024. メビウスリング(2)
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024.
 メビウスリング(2)



 

 白く曇るガラス扉をあけると、清潔なタイル貼りの大浴場には、先客がいた。
 後ろ姿でよくわからないが、どうやら中年の女性であるらしい。
 大きなボトルのマイシャンプーやマイリンスをプラスチックのカゴに入れて、シャワーの近くに置いている。

 今日の女性宿泊客は、桜野とヒカルのふたりだけ。
 日帰り入浴にしては、時間が遅すぎる。

(この旅館に勤めてる人かな)
 ヒカルは、すぐにピンときた。

 夜間勤務の従業員は、夕食前後の混雑時を避けて、夜遅くに大浴場を利用するものなのだ。

 温泉地でのイベントに何度か参加して、経験のあるヒカルは、物慣れた様子で、「こんばんわー」と、挨拶した。

「すみませんねえ、お客さまのお風呂を使わせていただいて。髪を洗ったら、すぐに出ますから」
 恐縮する女性に、ヒカルは、「こんなに広いんだから、気にしないで、ゆっくり入ってよ」と、愛想よく答え、身体を洗い始めた。

 本日2回目の入浴であるから、軽く流す程度で済ませ、ヒカルはお目当ての洞窟風呂へと向かった。



 内湯側から見るぶんには違和感のないアルミ製の引き戸をあけ、暗がりに少し目を慣らす。

 壁面に埋め込まれた、蝋燭を模したオレンジ色のほのかな電球だけが、あたりを照らしている。
 ごつごつとした大きな岩が配置された、狭い通路のようなそこは、まさに洞窟のようだ。
 本来ならば通路であろう場所に、立ったままでも胸まで浸かる深さの湯が張ってあるのが、洞窟風呂の名の由縁であろう。

「すげえ。超リアル……って、洞窟なんか行ったことないから、わかんねえけど」
 ヒカルは、ボケと突っ込みをひとりで演じながら、ざぶざぶと洞窟風呂のなかを移動していった。

 岩々のあいだを蛇行して進むため、実際よりも奥行きのある空間のように感じさせられる。
 ヒカルは、ちょっとした探検気分を味わった。

 やがて、視界がひらけた。
 露天風呂に着いたのだ。

 雪はあいかわらず降り続いており、竹垣や石灯篭に、うっすらと白く積もっている。
 立ちのぼる湯けむりが、気温の低さを物語る。

 ずっと湯のなかを進んできたため、ヒカルは、バスタオルどころかフェイスタオルすら持っていなかったが、温泉の効果で身体が十分にあたたまっているのか、まったく寒さを感じなかった。

「……あんまり広くないんだな」
 竹垣で覆われた小さな日本庭園を目にして、ヒカルは正直につぶやいた。

 温泉旅館が密集しているという立地条件では、しかたのないこと。
 それでも、常緑の植栽や、つるりと美しい大きな石が、効果的に配置されているのは、一流の造園家の手によるものなのであろう。

 だが、ヒカルに、その繊細な美を理解することを望むのは、少し酷だったようだ。

 だだっぴろい空間こそ露天風呂の醍醐味であると解釈しているヒカルが、小さくまとまった庭園の形式美を楽しむことはなく、通常よりやや深めの湯のなかを、ただひたすら泳ぎまわることに終始したのだった。



「あー、さすがに疲れたなあ。そろそろあがるか」
 ヒカルは、ざばっと豪快な音をたてて立ちあがり、洞窟の入り口へと向かった。

 来たときと同様に、蛇行する暗い洞窟のなかを、ざぶざぶと歩く。

「さっきも通ったのに、なんか初めて通るみたいに感じる。……反対側から歩いてるからかな」
 ヒカルは、試しに後ろを向いて進んでみたり、その場でくるっとまわってみたり、ふざけながら進んでいった。

 桜野の提案は効を奏し、鬱々としていたヒカルには、いい気分転換になったようである。






 アルミの引き戸をあけたところで、内湯の大きな浴槽に浸かっている人の後ろ姿が見えた。

(さっきのおばさんかな。いちおー挨拶しとこっと)
 ヒカルは、「お先しまーす」と、軽快に声をかけた。

   ぴく

 浴槽から少し出ていた肩を小さく震わせて、恐る恐るといった感で振り向いたのは……ここにいるはずのない塔矢アキラであった。

(ななななな、なんで? なんで塔矢がいるんだ? いつだったかの温泉でも、こんなことがあったような……)
 ヒカルは声もなく、ただ立ち尽くした。

「うわあああっ!」

   ざばっ☆

 アキラは驚きの悲鳴をあげ、盛大な湯音とともに立ちあがったが、次の瞬間、おなじ大きさの音とともに、頭から湯のなかに倒れ込んだ。

「と、塔矢!?」
 ヒカルは、あわてて浴槽に飛び込み、アキラを引きずりあげた。

「痛っ! 痛い……」
 浴槽のふちにしがみついて、アキラは顔をしかめている。

「大丈夫か!? どっかぶつけたのか? 頭打ったとか?」
 アキラの背後でおろおろと騒ぐヒカルに、アキラは唸るようにつぶやいた。

「……腰が」
「なに? 塔矢」
「腰が……ギクって言ったみたいだ……」

 季節はずれのセミにように、浴槽にしがみついたまま、湯のなかで動けなくなってしまったアキラを、ヒカルは、その背後から呆然と見おろしたのだった。



 
    <コメント>

ものすごーく久しぶりです。いつのまにやら、季節に追いつかれてしまいそうです(滝汗)。

大浴場の構造とお題との相違点に気づかれた方。
どうか、生ぬるい目で見守ってやってくださいませ(苦笑)。

重力の存在する地球上では、人間はメビウスリングの表面を踏破することはできんのです。……ありんこなら、できそうですが。