024. メビウスリング(1)
元湯付近に位置する純和風旅館『檜屋』。
老舗というほどの風格はまだない、比較的新しい宿だ。
その名の通り、太く大きな檜の梁がむき出しになった豪快な造りは、長い雪の季節をいくつも過ごしたら、やがて味わい深い趣を醸し出すようになるだろう。
ただ、現在のところは、まだ新しい檜材がその芳香を以って、旅館の未来の姿を想像させるにとどまっている。
その檜屋の玄関前には、「歓迎 日本棋院御一行様」の白い文字が並んだ縦長の黒板。
宿泊しているのは、日本棋院の関係者のみである。
いけにえの羊のような棋士25人と、雑務をこなすイベント課の職員が数人。
さほど大きくはないその旅館は、それだけで満室になってしまった。
イベントの参加客は、別の場所に泊まっているのだろうか。
温泉観光地の常として、辺りには旅館やホテルが林立しているので、宿泊施設には事欠かない。
あるいは、このイベント自体が地元の雪祭りの一環であることから、近郊からやってきた日帰りの客が多いのかもしれない。
日本棋院主催のイベントではないため、それらの手続き業務がないぶん、職員の負担は少ないと言えた。
夕食後、棋士たちの部屋を訪ねて、「日本棋院」の印刷の入った封筒を手渡すのが、今日の最後の仕事だ。
訳知り顔の先輩職員から渡されたその封筒の中身はわからないが、ただ渡せばいいと申し送られていたので、事務的にこなしていく。
あらかたの部屋をまわり終えて、残るは女性棋士…ヒカルと桜野の部屋のみ。
こんなイベントなら大歓迎だ、このあとはゆっくり温泉に浸かりましょうと、口々に喜びを表現しながら、廊下を闊歩するのだった。
その頃、ヒカルは部屋にいた。
腰痛に悲鳴をあげる桜野を支えて大浴場へ行き、食堂へ行き、やっと部屋に戻ったところである。
「大丈夫? 桜野さん」
すでに敷かれていた布団の上掛けをめくると、桜野が極力振動を抑えるように腰をかがめ、ゆっくりと手をついた。
かなり辛そうな様子だ。
「あいたたた。ごめんね、進藤くん。いろいろ助けてもらっちゃって」
海老のようにまるくなり、じっとしたまま動けないながらも、桜野は申し訳なさそうに詫びた。
「ぜんぜんっ! 気にしないでよ、桜野さん。オレはあんまり腰に来なかったみたいだし。困ったときはお互いさまだよ」
ヒカルは、一様に腰をさすっていた棋士たちを思い出して、気の毒そうに笑った。
その棋士のなかにはアキラも入っており、ヒカルは少し遠い目をして想いを馳せた。
(あいつも、けっこう辛そうだったよなあ。大丈夫かなあ……あ、そーいや……)
ただ心配していただけのはずだったのに、先刻のアキラの冷ややかな視線まで思い出してしまった。
(なんなんだよ、塔矢のバカ。いきなり冷たい目で見やがりやがって。何が気にいらねえってんだ)
にわかに怒りがわいてきたが、同時に、なぜか不安な気持ちもふくらんできた。
帰りのバスも晩メシの席も自由だったのに、となりに塔矢がいなかった。
いつも近くにいるはずの塔矢が、離れたところで、つんとすましてた。
無駄に機嫌よく笑ってばかりいる塔矢が、オレのほうを見ようともしなかった。
……ずっとこのままなんて、なんか、すっげーやだ。
「……くん。進藤くん」
眉根をさげて、窓のほうをぼーっと見ているヒカルは、桜野の声に、ふと我にかえった。
「へ? あ、なに? どうしたの、桜野さん」
「今、ノックの音が…。誰か来たみたい。悪いけど、出てもらえるかしら」
桜野の言われて、ヒカルはドアのほうへ振り返り、「はーい」と返事をした。
訪問客に心あたりはない。
だが、なぜか、頭に浮かぶ人物があった。
(まさか…まさか、塔矢じゃないよな)
ドキドキと、うるさい鼓動を手で制しながら、ヒカルはドアをあけた。
「やあ、進藤くん。お疲れさま。はい、これ」
ドアの外には、顔見知りの職員が数名。
ヒカルに封筒を手渡すと、そのままくるりと向きをかえて去っていった。
彼らの足取りが軽いのは、気のせいではないだろう。
お疲れさまでしたとか、このあとは温泉ですなとか、楽しそうに話しているのが聞こえてくる。
遠ざかっていく楽しげな背中から、手のなかの封筒に視線を落とすと、ヒカルは「はあ…」と、ため息をついた。
「……また、ぬかどきどきしちまった」
部屋のなかへ戻り、桜野と一緒に封筒をあけると、なかには湿布薬が入っていた。
こうなることを見越していた古株職員からの差し入れらしい。
少し身体を動かすだけで顔をしかめる桜野を気遣いながら、ヒカルは湿布薬を貼るのを手伝った。
その後、なにげなくテレビをつけると、ヒカルが毎週欠かさずに見ているバラエティ番組が放送されていた。
人気のピン芸人の毒舌トークに惹き込まれ、桜野は何度も吹き出して、そのたびに「いたたたた…」と、腰をさすっていたのだが、ヒカルは、いまひとつトークの流れに乗りきれずにいた。
小一時間ほど経って、来週の予告カットが流れたところで、桜野が提案してきた。
曰く。
「お風呂に行ってきたら?」
さっき、一緒に大浴場に行ったばかりだというのに、なぜ、また風呂へ行かねばならんのだ。
ヒカルは、不思議そうに首をかしげた。
「進藤くんは気がつかなかったのかもしれないけど、大浴場の奥に、洞窟風呂があるって書いてあったのよ。その先には露天風呂もあるんですって」
桜野は、「わたしはこんな状態だから、進藤くんだけでも楽しんでいらっしゃい」と、しきりに勧めてくる。
元気のないヒカルを気にしてのことだ。
せっかくの温泉旅館なのに、ヒカルを、具合の悪い自分につきあわせてしまったと、勘違いしているようでもある。
温泉を楽しむ気分ではなかったが、桜野に気をつかわせるのも本意ではないと、ヒカルは、「それじゃあ…」と、バスタオルを持って立ちあがった。
冬の室内に特有の高すぎる室温の不快感はなく、ほのかに薫る檜の芳香のなかを、ヒカルは大浴場へと歩いていった。
夕刻から降り始めた雪に、外の気温は氷点下近くまで下がっているが、館内は暑すぎず寒すぎず、快適な室温が保たれている。
まだ築浅い旅館である檜屋は、堂々とした風格こそないものの、最新式の設備を誇っており、エアコンの性能も優れているようだ。
客室のオートロックは言うに及ばず、大浴場のロッカーにも、暗証番号を自由に設定できる鍵が取り付けられていた。
よくある4桁の暗証番号を設定するシステムだが、お決まりのように、「0000や誕生日や電話番号は使用しないでください」と、注意書きが添えられている。
だが、自分と無関係な4桁の数字を、とっさに考えて記憶する能力に、ヒカルは、まったく自信がなかった。
そのため、本日2回目の利用であるヒカルは、前回とおなじように、「1214」と打ち込んだのだった。
Enterキーを押すときに、自分の頬が赤くなっている自覚は、まったくないままに。
<コメント>
お題が難しいです。
メビウス関数に脳内誤変換されたお題を、湯けむり温泉旅情へ、なんとか再変換。
流れるプールが、1周してもおなじところに戻ってこられなかったら困るなあ。
2周したら戻ってきた…なんてことになったら、もっと困るし。
温泉に浸かったつもりが、いつのまにかお湯の外にいたなんて、大問題だし。←これはクラインの壷
湯けむり温泉旅情編で、告白までいけるか!?
アキラさんの出番は、次回です。

