023. 救済 ヒカルとアキラは、イベント会場である近くの小学校へ向かうべく、旅館の送迎バスに揺られていた。 かちかちに固まった雪の積まれた路肩や、朝の冷え込みで凍ってしまった歩道は、慣れない者には歩きにくいため、ほんのわずかな距離ではあるが、バスで移動するというわけだ。 旅館のバスは、それほど大きくはないので、参加棋士と棋院職員が同時に乗るには定員オーバーである。 そのため、三度にわけてピストン輸送をするという。 ヒカルとアキラが、おなじバスに乗る確率は3分の1。 だが、乗車順序は無作為に決定されるわけではない。 「それじゃあ、支度の整った方から乗ってくださーい」という職員の声に従って、棋士たちがずるずると適当に乗り込んでいくのだから、確率は限りなく1…つまり100%に近い。 そして、ヒカルのとなりにアキラが座る確率も、言わずもがな、だ。 ヒカルが、二人掛けの座席の窓側に座った0.5秒後には、アキラが当然のように並んで座っていたのだった。 「よお、塔矢」 ヒカルは、自分の耳元を少し気にしながらも、さりげなさを装って、声をかけた。 気づくかな。 気づかないかな。 どきどきどき。 そんなヒカルの乙女心を知ってか知らずか、アキラは満面の笑みを浮かべている。 (お。気づいたな、おめえ。気づいただろ、おい。気づきやがったな、ええ、こら) 心中の言葉遣いはさておき、ヒカルは、アキラの視線を意識して、少し照れくさそうにうつむいた。 なんだか耳元がくすぐったい。 うれしいような、恥ずかしいような。 がらにもなく、人差し指を胸の前で突っつきあわせながら、ヒカルは、アキラの言葉を待った。 「おはよう、進藤。このイベント、キミも参加していたんだね。なんて嬉しい偶然…いや、これはきっと、運命なんだろうなvvv」 タイヤに巻かれたチェーンの音と、バスのエンジン音に遮られて、アキラの言葉のうしろ半分は、ヒカルには聞き取れず、ただ、このうえなく上機嫌なのだろうということだけが、その表情から見てとれた。 アキラが上機嫌である理由は、思いがけないところでヒカルに会えたからに他ならないのだが、ヒカルには、そんなことはわかるはずもない。 むしろ、無駄に微笑み続けるアキラの表情を見て、妙に力が抜けるような気がした。 「ちぇ〜。塔矢のヤツ、気がついてねえでやんの。なんだよ、ぬかよろこびさせやが……」 窓の外へと顔を向け、小声でつぶやいたところで、ヒカルはぷるぷると頭を振った。 (違う違う! オレは別に、塔矢がピアスに気づいたv…なんて、喜んじゃいねえっ! だから、これは、ぬかよろこびなんかじゃないっ!) 「……ぬかどきどきさせやがって」 ヒカルは、ため息とともに、小さく毒づいたのだった。 やがて、バスは目的地に到着した。 バスから降りた棋士たちは、イベントの実行委員や地元の役場の職員に出迎えを受け、そのまま体育館へと向かう。 「進藤。ここ、滑りやすいから気をつけて」 「おう……っととと」 入り口の手前の段差で、アキラは、ヒカルに注意を促したが、そのそばから、ヒカルは足を滑らせてしまった。 「進藤!」 アキラがあわてて手をさしのべるが、ヒカルは、持ち前の運動神経のよさをもって、自力で体勢を整え直した。 「ふい〜。危ねえとこだった……ん?」 足元を確認してから顔をあげると、そこには、表情を固まらせたアキラの姿があった。 表情だけでなく、身体全体が固まっているようだ。 「お〜い、塔矢? どうした〜? と〜やぁ〜」 目の前で、ヒカルがてのひらを振ってみせると、アキラはハッとしたように頬を強張らせた。 「……先に行く」 今までのとろけそうな声とはまったく異なる、冷たい声音で言い放ち、アキラはくるりと踵を返した。 「??? ……なんなんだよ、あいつ」 アキラのうしろ姿を呆然と見送ったあとで、ヒカルは首を傾げた。 言いようのない不安がこみあげたが、その正体は、ヒカルにはわからないままだった。 行政主体のイベントらしく、町長の挨拶やら、実行委員長の開会宣言やらを経て、ようやく1000面打ちが始まった。 出待ちのあいだ、ヒカルは、ちらちらとアキラのようすをうかがっていたが、アキラは、ヒカルに気づかなかった。 いや、わざとヒカルのほうを見ないようにしているようなふしさえある。 (なんだよ、塔矢のヤツ!) 不安がイライラへと変化していくのを感じたが、ヒカルはプロ意識をもって、なんとか気持ちを切り替えた。 アキラの受け持ち場所とは、かなり離れている。 ひとたび碁に集中してしまえば、もう何も見えないし、何も聞こえない。 初めての40面打ちへの緊張もあって、アキラの存在は、ヒカルの意識から、しばらく消えることとなる運命だった。 アキラもまた、盤に向かっていた。 40人を相手に同時進行する、お祭り色の濃い指導碁だからといって、ぞんざいに打ったりはしない。 必ず一旦立ちどまり、対局相手に向き合う。 碁を大切にする棋士として、また相手への礼儀として当然のことだが、なかには、進行方向へ足を向けたまま打っていく棋士もいたので、アキラの生真面目な態度は、対局相手のみならず、イベントスタッフにも好印象を与えていた。 どんなときでも、真摯に碁盤に向かう。 だが、今のアキラは、かろうじて盤面を見てはいるものの、その目はうつろだ。 がっくりと肩をおとし、頭をうなだれて。 アキラをよく知る者から見れば、いつもの姿勢の良さはどこへ行った…という印象が否めない。 進藤がピアスをしている。 進藤が金色のピアスをしている。 進藤が金色のまるいピアスをしている。 ボクがプレゼントしたものではないピアスをしている。 ヒカルが体育館の入り口で転びそうになったとき、アキラは見てしまったのだ。 髪で隠れていた耳元があらわになった瞬間、きらりと光ったその球体を。 ファーストピアスには、装飾の少ないものを用いるべし。 アキラが、そんなセオリーを知るはずもなかった。 自分で買ったのだろうか。 ボクがあげたピアスは、気に入ってもらえなかったということか。 他の誰かにもらったのだろうか。 ボクよりも、そのひとにもらったピアスのほうが大切ということか。 そのひとのために、耳に穴を穿ったのだろうか。 ぐるぐると物思いにとらわれて、自分が打っている碁を見ても、アキラには初めて見る局面のような気がしていた。 そのため、アキラは何度も局面を把握しなおさなければならなかった。 もちろん、それが瞬時にできてこそ職業棋士。 当然、対局相手に不審がられることはなかった。 ……が。 40人を相手にする指導碁には、落とし穴があるのだ。 事務用の長机のうえに、ビニール製の簡易碁盤。 座っている一般客には、やや高く感じられるが、立っている棋士にしてみれば、低すぎるくらいだ。 微妙な高さの盤に向かい合うためには、ちょっとした心構えが必要である。 うしろで手を組んだり、意識して背筋をのばしたり。 そうやって気をつけていても、その落とし穴を避けきるのは難しいという。 その落とし穴とは。 腰痛である。 1時間半にわたる指導碁の終了後、参加棋士のほとんど全員が、腰に手をあてながら、おぼつかない足取りで体育館を出ていったのが、多くの参加者に目撃されている。 彼らの師匠であるベテラン棋士たちは、こうなることを知っていたのだ。 だからこそ、自分の代役として、門下生をいけにえにしたのである。 宿泊先の旅館に温泉があることだけが、唯一の救いかもしれない。 そして、アキラもまた、ひどい腰痛に苦しめられていた。 いつもどおりの姿勢の良さを発揮できていれば、おそらくもっと軽症であったに違いないものを。 さらに言うなら、必要以上に、局面への精神の集中と散漫をくり返していたアキラは、まさに疲労困憊といったありさまだった。 そこへ追い討ちをかけるのは、目の奥に焼きついて離れないヒカルのピアス。 その金色の輝きは残像となって、アキラの目に突き刺さる。 囲碁界の王子様とは遠くかけ離れた風体で、アキラは会場をあとにしたのだった。 そして、その頃、ヒカルはというと。 たったふたりだけの女性棋士ということもあって、一般客との記念撮影や握手に追われていた。 タイトルホルダーのかわりに参加した低段棋士だというのに、思いがけず好意的な反応が得られて、ヒカルは大満足だった。 他の棋士が苦しめられている腰痛に関しても、男性よりずっと背の低いヒカルだけは、それほど腰に負担がかからず、「ああ、疲れたなあ」と、首をぐるぐるまわす程度で済んだ。 ちなみに、ヒカルより大柄な桜野は、「あいたたたた…」と、しきりに腰をのばしている。 「あとで温泉に行きましょうねv」 苦笑しながら腰をさする桜野に、ヒカルが誘われたのは、旅館へ戻るバスのなかだった。 となり同士の座席にすわる自分と桜野。 ヒカルは、漠然とした違和感に、あたりを見まわした。 こういう場面では、必ずヒカルのとなりにいるはずのアキラの姿が見えない。 どうやら、このバスには乗っていないようだ。 先刻の冷たい声を思い出して、ヒカルは表情を曇らせた。 正体のわからない不安が、ヒカルの胸に立ちこめていく。 まるで、今にも泣き出しそうな、灰色の低い雪雲のように。 <コメント> なんちゃってシリアス。ベタですみませんねえ。 腰痛は温泉で救済? でも、アキラさんは救われませんでした。 次のお題も「メビウスリング」なんていう、ややこしいモノなので、当分ダメでしょうな(酷)。←でも、ベタだよーん 使いたかった言葉は「ぬかどきどき」。某お茶室にて、先輩が仰せられたセリフです。 近いうちに、もう1回、使わせていただきます(笑)。