘をひろげて、ヒカルにさしかけた。
(長いこと話ひっぱってたのは、どこの誰だよ)
ヒカルは心の中で悪態をつきながらも、3分の2以上が自分に差し出された傘に、おとなしくおさまった。
少し雨脚の弱まった山道を、ゆっくりと歩いていく。
途中ですれ違った車のライトに照らされて、透明のビニール部分に、油性ペンで大きく書かれた「水明館」の鏡文字が浮かびあがる。
ヒカルの書く字とどちらが前衛的かなと、アキラは無遠慮なことを考えながら歩みを進めた。そうでもしないと、先刻の大告白の余韻で飛び出してしまいそうな心臓を抑えることができそうになかったからだ。
念願の相合傘を存分に堪能することがかなわぬうちに、ホテルの玄関はすぐそこへと近づいていた。
<コメント>
よいこのみなさんへ
あかちゃんがどうやってうまれてくるのか、アキラさんも、かんちがいしています。
みなさんは、きょうかしょや、がくじゅつしょなどの……以下自粛。
それにしても長いですね、まだイベント第1日目ですよ。まあ、このあとは、さらっと進みそうですが。
1月中に終えるはずだったのに、おかしいなあ(汗)。

