022. 羊 緒方をネタに、さんざん笑い転げた日の夜。 ヒカルは、棋院のイベント担当職員からの電話を受けた。 「それじゃあ、進藤くん。そういうことで、よろしくね」 そういうこととは、どういうことか。 簡潔に述べると。 緒方のかわりに、イベントに出てほしいという依頼だった。 タイトルホルダーの代役など荷が重過ぎると、ヒカルはもっともらしく辞退したが、「緒方先生からのご指名なんだよ」という職員の言葉を聞かされては、逃げられるはずもない。 だが、そのイベントの前日、ヒカルは、中部総本部で手合いの予定が入っている。 自宅へ戻らず、直接、イベント会場に向かうことになりそうだ。 ヒカルは、「あーあ。すげー大荷物になりそー…」と、ぼやきながら、出張の準備を始めるのだった。 聡明なる読者諸氏は、もうおわかりだろう。 1月といえば、緒方の誕生日だ。 クリスマスイブには、とんだ災難に見舞われた緒方だったが、あれから半月ほど経った今、彼は、新たなる恋人との蜜月な関係に、浮かれまくっているらしい。←芦原・談 今、緒方にとって最優先事項は、新しい恋人と、アニバーサリーな夜を楽しむこと。 棋戦以外の仕事は二の次だ。 気持ちはわからないこともないが、わがままなタイトルホルダーである。 ただ、ひとつ、注釈を設ける必要がある。 実は、その囲碁イベントは、緒方の誕生日とかさなってはいない。 誕生日の前日には、イベントは最終日を迎えるので、恋人との甘い夜には、なんの影響もないはずなのだ。 ……スケジュール的には。 こまかいことは、追々明らかになるだろう。 今は、まず、話を先に進めよう。 囲碁イベント前日の夜。 中部総本部での対局で勝利をおさめたヒカルは、気分上々で会場へと移動していた。 名古屋から、特急と在来線を乗り継いでいくうちに、車窓からの景色は、少しずつ白くなっていく。 近くにはスキー場もあるというその温泉地が、今回のイベント会場なのである。 最寄駅から送迎バスで旅館へと向かう道すがら、除雪された雪が、道路の脇に壁のように高く積まれているのを見て、ヒカルは、軽く歓声をあげた。 「うひょ〜。すっげー。豚の角煮みてえ♪」 確かに、ヒカルの言う通り、雪の壁は、少し茶色く汚れた部分と真っ白な部分が、層をなしてはいるが、せっかくの雪景色を描写するには、少々不適切と言わざるを得まい。 幸い、バスはヒカルの貸切状態であったため、聞きとがめる者はなかった。 東京からも、新幹線で2時間程度でアクセスできる場所であるため、多くの参加棋士たちは、明日の朝、到着することになっているのだ。 旅館に到着したヒカルは、先発隊の数人の職員と夕食を済ませると、そのまま部屋へと向かった。 対局と移動の連続で、さすがのヒカルも、お疲れモードらしい。 あてがわれた部屋は和室で、すでに布団が敷かれていた。 布団は一組だけだ。 先輩の女性棋士・桜野と同室の予定だが、彼女も、明朝、到着の予定だ。 ヒカルは布団のうえにダイブすると、イベントの詳細が書かれた小冊子を、パラパラとめくり始めた。 秋のイベントの際に、アキラから小言をくらったので、少しは学習したらしい。 参加棋士名一覧には、タイトルホルダーやら、タイトルリーグ常連やらの面々ばかり。 しいて挙げるなら、アキラと桜野だけは、ヒカルにとって近しい人物であるが、アキラも本因坊リーグを経験しているし、桜野も女流棋戦の挑戦者に名を挙げている。 最初から、自分が選ばれていたのならば、光栄に思ったかもしれない。 だが、今回は、あくまでも緒方の代役なのだ。 「ちぇ。オレだけ、ただの二段かよ」 ヒカルは、少し卑屈な気分になってしまった。 対局相手が誰であっても、最初から負けるつもりで打つヒカルではない。 それでも、世間の評価を思い、ちょっとスネてしまうのは、しかたのないことなのだろう。 ヒカルは、小冊子をめくり、タイムスケジュールを確認した。 「なになに。……はあ? 1000面打ち〜?」 会場の見取り図つきのページによると、地元の小学校の体育館に机を並べ、1000人の参加客を相手に指導碁をするのが、今回のイベントの目玉であるらしい。 参加棋士の数は25名。 つまり、棋士ひとりあたり、40人を同時に相手にするということになる。 ずら〜っと並んだ碁盤の前を、棋士がゆっくりと歩きながら、ノータイムで打っている……。 そんな写真が、初心者向けの囲碁雑誌の記事に載っていたのを、ヒカルは思い出した。 多くの棋士を輩出した囲碁道場のある街での囲碁祭りの風景。 だが、あの記事には「500面打ち」と書いてあったはずだ。 今回は、さらにその上をいく1000面打ち。 明らかに、記録に挑戦といったお祭り感覚だ。 現に、このイベントが、地元の雪祭りと市制50周年記念行事の一環として、位置づけられているのは事実である。 40人を同時に相手にする多面打ちが、尋常な指導碁になるわけががない。 参加客は、有名棋士と打ってもらうという思い出作りのために、ミーハーな気持ちでやってくるのだろう。 自分の受け持ちになってしまう参加客たちの不満気な表情を思い、ヒカルは、さらにいじけた気分に陥ってしまったのだった。 そして、せっかくの温泉宿だというのに、ヒカルは、そのまま寝入ってしまった。 翌朝、職員からのモーニングコールで飛び起きたヒカルは、あわてて顔を洗い、スーツに着替えた。 本来ならば、目が覚めてから部屋を出るまでの所要時間は、15分程度で十分なヒカルだが、今は少し余計に時間がかかる。 1週間ほど前にあけたばかりのピアスホールの消毒のためである。 ヒカルは、すべての身支度を整えたあとで、神妙な面持ちで鏡に向かった。 まるで、対局前のような真剣な表情だ。 まずは、きれいに洗った手でピアスキャッチをゆるめる。 そして、持参した消毒液を綿棒の先につけ、ピアスホールのまわりに、ちょんちょんとつける。 最後に、もう一度、キャッチをもとの位置に戻して、消毒作業は完了である。 「ふう〜っ」 詰めていた息を吐くと、ヒカルは鏡を覗き込んだ。 サイドの髪のあいだに、金色の光が見え隠れしている。 イベントには、これくらいのおしゃれは必要かもしれないな、と、ヒカルはまんざらでもないようすで微笑んだ。 「今日は、塔矢のヤツも来るんだよな。へへん。これでもう、あんな恨みがましい目で見られずに済むぜ。ざまあみろってんだ」 まだピアスホールが完全にはできあがっていないので、もらったピアスはつけられない。 それでも、このファーストピアスを見れば、着々とその日が近づきつつあることを理解してくれるだろう。 ヒカルは、両手を腰にあてて、高笑いした。 鏡に向かい、「どうだ、まいったか」とでも、言わんばかりに。 だが、鏡のなかの自分は得意満面ではなく、照れたような、恥ずかしそうな、複雑な表情をしている。 「あいつ……、オレが、もらったピアスをつけるために、耳に穴あけたって知ったら、どんな顔するかな」 声に出してみると、なぜか、胸がどきどきした。 「いや、待てよ。あいつのことだから、気がつかないっていう可能性のほうが高いかも」 気づくかなと思っても、どきどき。 気づかないかなと思っても、どきどき。 ヒカルは両手を腰から離し、ぺちぺちと頬を叩いた。 なんとなく照れくさくなって、鏡のなかの自分から視線をそらすと、壁の時計が目に入った。 「おっと。時間だ、時間。朝メシ食うヒマ、なくなっちまう」 ヒカルは、布団の脇に荷物を寄せて、同室の桜野の手前、かたづいているように見せかけてから、あわただしく部屋を出ていった。 食堂で、焼魚をメインとした和朝食をたいらげると、職員たちに連れられて、集合場所である旅館の玄関へと向かった。 まもなく送迎バスが到着するという。 ヒカルは、お歴々を出迎えるべく、長椅子から立ち上がった。 院生になってすぐの頃に比べると、多少は礼儀も身についてきたようである。 ところが。 寒暖差にくもる玄関の自動ドアをくぐって、ヒカルの前に現れたのは、入段4〜5年目の、まだまだ若手と称される年齢の棋士ばかりだったのだ。 参加予定棋士として名前が挙がっていたなかで、実際にやってきたのは、一柳・桜野・アキラの3人だけ。 残りは、明らかに「師匠の代理で来ました〜」といった雰囲気の者ばかり。 驚いたのは、ヒカルだけではない。 むしろ、イベント担当の棋院職員のほうが、白目をむきそうな状態だ。 参加客が喜びそうな有名棋士のほとんどが、当日になってキャンセルし、ことわりもなく門下生をよこしたのだから、その心中は察して余りある。 代理とおぼしき若手棋士たちは、「こんないい温泉宿に泊まれるのに、なんで師匠は嫌がったんだろう」と、口々に喜んでいる。 彼らは、まだ知らないのだ。 自分たちが、師匠のかわりに遣わされた、いけにえの羊であることを。 <コメント> 500面打ちは、実際のイベントで行われています。 このあとの「救済」「メビウスリング」「恋歌」「朝焼け」まで、湯けむり温泉旅情が続きます。 どうしても使いたい言い回しがあるのですが、その言葉が出てくるのが、どの回になるのかは、まだ未定です。 エセ中国伝奇は、ちょうど一段落ついたところですので、ちょっと放置の予定です。 「そっちも書け」というご意見がありましたら、お知らせくださいませ。交互に更新することも可能だと思います。