021. ペットフード
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021.
 ペットフード



 特異日というものがある。

 毎年、特定の天気が表れやすい日を示す言葉だ。

 科学的根拠は何もなく、ただ統計的に、そう言われているだけの話なのだが、例えば1010日は確かに晴れやすいという印象がある。

 1月にも、特異日というべき日が存在する。

 ただ、それは、何月何日という日付で表現されるものではなく、ある行事の日を示しているところが変わっている。

 成人の日である。

 当事者にとっては人生の晴れの日であるが、得てして荒天に見舞われがちである。



 さて。

 その成人の日の午後である。

 多分にもれず、やはり冷たい大粒の雨が降っている。

 ここに、緒方精次という名の棋士がいる。

 どこにと訊かれれば、彼の行きつけの熱帯魚専門店にと答えよう。

 荒天のなか、なぜ、彼はわざわざ愛車を濡らしてまで買い物に出かけてきたのか。

 その理由のひとつは、当然、彼の愛するかわいいおさかなちゃんたちのお食事を購入するために他ならない。

 そして、もうひとつの理由は、棋院の事務室に赴いて、来週の予定変更をかけあうためである。

 緒方は、買い求めたばかりの熱帯魚用ドライフードの箱を、内ポケットにしまうと、ジャケットのうえから、愛しげに軽くポンと叩いた。

 そして、その身を愛車のシートに沈め、キーを回した。

 心地よい振動のなか、ミラーをあわせ、ベルトをしめる。

 カスタムメイドの少し太めなマフラーからは、低めの排気音。

 先刻、熱帯魚フードをしまったのとおなじ内ポケットから、愛飲の煙草とライターを取り出し、紫煙をくゆらせる。

 再び、もとのポケットにそれをしまうと、換気のために、少しだけウィンドーをあける。

 ドライビングには、決してお誂え向きの天気ではないながらも、緒方は機嫌よくミッションレバーを切り替え、ここからさほど離れていない日本棋院会館へと、ステアリングを切ったのだった。






 玄関前の狭いスペースに、堂々と駐車できるのは、タイトルホルダーならではの特権だ。

 二重ドアの前の喫煙所には、よく見知った顔があった。

 進藤ヒカル二段である。

 院生時代からの友人と、他愛ない話題で盛り上がっているようだ。

 なかには、少し年かさな喫煙者も混じっているようで、そのために、喫煙所を歓談場所に選んだらしい。

 屋外とはいえ、2階から上の部分が張り出して、屋根のようになっているので、雨に濡れる心配はない。

 別段、彼女に用事があるわけではないが、全館禁煙の職場に入る前の習慣として、緒方は灰皿へと近づいた。



「あれえ。緒方せんせーじゃん。こんな時間に重役出勤?」

 タイトルホルダーは違うねえ…と、冗談をとばすヒカルに、そばにいた友人たちは冷や汗をぬぐった。

 だが、当の本人である緒方は、ヒカルの言葉が嫌味ではなく、ただの冗談であることを理解していたので、気にすることもなく、鼻で笑い飛ばし、さらに歩を進めた。

「「「「こんにちは」」」」

 緊張した面持ちで頭を下げる後進の態度も、決して嫌いではないが、なんとなく面白みがない。

 その点、このひよこ頭の女流棋士は一味違う。

 長年、からかいの対象であった人物とは、距離を置きたくなるような出来事が続く昨今、緒方のターゲットは、ヒカルへとシフトしていた。

 今日は、どうやって楽しませてもらおうかと、緒方はヒカルの服装や持ち物をチェックした。

 すると。

   きらりん☆

 光ったのは、緒方の眼鏡のフレームか。
  それとも……。



「なんだ、進藤。ずいぶんと色気を出したじゃないか。ん?」

 緒方は、ヒカルの耳に煌く金色の球体を見つけると、すぐさま話題にした。

 流行のメンズライクなファッションにはうるさいながらも、女性用の装身具に興味を持つタイプには見えない少女が、明らかに18Kとおぼしき色合いのピアスをつけているのだから、きっと、ウラに何かあるはずだ。

 そして、それは、さぞかし自分を楽しませてくれるに違いない。

 緒方は、自分の勘の良さを確信していた。

 だが、返ってきた答えは。

「ああ、コレ? まだ慣れなくて、どっかに引っかけちゃいそうで、なんか怖いんだよなあ」

 頬を赤らめるでもなく、返事にまごつくでもなく。
 まったくもって、自然体だ。

(俺の読み違いだったか? ……いや。そんなハズはないっ!)

 己の勝負師としてのプライドに賭けても、ヒカルを動じさせなければ、気が済まないらしい。
 ヒカルにとっては、甚だ迷惑な話だ。

「そんなに気を遣ってまで、つけたいのか? いったい誰からのプレゼントなんだろうな」
 言外に、アキラくんからのプレゼントだろう?と、匂わせ、緒方は心のなかで「勝った!」と、拳を握った。

 だが、しかし。

「違うよ〜。自分で買ったんだ。最初は、消毒しやすいように、デザインの凝ってない18Kのヤツじゃないとダメなんだってさ。あーあ。早くシルバーとかのカッコいい系に、つけかえたいよ」
 指先でピアスにさわり、「コレって、やっぱ、『穴あけたばっかしです』っぽくて、恥ずかしいよな〜」と、つけ加える。

 くちびるをとがらせて不満を言うヒカルのどこにも、つけいる隙はなさそうだ。

 緒方、敗北の瞬間である。



 先の見えた勝負を、いつまでも続ける緒方ではない。
 正直な感想を述べ、敵を賞賛する時が来たと悟ったらしい。

「いや、悪くないぞ。おまえのその前髪には、シルバーよりも、ゴールドのほうが似合うだろう。オレンジやピンクの宝石のついたゴールドのピアスも、よく似合うだろうな」
 そう言うと、緒方は内ポケットを探った。

  かあああぁぁぁっ///

 もしも、顔色の変化に音が付随したならば、きっと、こんな音がしただろう。
 ヒカルの頬は、みるみるうちに、真っ赤に染まっていったのだ。

 だが、しかし。

「ぶわっはっはっはっは」
 次の瞬間、ヒカルは笑い転げていた。

「くすくすくす…」
「くくくっ」
「ぷはっ」
 他の面々も、笑いをこらえるようにして、うつむいている。

「?」
 何がなんだか、さっぱりわからない緒方は、ポケットから取り出した箱を、慣れた手つきであけようとした。
 だが、あかない。

「なんだ? …………うをっ!?」

 そう。
 緒方が手にしていたのは、熱帯魚の餌。
 形といい大きさといい、煙草の箱と取り違えるのも無理はない。

 ただ、渋くキメた緒方の手のなかに、冗談を意味する英単語のロゴではなく、色とりどりの魚の写真が見え隠れしているという違いがあるだけで……。






 ヒカルが真っ赤になった理由を、笑い転げたせいだと誤解したまま、緒方は建物のなかに入っていった。
 吸い貯めの一服もしないまま……。



 なぜ、ピアスホールをあける気になったのか。
 その質問さえしていれば、今日の勝負は緒方の勝ちだったのに。

 黒番数十手で中押し負けしたような表情で、緒方は足早にエレベーターへと向かった。

 そして、胸中で、「スケープゴートは、おまえだ。進藤」と、つぶやくのだった。




    <コメント>

 おがたん愛飲の煙草の銘柄、「ひばり」なのかな、「冗談」なのかな。

 ヒカ碁で「ペットフード」って言ったら、「熱帯魚の餌」ですよね? ね? ね?

 次からは、雪景色の湯けむり旅情ですよ〜♪

 ……残暑厳しき折に、何を書いてるんだか。