010. 旅の宿(6)
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010.
 旅の宿(6)



 ホテルのフロントで傘を返し、アキラとヒカルがエレベーターに乗ったのは、日付が変わってまもなくのことだった。

 エレベーターがヒカルの部屋の階でとまると、アキラは「開」ボタンを押してヒカルを見送った。

「こんな時間だけど、部屋のバスルームにお湯をはって、ちゃんとあたたまるんだよ」

「お、おう」

 ヒカルは、どことなくぎこちない動きでアキラに手を振り、深夜の静まり返った廊下を歩いていく。

 カードキーを差し込んで、ドアノブに手をかける。

 なにげなくエレベーターのほうを振り返ると、アキラが身を乗り出してこちらを見ているのが見える。

 ヒカルが無事に部屋に入るのを見届けたい気持ちと、女性の部屋の前をうろついていい時間帯ではないことに配慮する良識が、葛藤しているのであろう。

 そんなアキラの思いを理解するには至らないまでも、男性棋士の部屋が自分の部屋より下の階にあることを思い出したヒカルは、顔を赤らめながら勢いよく部屋に駆け込んだ。



「ふうぅ…。なんか恥ずかしい…」

 身体は冷えきっているのに、なぜか顔だけが熱いように感じて、ヒカルはてのひらで頬をおおった。

「相合傘の時も余裕そうにしてやがったし、今だって、フェニ…フェミなんとかストっぽく、オレの部屋の階まで送りに来やがるし…。急に女扱いすんなってんだ。こっちは慣れてねーんだから」

 ヒカルは、アキラの心臓がバクバク状態であったことを知らない。

 悪態をつきながら、キーをテーブルの上に置き、バスルームに向かう。

 アキラに言われたからではないが、もう一度湯に浸かって、身体をあたためたかった。

 シャワーを使い、バスタブに湯をはる。

 客室の狭いユニットバスのこと、ほんの数分でいっぱいになるだろう。シャワーの湯気で室内は十分にあたたかい。

 それでも、ヒカルは念のためと称して、備え付けのバスタオルをかぶって待った。

「あかちゃんが生まれてくるまで、オレ、薬とか飲めないもんなあ。風邪ひかないようにしなくちゃ。風邪そのものも、あかちゃんによくないかもしれないし」

 適度に湯がたまったのを見計らって、ヒカルは静かにバスタブに身を沈めた。

 肩や腕に湯をかけつつ、ヒカルはアキラの言葉を思い出していた。

「あいつ、オレのこと好きだって言ってたけど……ホントかな」


「どこが好きとか、むちゃくちゃ恥ずかしいこと、いろいろ言ってたけど、やっぱ信じらんねーよな。ふつー、もっとかわいい子のほうがいいって」


「それとも、あいつ、キワモノ好き? ……って、なんだよ、それ」

「……っつーか、オレはどうなんだろ。あいつのこと好きか?」

 突然のできごとの連続で、ヒカルは自分がアキラのことをどう思っているのか、自覚することすら忘れていた。

「好きか嫌いか…っつったら、好きだな。どこが好きかって話になると、かなりビミョーだけど。……うーん。あいつの碁に対する姿勢はソンケーに値するな。そんなすげーヤツが、オレをライバルだって認めてくれたのはうれしい。でも、それとレンアイカンジョウーってのと、関係あんのか? ……ねーよな」

「……と、ゆーことは、オレは塔矢のことは好きだけど、愛してないってことになるわけだな、うん」

 オレと塔矢はライバル、という結論に達する一歩手前で、ヒカルはめずらしく前向きで建設的な疑問を持った。


「じゃあ、将来は? いつか、塔矢のこと愛するようになるのかな?」


 ヒカルは指で水鉄砲を作り、ぴゅんぴゅんと湯を飛ばしながら考えた。


「………………わかんねーや」



 ヒカルは湯からあがり、ドライヤーで髪をかわかすと、ベッドの上に用意されていた浴衣に袖を通した。さすがに、雨で濡れたジャージを着るわけにはいかない。

 ナイトテーブルに備わっているアラームをセットし、ほかほかになった身体をベッドに横たえると、にわかに眠気がおそってきた。

「……あかちゃんが生まれてくるまでのあいだに、塔矢を愛するようになってたらいいな。これって、努力すべきことなのかな。それとも、自然にそうなるべきことなのかな」

 ヒカルはもぞもぞと布団にもぐり込むと、2分もしないうちに静かな寝息をたてはじめるのだった。



 翌朝。
 東京駅の地下街で買ったばかりのスーツに身を包み、ヒカルは食事を摂るため、鳳凰の間にやってきた。

 焼き魚や味噌汁のにおいに混じって、こんがりと焼けたパンやハムのにおいが、廊下にまで漂っている。

 朝食はビュッフェ形式で座席も自由だ。

 昨夜の会食で棋士と同席できなかった客たちは、ここぞとばかりに相席を願い出ている。

 だが、ヒカルの座るテーブルには、誰も近づいてこなかった。

 ヒカルが嫌われている、というわけではない。

 大きな白い襟のついたこげ茶色のワンピースを着た姿に、彼女が今日の公開対局の対局者であることを思い出し、集中を妨げてはいけないと気を使ってのことである。

 ちなみに、この服をヒカルが選んだ理由は、着慣れた葉瀬中学校の制服に似ているため、あまり抵抗なくスカートが着られそうだったからなのだが、これは余談。



 少し遅れて鳳凰の間にやってきたアキラは、ヒカルのワンピース姿を見て、一気に妄想を炸裂させた。

(しんどおおおぉぉぉっv まるで秋の野に咲く一輪の小菊のようだ。ああ、マイ・フラワー・エンジェル。その可憐な姿をボクだけの心のアルバムに閉じ込めてしまいたいよ。こげ茶色の服に、キミのその黄金色の前髪がよく映えて…。白い襟よりもなお白いキミの頬、なんて儚げなんだ………って、あれ? 白い? おかしい。なにか変だ)

 アキラはヒカルのもとへと猛ダッシュをかけた。

「おはよ、塔矢」

「おはよう、進藤。ゆうべはよく眠れた?」

 なにげなく挨拶をかわしながら、アキラはヒカルの様子を観察した。

 テーブルの上には、レモン風味の炭酸飲料とフルーツサラダ。半分かじっただけのロールパンが、隅のほうに追いやられている。

 棋士になってインドアな生活を送っているせいか、かつての小麦色の肌は白く変化してはいたが、朱を刷いたような健康的な美しさがあった。

 だが、今日のヒカルは土気色に近い顔色で、食欲もないようだ。

(つわり…かな)

 アキラは乏しい知識の中から、ひとつの予想を導き出した。

「顔色があまりよくないな。どこか…具合でも悪いのか?」

 アキラは慎重に言葉を選んでたずねた。

「ん…。ちょっとおなかが痛いけど…。大丈夫だよ」

 ヒカルは大丈夫だと答えるが、アキラにとってはそれどころではない。

(おなかが痛い!? 大変だ! 万が一のことがあったら…!)

「進藤。今日の公開対局、休んだらどうだ」

「へ? なに大袈裟なこと言ってんだよ。……そりゃあ、緒方先生との対局は、ちょっとヤだけどさぁ」

「大袈裟なんかじゃないだろう! もしものことがあったらどうするんだ。具合の悪い時は、しっかり休養する。これも棋士の体調管理のひとつだ。ましてや、キミは今…」

「ああ、もう。平気だってば。……病気じゃないんだから。おまえ、心配しすぎ」

 ヒカルは席を立ち、食器を下げようと手に取る。

「そんなこと、ボクがやるから!」

 ひったくるようにヒカルから食器をうばい、アキラは下膳所を探す。

 ここはホテルなのだから、当然そんな場所などない。


 近くにいた係員が「わたくしどもがいたします」と、アキラの手から食器を取り上げていった。



「おまえもメシ食えよ!」

 ヒカルはそう言い残して、鳳凰の間を後にした。

 アキラはしかたなく、焼き魚と味噌汁とごはんをトレーに乗せて、テーブルについた。

 一部始終を見ていた客たちは、そのワケアリな雰囲気に近寄り難いものを感じ、人気若手棋士とお近づきになる機会を逸したのであった。




   <コメント>

長くなってしまったので、ここで切りました。

同時にUPしておりますので、よろしかったら続きをどーぞ(笑)。